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写真と個の時代

昨日は、写真とお金のことについてかなり、古い話からリアルな面を取り沙汰しました。お金の話は言いにくいという印象が何にでもあるかと思いますが、私は下層にいる人間なんでかえってオープンになれます。


写真についてですが、私はそこを論じる言葉を持たないのが現実です。音楽、美術なども。じゃあ、フォトエッセイは?ということですよね。これはエッセイですから。議論とは異なると思います。少しは論じている時もあるかと思いますが。


写真の巨匠たちからは、日本や海外の多数の作家から影響を受け、それは血となり肉となり、今の私の写真に染み込んでいると感じます。そう、自覚があります。そんなにオリジナリティって簡単なものではないと思っていて、どこかしらから影響を受けていて当たり前なんです。で、いつの間にか同じことをやっている、ってところです。


だから、私ひとりで構築したみたいな意識はまったくないです。むしろ、「私」の部分てわずかなことのように感じます。


五年前に引っ越したときに、巨匠たち、有名どころの写真集はほとんど友達のラボに送ってしまいました。そこに、写真集コーナー作ってあって、お客様が誰でも楽しめるようになっているからです。


写真集の整理してたんですが、素直に見たいものを残したら、ほとんどが自費出版とか、海外のものも誰か知らないけど好きとか、そんな基準です。何だか自分がわかったような気がしました。数冊を残して、巨匠たちとはさよならしました。


そこのところは言葉にするのは難しいのですが、元来の私の気質みたいなものもあるかもしれません。傾向ですね。生き方も。


今、個の時代です。そして写真はもともとひとりで作業します。スタジオワークなどは別としてです。個の表現が巨匠たちとは変わってきているのはよくわかります。そもそも目的が違います。SNSの時代です。アップするために撮っている、私もそうです。個展への強い意識はなくなってしまいました。それより、ネットのリアルタイムのおもしろさに惹かれています。


目的が違えば、写真は自ずと変わってきます。向かう場所が違うからです。


私は常々思っているのが、個の問題から発していることを堂々とアプローチして成り立つのがネットの世界です。これが、私にとって喜びでもあるんです。


フィルムで撮っていた頃、当時も家族をよく撮っていたし、いわゆる「私写真」でした。この頃の悩みは、一体プライベートを撮っていて普遍性が出る時がくるんだろうか、でした。普遍性に辿りつける作家は稀だと思っています。


でも、ネットでは個として表現することが、当たり前です。むしろ、そこを強調することを求められてるように感じます。個の出し方の違いがみられます。


もちろん、今現在ネットだけが表現の場ではないでしょう。noteでも展示のことなど情報ありますが、私は情報の許容量の器が小さいので、上がってくるものをたくさん見れなくてよくわかっていません。


そんな流れでここまできましたが、そして、noteの日々です。とても充実しています。私、note好きです。


そう、ひとつ大きな変化があります。フィルム時代は、「作品」という言葉に縛られていたような気がしますが、今ネットでやっていて、「作品」という意識が希薄です。そうやっていい意味で気負ってない。作家とも思わないし。noteではクリエイターってことになってるけど、曖昧ですね。



それでは、またお会いできますように。
ありがとうございました。



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