弥陀の救いは生きている今、まことに明らかになるものだ。
阿弥陀仏の本願、仏教の真髄は特に歎異抄第1章にあると断言できる。
なぜならば、その意味を正しく理解したならば歎異抄のすべてがわかると言えるほど、重要な一文だからだ。親鸞聖人が一生涯何を教えてこられたかもわかるだろう。
今回は特に誤解の多い「信じて」というキーワードを詳説する。
通常、「信じる」という言葉は疑いのある場合に使われる言葉だ。
例:彼は〇〇大学に合格する
と信じている
例:酒は百薬の長だと信じている
このように「もしかしたら」そうではないのかもしれない、まだハッキリしていない、疑いがある場合に「信じている」は使われる。
反対に、ハッキリしていることを「信じている」とは言わない。
火傷で酷い目にあった人が、「火は熱いものだと信じている」と言わない。ハッキリとした体験をしたからだ。
親鸞聖人が教えられる「信じて」は、「微塵の疑いようもなく、明らかになって(ハッキリして)」という意味で使われる。
それは、何故か?もちろん、親鸞聖人が独自にそう読んだわけではない。一切経(釈迦が一生涯教えられたことを弟子がまとめたもの。七千余巻にのぼる)をすべて何度も何度も読み破られた上での断言だからだ。
釈迦が言われたことをその根拠の一例として、あげよう。
仏智(阿弥陀仏の本願)によって、まこと(信)に明らかになって知らされて、という意味である。
信じて、の「信」は「まこと」という意味である。
あなたの信心が足りなかったから、悪かったなどという意味で使われる場合があるが(偽物の仏教、邪宗教に多い言葉の使い方である、用心すること)、それとは異なり、親鸞聖人がおっしゃっている「信じて」は、釈迦の御教えどおりまこと(信)に明らかになってという意味である。
弥陀の本願(仏法)による救いは、一念(生きているただいま、瞬間)であり、まことに明らかになるものだ。
死んだらお助け、死んだら極楽、浄土真宗は倫理、道徳の宗教などと言っている僧侶がいるが、気をつけねばならない。
そういう僧侶は、門徒(浄土真宗の信徒)を布施(お金)を取るだけとって地獄(苦しみの世界)に突き落とすから山賊より罪が重い。
どうか本稿が仏縁になればと願って。
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