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教員免許持ってるのにどうして先生にならないんですか-大晦日編-

大晦日なので!今年振り返ってみたら21年の薄いながらも色々考えていたなあと思ったのでぼちぼち書いてみました。良いお年をお迎えください

4歳 
幼稚園で自分のペースだけでは生きられないこと、しなくちゃいけないことは先にしていた方が周りからやいやい言われないから差し支えない程度に人と距離を取ろう、必要としている以外あんまり仲良くするのはやめようと思うようになる。義理と人情を覚える。この頃から特別この子は親友やな、という感覚がなく、波風立たせないようにやり過ごしていこうと思いながらお遊戯会シンデレラの劇でネズミに手を挙げる。
幼稚園で飼っていたカモが健気に生きているのを見て人間は楽なのかも(カモだけに)、と思ったのをきっかけに言われたことはまあ素直にするかと思い始める。ドライなつまらん幼稚園児が完成したがおかげで義理で学業に勤しんでみたので成績等は高2くらいまでつまずかずにすり抜ける。

7歳 
小学校の池のカメをいじめているガキにやめなよと言えなかったことと、あんたぶりっ子やからぶりっ子やめないといじめるでとクラスの強い女子から言われたのに言い返せなかったことから、私何も喋れないじゃんと自分に失望して嫌いになる。控えめであることは日本では美徳とされてきたけど今回は絶対言えなきゃいけなかった。今でも後悔してる。
ぶりっ子だった自覚はないけどやめろと指摘されていた喋り方や仕草はやめなかったし、次の日からそのカメに毎日エサをあげた。肝座ってると見られたのか、カメいじめガキと強かった女子とは知らないうちに仲良くなっていた。小学生なんてそんなもん
やりたいことはやらせてもらうし、迷惑かけてないなら私は決めたことはしたい。これは自分の芯の部分にあるのかもしれない


12歳 
クラス内のいじめの俯瞰者になる。
ああ私はいつも逃げてるなと思ったのをすごく覚えてる。加害者でも被害者でもない、見てるだけの私は1番ずるい。アクション起こせよ、クラス変えろよ、という私のおせっかいな責任感が重いプレッシャーになり、学校ってつまらないと思うようになる。
そしてとうとう私が加害者に喧嘩ふっかけてみて1回クラスがバラバラになって収集つかなくなって、先生にはめちゃめちゃ迷惑かけたけど最終的にみんな形式上仲良くはなったとは思う。私できんじゃん、ちゃんと怖い人にも物言えるじゃん。この時に何か変わった気がする。思ったことはちゃんと言わなくちゃいけないし、やっぱりあかんことはあかん、言える人ってかっこいい。
先生は卒業式の日、あんたはやるときゃやれるんだよって褒めてくれた。私はクラスを一瞬ぐちゃぐちゃにしてしまったと思っていたからそれが唯一の救いで、これからは周りと一定の距離を保ちながら、でも大切だと思った友だちが嫌な思いしてるなら私は闘おうって思った。平和主義だけど、やるときゃやるぞ、と。

私が先生になってクラスを潤滑に回してやると思うようになり、そこから本格的に教育の道に進むようになります。卒業文集にも残してしまったのでもう先生になるしかないと思うようになる

13歳 
中学校進学後、教師を諦める。無理だと思う。タバコ吸ってる中学生相手に暴力振るいかねないような、保護者対応、警察との連携等々、教務と学級運営以外にしなくちゃいけないことが私には多すぎた。

その頃尾木ママがテレビにたくさん出ていて、教育現場で丁寧に教育すればきっと子どもにも届く・愛情たっぷりで育ててあげたら素直に子どもも受け取ってくれる という言葉が私には刺さった。私の同級生や先輩に先生からの愛は届いてなかったのか。先生は業務が多すぎて教師の業務の本質、子どもと向き合うこと に目がいってなかったんだ。
小学生の頃読み漁っていた齋藤孝さんの教育本と読み比べながらも教育の勉強っておもしろいのになという教師妥協したくない私が葛藤を始める。
どうしたら先生が子どもと向き合えるような環境が作れるんだろう、という環境づくり・地域づくりに興味を持ち始める歳。多感ですね〜

15歳 
中学卒業後を考えた時、勉強じゃなくて勉強できる環境づくりの改善について考えることが好きなんだと気づき、こりゃ勉強は高校でもしなくちゃいけないなと思い、勉強頑張って高校にいく、大学も同様、教育の勉強がしたくて教育学部にすすむ


20歳
成人式の実行委員をしていたとき、地元の問題に目がいくようになる。
ボランティアにはめちゃめちゃ行っていたので、問題意識はずっと地域に対してあって、そんなのもええやんええやんと全肯定してくれる関西弁の教授と、研究できる環境があったから色んな地域に行って、現地の方の話を聞いて、知見をもっと広めたいと思うようになる。

21歳
免許も結構取ってみた(小学校,中高音楽,特別支援学校,幼稚園,保育園,社会福祉士,教育士)私がいて、さあ先生になるかという12歳の私、いやいやと止める13歳の私、せやなもっとあるやろという20歳の私、いろんな私がいましたが悩んで悩んで進路を丁寧に決めました。

見えた進路に向けて、1本に絞ったのでもうやるしかないとなる。試験・就活・面接等々始まって、1年費やして力入れたのでまあまあ体力も削られるし卒論もあると。しんどかったな〜。勉強はずっとミスドでしていたのでもうミルクティーが私の故郷の味。どこもだめでニートになったら一生ミスドなんか行かないと決めたけど決まったのでミスドのミルクティー・ハニーチュロセットは私の聖地巡礼コースとなるでしょう。
面接は私が今までしてきた勉強について、考えている社会問題について、教育について考えてきたことを素直にお話ししたらどこも受け入れてくれました。これは感謝

テーマパークのアルバイトで鍛えた声のでかさと、ちょっときついこと言われても物怖じしない芯の強さができましたありがとう、、内定者説明会に行ったら目力を褒められた、評価されたのって内容ではなくてガッツなのかしら、、

そして、私はめちゃめちゃ自分を卑下する。謙虚にしか生きられないって決めつけてた。今まで自分嫌いだなと思ってきた機会が多くて、私ってこんなもんというレッテルが全く剥がれなかった。今も。でも、いろんな人からたくさん刺激をもらって、前向きに地域の問題や好きなことみつけて、それをお仕事にしていけたらって試験も面接も頑張れた。成人式の実行委員も、バイトも、それよりもっと昔から色々考えてきたことは全部繋がってたんだ。

私がとりこし苦労してターニングポイントになろう箇所で色々考えて答えをもっちゃりでも出してきたのは正解だったろうかと考えることがあるけど、正解もなにもやってきたことが事実として今の私の糧になっているんだから、まず自信を持とうとは思おう。
決して濃い人生を送ったわけでもなければ狂うほどの大恋愛をしたことも、戦争に行ったこともないなら平和な現代日本人と言われてもしょうがない、でも私なりにとりこし苦労して生きてきた21年。これは譲れませんね。

その度これらの思いは、都度必ず文字にして残してきたので感情として残っています。私が昔のエピソードトークガンガン喋れるのは、文字として記憶した上に音とか匂いを一緒に記憶するから、たまにフラッシュバックして文字がするっする出てくる。

ああ人生捨てたもんじゃないや。

あーあ全部やめてやると思ってたことも、死にたいと思うくらい精神安定せずでしんどいこともそらあるけど、今に繋がってるんですよね、いつかしんどかったなあ、そういう時はこうやって対応したな〜という私のイレギュラー対応マニュアルの一文になると思うと、何でもかんでも背負い込みすぎず対処できるんじゃないかなと思ったりもする。

社会で恩返しがしたい。庭掘ったら石油出てくるみたいなミラクルでも起きなきゃ大金持ちになることはないけどいいんです、毎日丁寧に生きていけたらいいんです。空は青いと、雲は白いと、思えるくらいの時間と心の余裕があればそれでいいんです。

2024どんな年になるかしら

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