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普通のいい子 団士郎

普通のいい子
作:団士郎
「2017小陰の物語 見える・見えない」より

ごく普通だと
思われていた子が
事件を起こす。

やりそうだと
思われていた子の問題より
周りのショックは大きい。

そこでは大人の見込みが
はずれているからだ。

親や教師は
分かっていると
思っていたい一族である。

世の中は、
目に見えて問題のある
子への対応に、
エネルギーを注ぎ続けている。

現実問題として、
やむを得ないという
意見も分かるが、
つまらぬ結論だ。

考えてみて欲しい。

取り柄と言って
何があるわけでもないが、
真面目にきちんと生活している。

特別な問題を起こすわけではない。
いわゆる平凡な子だ。

こういう生徒を
教師は記憶していない。

教師だけではない。
各分野のいわゆる専門家は、
手のかかる子や
問題を抱えた人のために骨をおり、
充実感と挫折感の間で舞い踊る。

そして学校に迷惑をかけず、
家でも忙しい両親を支えていた子の
抱えた込んだ無理に気づかない。

手のかからない、
本当にいい子だと
親から言われていた娘が亡くなった。

薬の誤飲とも、
自殺とも、
判断しかねる状態だった。

「我慢ばかりして、
いい子を演じ続けた
子ども時代だったと思う」

「本当は私だって
弟や妹のように、
ワガママも言いたかった」

やっとそう言えるようになった
二十代前半の結末だった。

若い娘の葬儀とは思えない
多数の会葬者があった。

誰かのために
骨身をけずって
惜しまない癖を
止められずに折れた。

私たちの周囲にも、
よい子はたくさんいる。

その子達が
よい子であるが故に、
抱えた諦めや絶望を見落としてしまう。

だからと言うので、
「子どものサインを見逃すな!」
などと、使い古しの言葉を
叫ぶ人がいる。

よくそんな
電柱の標語のようなことを
言っていて平気だなと思う。

慌ただしく暮らす大人に
子どもの胸の内など
ほとんど見えない。

子どもも
言っても無駄だと
思っているから黙っている。

そう考えたら少しは
分かりやすいだろう。

「なんとかしてくれ!」
と叫べている子は
まだ大丈夫なのだ。

なんだかんだ言いながらも
その声に応えて
くれるかもしれないと、
家族や世の中を信じらている。

言っても仕方がないと
諦めている子が
なにも話さない。

こんな子に「他者」と
「言葉」への期待を
回復させるのは、
簡単なことではない。

しかしそこから
始めなければならない。

それは親の仕事だし、
大人の仕事だと思う。

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