雑な所感2

ママがいい!母子分離に拍車をかける保育政策のゆくえ
著:松居和

https://youtu.be/tkdP6xZFyLM
この動画を見て読んでみたくなった。

 読了してみて。書かれている文章、選ばれている言葉が頭よりも感情を捉える甘美な感覚を受けた。(これは小説ではなく、日本の保育政策への憤りを述べているものであるの)この辺りは著者が、音楽家(尺八奏者)という面を持っているせいではないかと感じたりする。(松居氏の他の著書を読んだ事がないので比較することができないが)
 自分自身が現在、幼児の子育て時期という事もあり非常に示唆に富む内容だった。1番教えられた事として、この本で書かれている「保育」言われる時間は人間形成に重大時間であること。その時間とは子供だけに言えるのではなく、親が人間として成長をする時間でもあること。実際に子供と接すると感じることではあったのだが、著者の丁寧な言葉でより納得がいった。 

親が育ち、社会に絆が生まれること、それが子育てではなかったのか。「子はかすがい」ではなくて「子育てが人類のかすがい」であって、生きる動機だった。

子供たちの成長を「喜び」、子育てを「人生の美しい負担」「生きがい」と感じる人間本来の姿を取り戻さなければ、義務教育の崩壊どころか、この国のモラル秩序が崩壊していく。

 本来の意味で親という経験を経て自立した、大人が居ることで正しい社会が形成できるのであって、大人になる気概もなく年を重ねただけの人間が幾ら居ても正しい社会は作られないと思う。(子供の居ない人を差別するわけではなく、大人になる手段、経験は人それぞれあるだろう。要は大人になる気概があるかどうかの問題。子育てを通じて人は大人になる近道を通る事ができると言いたいだけである)著者の指摘は言い得て妙であり、“かすがい“を失いつつある事が、この社会の大きな問題の一つだと思う。現在の保育政策はその親を育てる機会を悉く失わせる事にしか繋がらないと著者は警笛を鳴らす。

「子育て」は本質的には親が自分を見つめる作業である。子供との関係の中で、自分について、人生について、自分が今いる位置について、深く考えるチャンスを与えられることなのだ。選挙の票集めだけでなく、リツート数、再生回数、「いいね」の数など、インターネットやSNSを媒体に、幸福感を数値化する習慣に異常なほど囚われはじめている時代だからこそ、幼児との言葉を離れた、数値化できない対話が必要なのだ。人間のコミュニケーションに「深み」を取り戻していかないと、人類は危ないステージに踏み込んでいくのだと思う。

 ニュースの横流しで自分も勘違いをしていた部分があったと反省をした。待機児童とは、誰が待機しているのかという主語を捉え損ねていた。待機しているのは、働こうとする親であり子供ではないということ。待機をせずいざとなったら、直ぐに子供を預けられる環境があるという事は、親は子供から離れ、子供は親から離される事になる。待機している期間は親と一緒に居られる時間であり、本来それは正常な時間ではないかということ。親と離れたい0歳児がどれほどにいるのだろうか。人間を生き物として考えた時、子育ての時間が人間という生き物にとって不要なのだろうか。そんな事を本当に肯定できるのだろうか。待機期間を0にする事が正義と示すのは、個人主義、ポリコレ社会、グローバル市場原理と呼ばれる幻想からの強制だろう。そんな強制によって人生で(子供にとっても親にとっても)一度しかない時間を二束三文の金や、誰かから吹き込まれたプライドのために売り渡していいのだろうか。安易と受け渡してもいいのだろうか。この先もこの社会は人間にとって唯一無二の大事な時間を奪い去り続けるのだろうか。それは頭と身体の分離が行き過ぎていないだろうか。著者の指摘する危ないステージに踏み込んでいる気がしてならない。

イクメンという言葉も一般となり、性差による子育て意識の垣根は随分低くなってきていると感じる。その事はとても肯定する事であると思うが、ただ母親の代わりは父親には絶対にできない。乳幼児にとって母親が他には変え難い存在である事は、生き物としてどうしようもない事実だろう。いくらイクメン父親が頑張ってみても母親にはなれない事実。(種々の事情で母親から離れねばならなかった子供でも、その周りの大人の真剣さで救われることはあるだろう。その子のために社会があるとも言えるのかもしれない)できるのならば、子宮から出た後に母親との密着密接な時間、擬似子宮空間で徐々に成長し、その先にある世界を少しづつ拡げていく事が子供にとって望ましいのではないかと思う。では父親の役目とは何か。著者は言う。

自分のちょっとした決意と覚悟が、1人の男の人生を変える。一家の歩む道筋が変わる。そして、彼が信じる「子供たちの力」が証明されるのが嬉しい。息子がいつか父親になった時の人生さえ変わっているかもしれなのだ。この時の父親の涙は、形を変えて家族それぞれの人生の中で生き続ける。いまの保育政策がこのまま進めば、保育は託児、サービス業となり、家庭崩壊は欧米並に進んでいくだろう。それを食い止めるいちばん有効な方法は、父親を父親らしく、子育てに喜びを感じ、家族に対し愛着をもち、責任に生き甲斐を感じる親にしておくことだと思う。彼らの「伸びしろ」は一律に大きく、伸ばしやすいのだ。子供のため、母親のため、何より父親自身の幸せのために、体験させてあげてほしい。社会全体が調和へ向かう近道だと思う。

いま、取り戻さないとならないのは、父親たちの「自信」かもしれない。自分を信じること。それができなくなっているから、それを見た男の子たちが大きくなって結婚しなくなってきているのではないか。

 男の役割とは自信を持って生きることを子供、家族に見せることではないかと感じた。言い換えれば、生き様を示すという事になるだろうか。父親がそんな背中をしていれば、この世界が生きるに値すると子供は無意識に学んでいくのだろうかと思う。それが父親の最大の役割ではないだろうか。

子供、母親、父親、祖母、祖父。それぞれの役割がある。それは生き物としての役割であったり、社会が押し付ける役割であったり。どうも今の社会はその役割を数値化したがり、GDPやら生産性からしか価値を見いだそうとしない。生産性の0の子供と年寄りは価値がないと国の政策が示している。余りにも人間というものを小馬鹿にしていないだろうか。伝統文化からくるそれぞれの役割というものはもう少し大らかで、生き物の匂いがしている気がする。だからこそ我々はこうして生き延びてきた訳のではないか。(絶対的に正しい社会などあるわけはなく、そこには色々な犠牲があったにせよ)
お年寄りと子供を大切にしない社会は、滅びるしかないと思っている。現にそう進んでいる。ここにも絶望があるのだ。

「子育て」は、人間が子供たちの信頼に応えようとすること。大人たちが、子供たちの信頼を失わないように努力すること。

今を生きる子供たちの信頼をこれ以上失わないように、親として努力していくこと。そして我々(社会)が努力し子供たちに示していくこと。
そういう事でしか、子供孫その次の世代には繋がっていかない。そう感じさせられた本だった。
以上

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