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いつも奇跡が起きていた(番外篇)

島で迷う

 荒れる海
 だいぶまえに1週間ほど、五島の上下の島へ行ってきた。上下というのは上(かみ、と読む)五島、下(しも)五島のことである。お盆を挟む前後がいかにも島の、あるいはその地方の風習がよく見えるような気がして、その季節を狙って行っていた。
 福岡から電車で佐世保に出て、そこから船で3時間半で上五島に着く。下へ行く場合は長崎からのほうが便が多い。これで2度目だが、最初は平戸へ行ったのが島を巡るきっかけだった。翌年が五島、その翌年が壱岐・対馬、そして佐渡、またしても五島である。
 なぜ平戸だったのか。違う日本を見てみたかった、というのが大きい。江戸時代に海外に開いていた唯一の窓が平戸である。五島列島に惹かれるのも同じ理由に拠る。列島には60いくつもの教会が散らばり、長崎と一体となって世界遺産申請を行っている。
 長崎の教会はどれも大きく、ぼくには興醒めだが、五島の教会はそれぞれデザインも違い、石・レンガ・木材と資材も違う。漠然ともっている教会のイメージとはかなり違っていることに、まず魅了された。しかも、すべて村民自らの浄財で作られていると知って、畏敬の念さえ覚えたものだ(あとで寺もそうだと分かったが)。
 平戸の飲み屋で聞いた話では、かつては日曜日に人手を集めようとしても、キリスト教の安息日なので難しかったという。バブルがはじけ、不景気に襲われて初めて日曜に人を集めることができるようになったと話していた。そういうお国柄なのである。その店の主人は仏教だが、女将はキリスト教で、客には酒好きの神父がいると言っていた。

 海がひどく荒れた。
 聞けばよく荒れるのだという。船員さんは、どこそこを抜ければ落ち着くのだが、と客を安心させようとするが、いっかな船の揺れは収まらない。
 この時期はお盆ということもあって、よほど早めに並ばないと船中で座席が取れない。畳敷きの4ブロックは人でいっぱいで、無理に上がり込めばスペースがないこともないが、みんな新参者を入れる気はまったくなさそうだ。結局、部屋の外で立ちんぼである。そこには2つ小さな長いすがあるのだが、一方は2人の男性が占め、一方は痩せた若い女が独り占めしている。席を詰めてもらおうかとも思ったが、連れの女が前に立っているので、遠慮してしまう。
 舷側に出ると、子供連れの男性が海を見つめていた。ぼくより年下なはずだが、ぼくは人の年齢が目算できない。毎年、盆の季節になると戻ってくるのが習慣だと言う。大阪に住まっているそうだ。彼も、椅子を独り占めする女性が心外だと言う。その口調は本当に怒っている感じだ。子供2人にビールのあてに買った細いウインナーをあげ、父親には缶コーヒーを買ってきた。彼は飲まずにそれをポケットにしまった。

 話をしているうちに雨が激しくなり、グンと船首が突き上げられ、そのままストンと落ちるのが気持ちが悪く、早々に船内へと戻った。胸が悪くなってきたので、足を踏ん張り、目を船室のほうへ向けて、なるべく近場を見ないように心がけた。2度ほどトイレへ行ったが、戻すことはなかった。さっきの父親が船内へ戻ってきて、荒々しい感じに長いすに腰をかけた。すると今まで座っていた女が立ち上がり、それっきり座ろうとはしなかった。今時の女の子の考えることはさっぱり分からない。
 もう1つの長いすに空きができたので、そこに腰を下ろして隣にいる中年の男性に声をかけた。彼も年に一度の島帰りらしい。ぼくが教会に興味があって島を訪れる話をすると、教会ばかりかお寺も信者の寄進で建てているという。島は漁業もダメで産業がないから、人が出て行くばかりともいう。ここ2年ばかり、盆の恒例の精霊流しも海が汚れるということで中止されているという話には暗然となった。以前に、壱岐島で見聞したことが、ここでも起こっているのか、と。
 ぼくは五島列島とは何かと縁が深いと感じている。じつは旅に出る間際に田中小実昌さん、つまりコミさんの本を読んでいて、そこに上五島の有川のバーで会った女の話が書いてあって、ぼくが泊まるのも有川で、いつもながら奇縁に驚かされた。しかも、島から帰って見た木下恵介の「海の花火」にも五島列島の名が出てきて、奇妙な偶然に取り巻かれている自分を感じる。

幻の民宿を探して
 船がようやく目的地に着き、列に並ぶと、外気に眼鏡が曇った。どんよりした雨もよいの天気だが、けっこう気温は高いようだ。ターミナルからバイク屋に電話をすると、レンタルの原付4台とも貸出中で、翌日の夕方にならないと返却されないという。島で車の足がないというのは致命的である。しかも、雨にたたられては動きようがない。さて、どうしようか、と先行きが不安になってくる。
 仕方なくホテルに電話をすると、迎えの車がやってきた。前に泊まった、海水浴場が歩いてすぐのホテルである。運転手に精霊流し中止の話を訊くと、キリスト教関係の人間が騒いでいるのではないか、という言い方をした。

 外は雨、テレビは北京オリンピック一色である。珍しくノートを広げて旅のメモをする。そして、思い出したのは、佐世保のターミナルの立ちうどん屋のこと。カウンターにサバ焼き、サバ味噌煮、何かのフライなど数種が並んでいて、まるで惣菜屋の趣きだった。そう言えば、長崎の駅前のバスターミナルにあった立ちうどん屋にはおでんがあったので訊いてみたら、長崎あたりではおなじみのセットだそうである。大阪でいくら歩き回っても立ちそば屋がないので、がっかりしたことがある。うどん、うどんばっかりである。

 6時頃にホテルを抜け出して町へと向かった。ゆっくり歩いてもせいぜい20分もあれば届く距離である。雨は霧雨ぐらいの感じで、傘も差さないで出てきた。以前に泊まったことのある民宿に顔を出して、そこのオヤジにさんに聞いた小さな居酒屋の場所を確かめようと思っていた。その前に有川橋のたもとにある自転車屋に寄って、明日の原付のことを念を押しておこうと思った。店内に入るとCDショップを兼ねていて、以前と様変わりである。近くで別の店でやっていたのを畳んで1つにしたのかもしれない。
 奥に女性が一人いて、それがかみさんかもしれない。うろ覚えだが、頭の片隅でチラチラ記憶が点滅している。そのかみさんがあっさりと「明日の夕方というのは間違いで明後日の夕方の返却でした」と言う。もうこうなったらバス移動しかないと覚悟を決めた。それでも早期に空きができたら教えてほしいと頼み込んだ。

 たしかあの民宿はこの自転車屋の脇の道を行って、どこかを右に入って曲がりくねり、路地のどん詰まりにあるはずだと思って、覚えのある通りを行くが、いっかな見つからない。あっちへ行き、こっちへ行くが、どういうわけか有川の町は小さくても迷路のようで、いつしか同じ所を何度も通るしまつである。通りすがりの人にも訊いてみるが、みんな別の宿を言うか、まったく見当もつかないかのどっちかで、行き暮れた思いで一軒の飲み屋に入った。
 あの民宿が見つからないと、その関連で知った小さな居酒屋も見つからない。そこはカウンターだけの4人も座れば一杯になる店で、寿司のタネ箱の向こうに年老いたオヤジが控えるチンケな店だった。うまい店はないか、と民宿の主人に訊いたら、付いてこいというので自転車のあとを原付で追って行った店で、構えの貧弱、内装の貧相に内心失敗したな、と思ったものの、いざ白身をいくつか頼んでみたら、これがうまい。あの宿の主人は正直者だったのだ。一時は疑った自分を恥じた。どうしてもあのどん詰まりの民宿を探さないと……という気持ちになってくる。

 適当に入った店で目の前のサザエの水槽を見ながら、カウンターで品物を2、3注文した。団体が多いので、出来が遅くなる、と言う。たしかに背中のほうから笑い声がけたたましく聞こえてくる。部屋が2つあって、どっちもいっぱいの様子なのだ。
 体調が悪いのかビール1本が飲めない感じで、早々にその店を出て、またどん詰まりの民宿を探し始めた。行き過ぎる人に訊いても分からない。同じところを何度も通っているうちに完全に迷路にはまってしまった。赤い提灯のぶら下がった小体(こてい)の店があったので、そこに難破でもしたように転がりこんだ。
 目のくりっとした、凛とした感じの女将さんと太りじしの女がカウンターの向こうにいて、いそいそと仕事に励んでいる。またしても背中のほうから嬌声が聞こえてくる。島はこの季節は同窓会だ、宴会だでとにかく賑やかなのだ。
 焼き鳥を適当に頼んでまたビール。謎の民宿のことを尋ねるが、どの答えもピンと来ない。女将さん、よく見ると淡島千景に似ていないこともない。嘘をつかないというか、つけない顔だ。それに比べてもう一人の女は石のように黙々と鶏を焼いている。
 結局、ビールを残してタクシーでご帰還となった。
 これがコミさんなら女の一人も見つけてどこかにしけ込むんだろうが、ぼくにはその手の趣味がない。テレビをつけて北京オリンピンクに付き合っているうちに深い眠りについた。

お盆の新しい風習
 雨の音で目が覚める。窓から覗くとひどいどしゃ降りだ。今日は奈良尾という南端の町へ行って、下五島行きシャトルのことを調べてみようと思っている。前は別のところまでタクシーを飛ばして朝早くに船に乗ったが、奈良尾のほうが便が多いらしい。
 ホテルで朝食を食べて傘を差して雨の中を出て行く。5分ぐらいのところにバス停があった。しばらくすると夫婦連れがやってきた。ぼくとは行き先が違うらしい。訊けば同じホテルに投宿していて、これから墓参りに行くのだそうだ。親戚もそこにやって来るというが、なぜその親戚の家に泊まらないのだろうか。立ち入ったことなので訊けないが、家を仕切る嫁さんの負担を考えて、たとえ墓参りに田舎に帰っても、近くに宿をとって、実家には入らないと聞いたことがある。きっとこれもそれにちがいない。
 奈良尾までは1時間半である。途中で年寄り夫婦や年寄り家族が何組か乗ってきては降りていく。みんな別々の墓にお参りに行くようだ。バスから墓が見えることがあるが、こちらでイメージする墓のてっぺんに十字架が乗っかったものをよく見かける。途中で老婆とその息子らしきのが乗ってきた。男はぼくと同じくらいの年格好か、知的障害があるように見受けられる。母親が何やかにや手を出して、息子のことを構っている。それを見ているうちに、ぼくは無性に泣きたくなってしまった。

 島の西側を南に下る路線は、海岸の景色が美しく、見飽きない。
 奈良尾の船の発着場所は終点の1つ手前だった。うっかり通り越してしまって、バラックの小さなバス倉庫しかないところで降りるはめになった。
 町らしきものがあるので、まずはそっちへ歩き出した。もう雨は止んでいる。10分ぐらいで町中、といっても家がいくらか身を寄せ合っているだけの場所で、食事でもしようかと思ったが、喫茶店らしきものが一軒あるだけで、それもお盆休みなのか閉まっている。墓参りに使うのか、家で使うのか、花屋の店頭にあざやかな花が細長いブリキ缶に入れられている。触ってみたら造花で、拍子抜けがした。
 もうこの町にいる理由がない。バス停を見つけると数分で帰りのバスがやってくることが分かった。それにしても暑い。雨が上がって蒸しているのだ。早く帰って海水浴にでも行こう、と決めた。

ざるそばに味付けのり
 青方行きのバスがやってきた。そこで降りて別のに乗り換えないといけない。またしても絶景の海岸の景色を見ながらの小旅行である。
 青方は奈良尾より格段に都会で、ここは前に教会を見るので何回か来たことがあった。通りの記憶が蘇ってくる。乗り換えのバスには時間があるので、駅前の食堂に入ることにした。入り口が狭いわりに中がだだっ広い(これは下五島の福江でも経験したことである)。
 ビールを頼み、肉そばとおにぎりを注文した。周りを見ると、あんが大量にかかったやきそばを食べている人が多い。それがまた半端な量ではないのである。年配の人が平気でそれを食べ切っているのが驚きである。
 肉そばはちゃんぽんみたいな味で、おにぎりは味付けのりを刻んで頭に掛けてあるだけである。いつかざるそばを頼んだら、それに味付けのりが載っていて、何かの間違いではないかと店の人に尋ねたことがあった。味付けのりにはもう免疫ができているし、なかなかうまいものだと思うようになっている。寿司につける醤油の甘さにも慣れてきたのだから、ぼくの舌もいい加減なものである。
 父親が沖縄出身のある料理研究家は九州、沖縄に行くときは東京の醤油を持っていくと言っていたが、ぼくは始めこそヤマサ醤油を使っていたが(お店に用意しているあることが多い)、甘い方がうまいとさえ思うようになった。 
 昨日の夜、飲んだ居酒屋で注文した焼き鳥にも、すごく甘いたれで煮込んだものがまじっていたが、これは意想外のうまさで、いつも塩で焼き鳥を食べるぼくには未知の世界に踏み込んだような感じがした。

朝鮮との距離
 ぼくは前に壱岐・対馬に行ったときに、司馬遼太郎の『街道をゆく』の壱岐・対馬編を読みながら旅行を進めて、非常に奇妙な経験をしたことがあった。
 その本を買ったのは壱岐の書店で、とても小さい構えだが、さすがに地元関連の本を揃えてあった。本を読み出すと、司馬氏は対馬から筆を起こしている。ぼくは壱岐をひとわたり観光したあと、対馬に行くつもりである。つまりぼくの未来がすでに書き込まれたものを読み進めている気分なのだ。
 司馬氏は対馬のなかに朝鮮文化の影響をしきりに探るが片鱗も見出すことができない。ある種、期待を裏切られた思いで壱岐に渡り、さらに朝鮮の影を追い求める。
 偶然と言うべきか、当然と言うべきか、ぼくも朝鮮との地理的な近さ、歴史的な交流から言って、壱岐・対馬に期待していた朝鮮の面影がとんとないことに驚き、落胆していたので、司馬氏の鬱屈が手に取るように分かった。
 エッセイのラストが秀逸で、老婆が一人でやっているスナックに雑誌の編集者、画家とカウンターに座ると、その目の前に朝鮮観光のポスターがかかっていて、その老婆もかつて朝鮮へ出稼ぎに行ったことがあると来歴を吐露する。
 司馬氏は、とうとう壱岐・対馬に朝鮮の影響を認めて、やや安堵する気持ちで筆をおく。
 ぼくはその結末を対馬で読むことになる。その頃にはほぼ朝鮮の影を追うことは断念して、ただの観光客となってあちこちと原付を駆っただけである。

 司馬氏は両島に朝鮮の影響が少ない理由として3つを挙げている。1つは、新羅・唐連合軍との戦いで百済を支援した日本軍が敗れ、それ以降も百済再興などを画すが、白村江の戦いで決定的な敗北を喫し、それ以降、つねに朝鮮からの侵略を恐れて壱岐・対馬が最前線の基地になったからではないか、と推論する。
 ぼくは対馬藩の菩提寺でこれを実感することができた。暗く狭い社殿の中に徳川歴代の将軍の像が並べられているのを見たからである。地方のお寺でこういうものを見るのは初めてのことである。いかに中央政府の息がかかった地域であるかが分かろうというものである。
 2つめは、京都・吉田神社の禰宜職を代々担ったのは、対馬の神主だという。それがために、儒教の国・朝鮮からの影響が入りにくかったのではないか、とする。
 もう1つは海流の激しさで、指呼の間の近さのわりに往来に不便があったのではないか、と言う。
 歴史的にはたしかにそうかもしれないが、壱岐・対馬でも、そして今度の五島でも、韓国が高度成長を遂げるのに平行してペットボトルやら何やらどんどん漂着し、ここ最近は中国からの漂流物がひっきりなしに運ばれてくると、島の人びとは慨嘆する。
 それにしても方や壁張りのポスター、方や廃棄物で朝鮮とのつながりを想像するとは異なものである。

親切な役場の人
 食堂を出て、町役場に電話を入れた。
「50歳近い夫婦がやっている民宿で、家の前の細い道がほとんど行き止まりの感じで、1階は夫婦が使ったり、お風呂があったりで、客は2階に泊まるようになっていました」
 観光課の人は親切で、いくつか候補を挙げて、実際に連れて行ってくれるという。しかし、細部を確かめると、ぼくが伝えた中身とはほとんど縁がないようなところを紹介しようとしているのが分かり、丁重にお断りをする。ほかにも探してみると言ってくれたので、ホテルに戻って近くの海水浴場で時間を潰そうと考えた。
 海水浴場は下駄を借りて歩いて15分、ざっと200人くらいは客がいる。ぼくが泳ごうとすると、また雨が降ってくる。前回は水面に浮かびながら、小さな湾を囲む岬やその上を流れる雲を眺めて、旅びとの気分を味わったものだが、今日は雨もよいで、30分も泳いでいるうちに気分が乗らなくて、ホテルに引き返してきた。途中、ほとんど水が流れていない小川のなかに白サギがいて、ぼくが真横に来ると、すっとよけるように位置を変える。それを相手と繰り返した。妙に呼吸が合っていて、思わず笑ってしまった。

 シャワーを浴びて、役場に電話すると、心当たりのところが見つかったというので、さっそく出かけることにする。突然、バスで市内に行く方法があるはずだと思いつき、フロントで訊くと、ちょうど役場の近くに下りる循環バスがあるという。
 外の蒸し暑さと比べて、町役場に入ると薄暗く、ひんやりとしている。「民宿探しでお電話した者ですが」と声を掛けると、そこにいる全員が内容が分かっているという顔でこっちを向いた。酔狂な観光客に嫌な顔ひとつせずに対応してくれるのは、島びとの性向なのかどうか。
 白いワイシャツの30代半ばと思われる男性がぼくを引き連れて、10分ほどで目的の場所にまで案内してくれたが、そこもやはりあてが違った。職員もいささかがっかりした様子で、ぼくも申し訳ない思いでいっぱいだった。
 もしかしたら、ぼくはほかの島や町と勘違いしているのかしら。平戸? 福江? 佐渡? そんなはずはないと首を振るが、昨日のように五島の迷路にはまり込む勇気はもうない。
 昨日の店に逃げ込んで、カウンターに座り込んだ。
 目のくりっとしたおかみが、
「あら、見つかった?」
 と言うので、
「てんでだめ」
 と答える。
「昨日と同じ焼き鳥セット。でも、あの甘いのは抜いて。うまいんだけどさ」
 翌朝、下見をした奈良尾に出て船に乗った。

福江にて
 1時間ほどで福江に着いて、見慣れた風景にこころがほどけていくようだった。海沿いを右に行けば、前に寄った食堂がある。そこで甘い海苔がかかったおにぎり定食を食べて、前夜に予約をしておいたビジネスホテルへ直行する。
 通り道に以前に泊まったホテルがあった。営業をしているのかしていないのか、前と同じ雰囲気で、あのときのひんやりした空気を思い出した。
 というのは、部屋に通されたあとで妙に首のまわりが冷や冷やして落ち着かなかったのだ。外に出て、近くの料理屋で飲んだときに、店の主人にそこに泊まっていると言ったら、怪訝な顔をする。何かあるんですかと誘い水を向けると、重い口を開いた。旦那が借金で首を吊った、というのである。奥さんが経営に意欲的で、それに引っ張られるように設備などを拡張したが、客足が伸びず、責任はあんたにあると奥さんに責められて死んだという。
 ぼくは首の周りのさわさわするのはこのせいだと得心した。ホテルに帰ってからもびくびくもので、テレビは大きくかけて、トイレにもお風呂にもいかないで煌々とした電気の下で浅い眠りを眠った。
 翌日の予約のホテルもうらぶれた感じは、前のとひけをとらない。玄関を入ると新聞紙が積み上がり、古くて使われなくなった椅子がソフアに乗っかっている。宿泊賃をけちるとこういうことになる、という典型である。

マッドサイエンティスト
 以前の旅行のおりに原付を借りた自転車屋がすぐ近くなので顔を出して、久闊をのべる。バック・トゥ・ザ・フィーチャーに出てきたマッドサイエンティストのような顔つきの親父が、つまらなそうな顔をしてインスタントコーヒーを入れてくれる。これも前と変わらない。
 原付は年代物で、目の前にプラスティックの風防が立っていて、汚れで視界が悪い。ほかにないのかと言うと、女2人が借り出していて、あと4、5日は返してこない、という。今回の旅はこういう巡り合わせの旅のようだ。もしかして同じ女たちをずっと追いかけているってことなのか。
 まずは堂が崎教会を見て、あとは前回見残した教会を巡ろうと考えた。それで町を抜けて島の東側の道路を北に上がっていったところ、風防がガタガタと妙な震え方をする。そのうちにビシッと音がしたので、石ころでも当たったかとも思ったのだが、道ばたにバイクを寄せて風防を見ると、留め金が一箇所外れていた。ひどい中古をあてがってくれたものだとシートに座ろうとすると、足を乗せる台座の穴ぼこに、風防から取れたビスがはまっていた。これは奇跡と呼んでいいのかどうか迷う。

 翌日、島の西南を目指して朝早くから原付を走らせたが、2時間ほどかけてたどり着いたところは、どう見ても以前、来た感じがする。進めば進むほどその実感が強くなる。
 ぼくはもうその時点で五島列島を早々と引き上げる気になっていた。えてして旅はこんなふうに、糸のほどけたセーターのように、とりとめのないじで終わってしまうものだ。

五島の魅力
 ぼくが五島の島に引かれたのは独特な構えの教会群と、これもまた独特なお盆の風習である。そこはキリスト教と仏教の共存がリアルに意識させられる場所である。教会群はその外見に魅了されたわけだが、お盆の風習は日本的でありながらも非なるところに興趣をそそられた。
 ここでもまたぼくの地理感覚のなさを露呈することになるが、先回、衝撃の体験をした港の近くにあった墓地を探したのだが、いっこうに見つからないのだ。夕方のまちを原付で流していて、にぎやかな爆竹の音、そしてヒューッと音を引いたあとパーンとはじける花火の音が聞こえたのだ。耳を頼りにそっちへ向かってみると、なにやら島の人々も同じ方向へ向かっている。
 音のする小さな丘の下にバイクを止めて、登ろうとすると、さらさらとした砂地で歩きにくい。その砂地のなかに異様な墓地があった。一つの区画は、高さ50センチほどのコンクリートで三方を囲み、残り一方が入り口である。それが、踵を接するように、墓域をびっしりと埋め尽くしているのである。コンクリート内は、入り口の対向にお墓があり、右側には円の字の形の簡単な木組みがあって、そこに提灯をぶら下げている。円の横棒の部分が1本から2本、3本と増えて、そこにぎっしりと提灯が下げられる。それが一面のところもあれば、2面、3面と備えているところもある。初回のときは朝になってまた様子を見に行ったが、提灯を取り外すと、木組みは折り畳み式になっていて、薄い鉄板でできた丸い容器にしまって、車の荷台に積んでいた。色濃い風習とその反対の合理性にちょっと面白いものを感じた。
 区画が大きかったり、飾りの提灯の数が多いほど、家格が高い、あるいは財産持ちということになるのかもしれない。墓地でそれを競っている感じもある。飾り付けの反対側には座り台が設置されていて、たいていはみんなそこに腰掛けながら、何やら話をしている。
 どう見ても、アルコールが入っているようには見えない。みんな素面でぼんやりと囲いのなかで時間を潰している。時折、挨拶に訪れる人もあるが、たいていはひっそりとしたまま座り続けている。
 その間もひっきりなしに爆竹の音が止まず、これだけ派手なのに酒の力をまったく借りていないのが不思議でしょうがない。あとで何の本だったかで、昔は飲んで騒いだものだ、と書いてあるのを読んだことがある。近年になってアルコール禁止令でも出たのかもしれない。
 ぼくはその墓域の、まるでミニチュアの万里の長城のように巡らした低いコンクリート塀の間を縫いながら、あっちで行き止まり、こっちで行き止まりしつつ、遠慮がちに写真を撮り、すっかり異国の風習に心を奪われた。

 その衝撃的な墓が、今回、どうやっても見つからないのである。ガソリンスタンドのお兄ちゃんに訊いても要領が得ない。というより、そういう墓はいくつもあって、彼らにはぼくの説明ぐらいでは特定ができないようなのだ。爆竹の音を頼りに4つ5つの墓を巡ったが、とうとう初見の墓を見つけることはできなかった。
 香港で貝ばかり食べさせる屋台群を見つけ、たらふく食べたが、翌日、どう探しても見つからなかったことがある。それと同じことが、この日本でも起きている。
 福江は大きな城さえあるまちである。商店街も大きい。上島の人は周辺の島には行かず、長崎か福江にやってくる。理由を聞くと、自分の島と同じものがあるところに行ってもしょうがない、と言う。確かに自分もそうするかもしれない。
 ぼくにはこのまちはサイズが大きすぎるし、全体になにかまちに集中力がない感じがする。2日いてすぐに長崎に場所を移した。ここでも意中の店2軒がお盆休みということで、ホテルでごろごろと時間を潰した。
 もう五島列島に行くことはないのではないか、そんな気がするのである。

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