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あらゆるスピーチを一本槍で貫いた校長の話

退屈といえば、焼肉食べ放題の後半と校長先生のお話である。特に校長先生のお話である。焼肉食べ放題の後半には「焦げた肉をもっと焦がして遊ぶ」みたいな遊びしろがある。マナーこそ終わっているがつまらなくはない。その点、校長先生のお話はヤバい。遊びしろが全くない。

校長先生の話を好んで聞く人間なんか、この世に存在するのだろうか。長いし、説教臭いし、かったるい。夏場なんかは体力のない奴から順番にぶっ倒れる。思慮のクソ足りない光景である。そんなに言いたいことがあるなら、プリントにして配ればいいのにと思ったことも多い。

しかし、僕は高校時代に限っていえば、校長先生の話が好きだった。なぜなら、高校の校長先生の話が、例外的に面白かったからだ。

入学式、卒業式、あらゆる全校集会のお話の場面で、校長は軽く挨拶したあと「壁は乗り越えられる者の前に現れる」とだけ言った。ストイックかつワンパターン、あまりにも強引なファイトスタイルだった。そんな一本槍アリなのか、と全校生徒の誰もが思った。

校長先生の話は、常にカップラーメンが完成しないくらいの時間で終わった。スケジュール上の都合で行事を早く終わらせなければならないときなどは、本当に一瞬で終わった。他に言うことがないからだ。

高一の秋くらいになると、あまりにも言い過ぎて聞き過ぎて、だんだんギャグみたいになってくる。生徒はみな「壁は乗り越えられる者の前に現れる」待ちになる。どうせ今回も言うんだろうな。言うなら早く言ってくれ。いや、さすがに変えてくるのか? 生徒はそういうふうに校長を見る。

校長先生も、そのことを分かっている。校長先生は毎回ニヤニヤしながら、ゆっくり溜める。溜めんな。

そして、絶対に「壁は乗り越えられる者の前に現れる」と言う。その瞬間、生徒もこらえ切れず笑う。お手本のような天丼ボケである。平和で馬鹿馬鹿しい時間だった。

高二のときである。一度だけ、校長先生自身が露骨に笑いすぎて「校長先生の話」が失敗に終わったことがあった。

「壁は....ぷっ ぷっ...乗り越えられる者の...ぷっ...前に...ひひっ...現れるっ...ぷっ」

校長が自滅した。

あのときはぶっ倒れると思うくらい笑った。体調はよかったのに。校長が自滅するところなんて後にも先にも見たことがない。校長が自滅すんな。頼むからニヤニヤで済ませてくれ。「ぷっ」はダメだろ。その変な縛りプレイをしてるのはお前なんだから、頼むからお前だけは我慢してくれ。校長の笑いに合わせて、全校生徒もまた笑った。

そして、僕は卒業の日を迎えた。確か校長先生もまた、その年で離任するとかで最後の挨拶になる形だった。

その日、校長先生は笑わなかった。神妙な顔をして「卒業おめでとう」と言った後、息を吸い込んで、「壁は乗り越えられる者の前に現れる」と言った。大円団、感動のラストだった。そのときは、僕たちの誰も笑わなかった。

あの校長先生は、あの単調極まりない挨拶を通じて、僕らに何を伝えようとしていたのか。ともすると、「愚直に一つの方法を貫いていけば、それが存外、いつか形になったりする」と、実のあるメッセージを投げかけていたのだろうか。あるいは、単にいちいち話すことを考えるのが面倒くさかったのか。

僕が学ランを着なくなってから干支が一周した。僕自身いくつもの壁を乗り越えてきた。それでもあの言葉が印象に残っているということは、「あのファイトスタイルはアリだった」ということなのだろう。「壁は乗り越えられるものの前に現れる」が、いくつもの壁を貫通して、今も頭に焼き付いている。

あの校長先生、趣味とかなんなんだろうな。スピーチ以外のことを何も知らない。聞いておけばよかった。

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