帽子について

帽子というものは大事にかぶらなければすぐに破れたりちぎれたりしてしまうものであると、そのときはまだ帽子の布と布のあいだの糸で縫われた縫い目の隙間を見つめながら確信することができた。破れたりちぎれたりするほど帽子をかぶったことがない。同じ帽子をかぶりつづけていれば当然いつかはそうなるだろうと思われるのに、長いあいだよくかぶっていた帽子ですらそういうふうになったことがない。知らず知らず大事にかぶっていたことを示す結果だと言ってよいのだろうか。それとも私が思っているほど帽子というものは脆くつくられているわけではないのかもしれない。そのことにハッと気付かされる。中国製やヴェトナム製のものを、それらの国への内なる敵対感情に結びつけて悪く言う人がいるけれど、どこの国でつくられた帽子がどこの国で売られていようと、帽子というものはそれなりに頑丈につくられているものなのかもしれないと思う。でなければ最初から簡単に破けたりちぎれたりするような帽子をつくろうとしてつくっていることになる。人間はそこまで邪悪な存在ではないと信じたかった。たとえ人間の邪悪さに限度があるにせよ、企業という営利目的の組織化された集合体になると、そのような限界領域をいとも簡単に飛び越えてくるものだし、そのような利益追求集団の面目躍如たる邪悪さに倣ったり、より邪悪でプリミティブなもので競り勝とうとする萎びたほうれん草のような人間が湧いてくる。新鮮に見えるほうれん草でも水にさらせば砂だらけ、ということもある。邪悪さは競争過程で相乗効果を生む。彼らは、他人の死や、他人の死を悲しんでいる人を前にして、同情して、悲しみに寄り添うふりをしながら、そのような人間らしさと相反する、まったく別の顔を持っていたりする。

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