【アルバムレビュー】kohh/worst

要約:KOHHのラストアルバムを聴いて、そういえば昔からKOHHはありがちなラップゲーム・成り上がり感を客観的に見ていたと思った。「worst」とは、ありがちなラップゲーム的価値観にもし、とらわれていた別の世界線の自分にとっての、今の自分の姿なのかもしれない。

※このレビューは、実はコロナまっさかり?の3月か4月か・・・えーと5月か。ロックダウン状態の中、地元の五時しか空いてない喫茶店でふと手帳に手書きで書いたものだった。キーボードで打ってずっとなぜかデスクトップにいたので、とりあえずnoteに置いておこうと思う。



kohhのアルバムジャケットは一瞬異様だ。
おそらくデスクトップPCのドライブ(?)
の中身をくりぬいたもの、異様に細かいが空洞であっけらかん。PC本来の用途から離れてしまったもの(HIPHOPの本来の…)。

総じて、
skrillexやドレスコーズの志磨亮平が参加したという触れ込みが入るが、
前作とプロダクションの外部は変わらないように見える。
ロック方面のプロダクションが数曲、
そして馴染みの理貴やmvrasaki、ゲストのskrillexの作るトラップサウンドだ。
前作と違うのは、中盤~後半にかけてのハッピーな印象を与えるピアノ、
そしてアコースティックギター。
前作「(untitled)」での、「まーしょうがない」「ロープ」「Fame」のような外部のヘイトや分析をしていた節が、今作には、
ほぼなりを潜めている。変わらず、周りの身近な、自分とかかわる人々への感謝、セックスアフェア、信頼を置く人への言葉が中心だ。



しかしこれをkohhは「worst」と名付けた。
前作のジャケには「何故何も教えてくれないの?」「誰も問いかけなかった(から?)」と書かれて、事物の内部からのショットは逆の、
外部から見たkohhの顔
(しかし顔はない…これはポジティブ印象をまず与えない)。
「無(untitled)」と「最悪(worst)」。無でいるよりは最後は最悪を選んだ?ということなのだろうか…
いや、よくよくベストアルバムなどにあえて「ワースト」をつけるバンドは幾度か見てきた。それと同じ意向?
いや、これはベストアルバムなどではない。
なにかしらのコンセプトが内在している。

誰にとっての「worst」なのか?

磯部氏や他の方々の意見にも、「アルバムというよりはキャリアのアウトロのようなもの」でこのアルバムの大体のレジュメはできる
とは思う。


しかし重要なのはなぜ「worst」か?誰の視点からの「worst」か?


何故かこのアルバムを考えていると、
舞城王太郎の「九十九十九」というノベルスを思い出すのだ。
ある作家のシリーズのトリビュートという複雑な仕様の本で詳細の説明は省くが、
全7話の中で、時折、主人公が自らの家族の団欒の一瞬をかみしめながらその永遠を願うさまが描かれている。それにkohhが被るのだ。
「九十九十九」は、1話ごとが「何回でもプレイ可能なゲームの一回分のプレイ記録のようなもの」で、それぞれの話の主人公が違う。
パラレルワールドの一つ、なのだ。俺はこう思う、ある物語Aのkohhにとっての「最悪」の道が、このworstというアルバムなんだろうと。
そう物語Bのkohhは思っている。重要なのはそのことを、物語Aのkohhの思いを物語Bのkohhがわかっている、ということだろう。

自分にとってのベストは、誰かのworstだ。その誰かは、きっと、実質の最終曲「they call me a superstar」の「they」の一人だし、
その目線からのタイトルとして「WORST」とつけた。「シアワセ(worst)」はこのアルバムの中では突出して異様で、だがしかし、
この目線を持っているのなら、この「シアワセ」は別の意味を持って響いてくるし、「Sad」と「Happy」をかけあわせた「Sappy」という
感情がただ終わりの悲しみだけではなくなり、「俺みたいになるな」と語る「Rodman」にも合点がいく気がする。
そういう意味で、別の自分・・・それはおそらくRap game(って?)に忠実に生き、日本語ラップ村とも共振し、一流のスポークスマンにもなる・・・そこへの目線をしっかり見据え、それとは違う道を自分は選んだ。
そうきっぱりと、言い放っているのではないか。
しかしその「別の道」の「目線」をなかなか人は持てない。
ディスの標的ではなく、しっかり造形を持った「あいつ」という曲をはやくから
出していた(それは僕が特筆して好きな一曲だ)kohhは、何より自分がそうなることに非常に意識的だった。
先ほど紹介した文は東浩紀の「ゲーム的リアリズム」小説の説明だが、ゼロ年代、そうした選択肢のある存在を意識する存在として、
kohhという存在も、半ば無理やりに思える気がする。それはケンドリックの「DAMN」の小林氏の評にも共通するかもしれない。




travis scottのようなミスティックではない姿を、
「kohh」という名前を脱いだ「千葉勇喜」は選択した。
これ以上見るものはないだろ?と言わんとしているようなジャケット。
ヒップホップ本来の生き方、イコン、似姿を拒否した男。
kohhのラストは見事なスタッフロールだった。
PCのカーソルの前で、スマホの液晶というコントローラパネルを見つめて、僕はその「彼」の「視線」を感じながら、
何度も、このスタッフロールを聞いている。


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