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田中角栄、『再』研究(Ver.0.1)

日本の政治史にこれ以上ないほど高い金字塔を打ち立てて、今でも人を魅了しつづける、汝は、日本国民に、最も愛されて、最も憎まれた政治家、その名は「田中角栄」。

【刑事被告人:田中角栄(タナカ カクエイ)】

東京地検に現れたその男は、いつものように颯爽と現れた。いつものようにさっと右手を上げた。二田高等小学校から日本国の権力の中枢を極めた男、その男こそ、「刑事被告人」田中角栄だった。

【政治家としての頭角】

田中角栄とは話術の天才だった。彼がしゃべれば、聴衆は聴き惚れた、拍手を止めなかった。田中角栄が政治に興味を向けたのは、男がまだ27歳の時だった。彼は土建屋のオヤジに過ぎなかった。進歩党公認新人候補。旧新潟2区(当時の大選挙区)での初出馬での有名な演説がある。

「新潟と群馬の間にある三国峠を、全部切り崩す。そうすれば季節風が通り抜けて、新潟に雪は降らなくなるんです。なぁに、土砂は全部埋め立てに使って、佐渡と陸続きにするのにつかえばいいんだ」

荒唐無稽だが名調子ははじめから健在だった。しかし、この時は次点で落選した。翌年、進歩党後継政党の民主党公認候補として中選挙区制の旧新潟3区より出馬、3位での初当選を果たす。

初当選の時、男、田中角栄は壮大な夢を持っていた。「20代で政務次官、30代で大臣、そして50代で総理大臣となる」。これは恐ろしいほどに実現していく。男は根回し、寝技のプロだった。脅威の出世スピードを実現した。

時は日本社会党、国民協同党と民主党との三党連立内閣だったが、当選した年の11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法に反対票を投じて離党勧告を政党から受けて離党、除名や離党した仲間達と同志クラブを設立し、加盟した。これは後に吉田茂の日本自由党と合併して民主自由党となる。ここで田中は吉田茂から選挙部長に任命される。翌年に時の政権がスキャンダルにより総辞職すると、野党第一党の吉田茂を首班と担ぐ連立工作が行われる。連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田茂を嫌がり、ほかの者に政権を樹立させようと工作した(これを山崎首班工作事件)が、これは実現せずに、第2次吉田茂政権が樹立に成功する(第1次政権は1946年5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任。。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後)。田中角栄は念願の法務政務次官に就任。

それからまもなく、炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。田中角栄は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。 つまり、ここで既に立花隆「田中角栄研究」の芽が出ていたと指摘することができるといえる。金権政治と田中角栄は切っても切り離せない関係にあると指摘できる。

直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたものの、10日間の運動ので、2位再選を果たした。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。田中は、なんとか政治的生命をつないだのである。

法務政務次官に就任した田中角栄は、法律について猛勉強した。田中角栄は、生涯を通して一番議員立法を成立させた議員でもある。第一号は建築士法である。戦後の焼け野原に、人々が密集していて首都圏だけでも600万個の住宅供給が緊急に求められてた。田中は、悪徳業者によって粗末な住宅が粗製乱造させるのを防ぐことをねらった。法律には試験の実施方法まで明記されていたが、意図的に裏道を作っていた。当初は、経験者には一級建築士の資格を無試験で交付するというものだった。田中角栄もこれを適用して一級建築士を授与されている。田中角栄が自分で第一号となったというジョークまで流れた(実際には1号は別の人だったようだが)。それでも田中が一級建築士の資格に対する思いは強かったらしく、後の「私の履歴書」でも自慢するほどである。

他に行った議員立法は、道路整備費の財源等に関する臨時措置法、道路法改正、公営住宅法、電源開発促進法、水資源開発促進法、……田中角栄の議員立法は、みな今日の日本国の骨子たり得るものであり、田中角栄の議員立法により道路はでき、インフラは整備され、焼け野原から経済大国への道を開くことのできるようになる基礎ができあがったのである。田中角栄の議員立法という骨組みの上に、現代の我々の国民生活の一つ一つが育まれていることは、明白な真実であり、33本の議員立法については高い評価を得ることに異論の差し挟む余地はない。「法律というのは、生き物だ。使い方によって変幻自在。活用するには生まれた背景やこめられた意味を熟知していなければいけない」これは田中角栄の、本当に根源から出てきた言葉だった。現代の官僚に立法を丸投げして答弁も満足にできない与野党政治家達の一人たりとも、その高級官僚とのなれない構造を無くさない限りにおいて、田中角栄の域に達することは未来永劫ないだろうことはここに私は宣言しておく。

【郵政大臣就任、戦後最年少】

1957年、39歳にして田中角栄は郵政大臣に任命される。正に夢に願った通りだった。戦後、最年少大臣。そして40歳、大蔵省というエリート中のエリートの中に田中角栄は飛び込んだ。大蔵大臣、田中角栄大臣の誕生である。東大卒他の日本型エリート官僚達は、この今まで見たこともない人種が大臣に座ると聞いて物見遊山にやってきた。

有名な台詞がある。「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。かくいう小生は素人だが、トゲのある門松は、諸君よりはいささか多くくぐってきている。いささか仕事のコツは心得ているつもりである。私はできることはやる、できないことは約束しない。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになるが、お互いの信頼市合うことが大切である。従って今日ただ今から大臣室の扉はいつでも開けておく。事務次官ばかりではなく、今年入省した若手諸君も、誰でも我はと思わんものはなんでも言ってきてくれ。上司の許可を取る必要なない。思い切り仕事をしてくれ。しかし責任の全てはワシが背負う。以上」。日本型エリートの毛並みのいいエリート高級官僚の前に、怪物が仁王立ちしていた。

田中角栄はこの時、テレビにも引っ張りだこで、国民の人気者としてテレビに出ずっぱりだった。NHKラジオで浪花節を披露したことから、口々に「浪花節大臣」と呼ばれるほどであった。

【田中角栄とほとばしる大量の「汗」、その正体】

田中角栄は常に汗をかいていた。扇子を常に仰ぎ続けたイメージもそこから来ている。週刊誌のインタビューで、田中はこう書かれている。「ご存じの通り汗っかきで、これは甲状腺機能亢進症のせいなのだ、せっかちなのもこのせいなのだ」。

甲状腺機能亢進症、これは精神状態が常に興奮状態にある病気だという。心拍数と血圧の上昇、不整脈、過剰な発汗、神経質や不安、睡眠障害、意図しない体重減少などの症状がみられる。確かにせっかちにもなる。

【田中角栄の”宮殿”、目白御殿の千客万来】

田中角栄への謁見は、目白にあった御殿で毎日行われた。冠婚葬祭、地元の陳情から子供の進学や就職の相談まで、基本的になんでもござれ、来る者は拒まず、誰でも受け入れた。数時間またされることもザラで、実際に謁見できる時間は数分。しかし、男が「ヨシ!!」と言ったらその通りになる。これは間違いがなかった。

新潟県刈谷田川は暴れ川だった。毎年のように反乱して、周辺風民を苦しめ続けた。越山会栃尾支部長だった荒木幸男氏は写真を何十枚と持参して田中角栄に陳情した。田中は「ヨシ!」と言った。その日はそれだけだった。

しかし、本当に刈谷田川は川幅が倍になり、ダムができた。人々はその凄まじい実行力への畏怖と尊敬を併せ持つ感情から、誰が言ったか「コンピュータ付きブルドーザー」と評した。これほど田中角栄を表すのにふさわしい渾名は無いだろう。故郷新潟3区には、常にコンクリートの真新しいにおいが漂い、工事用の器具はひっきりなしに右に左に走り抜けていった。

越山会婦人部長の荒川シヅエ氏は「田中先生は新潟3区にばかり国費を投じてけしからんと散々言われたが、それまで政治の光が当たらなかった分、国費を投じられたことは間違ってないと、私は思う」と語る。

田中角栄の有名な迷言がある。「田んぼの真ん中に6m道路を作れば地価は倍になる。6m道路を2本作れば地価は4倍になる。これが地価の原則である」。土建屋社長らしい大雑把だがわかりやすいイメージだ。現実はそれほど単純ではなかったが、田中角栄はこれを基本にして新潟を中心として日本中に真新しい道路を一気呵成に造成していった。

《鉄の結束、越山会》

田中角栄の最強の後援会、約10万人を数えた最強の選挙集団、それこそが越山会だった。田中角栄の権力の源泉となる政治結社を打ち立てんとするとき、氏は名前を悩んでいた。時は政調会長のときだった。”女王”佐藤昭が「池田総理や佐藤栄作先生みたいに立派な名前がいいわね」といった。

漢詩を読み詠むのが好きだった田中が持ってきたのは、越後の武将、上杉謙信の詩だった。

”霜は軍営に満ちて 秋気清し 数行の過雁 月三更 越山併せ得たり 能州の景 遮漠家郷の遠征を憶ふを”

能登の七尾城を攻め落とした謙信が名月を眺めて詠んだとされるものである。ここから越山と取ることにする。

「あら、なかなかどうして、サマになっていいじゃないの」佐藤昭も笑顔で賛成すると、そりゃそうさと田中は自慢げに答えた。こうして越山会という名前で発足した団体に、佐藤昭は会計責任者として任命される。この越山会は旧新潟3区の隅々まで浸透し支部をつくり、越山に非ずんば人にあらず、とまで言われるようになる。

越山会長岡支部顧問小林春一氏はこう語った。

「田中先生は太陽のような人だった。大衆に隅々までぬくもりを与えて、また大衆からエネルギーを受け取った。田中先生のぬくもりは大衆のぬくもりである」

越山会がある限り、田中角栄の地位は盤石だった。田中角栄の権力の源泉である。

【田中角栄頂上決戦】

甲状腺機能亢進症を薬でごまかし、1日に何本もの栄養ドリンクを一気飲みして体を強引に突き動かした。田中角栄の目標はもちろん永田町の最高位、内閣総理大臣の椅子にあった。

1971年、沖縄返還交渉の妥結、8年弱の超長期政権を維持した佐藤栄作は、しかし国民には完全に飽きられていた。民衆は新しい風を求めていた。そして足下では選挙と人事、金を掌握する幹事長に田中角栄が就任していた。佐藤栄作は自分が影響力を残すために、自民党のプリンス、福田赳夫を後任にしたかった。年功序列の流れも福田赳夫が順番だった。佐藤栄作内閣で通算4年強幹事長の椅子を守っていた田中は、力をつけすぎていた。佐藤栄作が危惧して田中角栄を党務から内閣に移すために通商産業大臣に任命したが、時既に遅しだった。

1972年6月17日、超長期政権を担った「政界の団十郎」佐藤栄作は、辞任を発表する記者会を開いた。この時、佐藤栄作は福田赳夫禅譲が完全に失敗したこと、佐藤派が田中に完全に食われたことに腹を立てていたのか様子がおかしかった。事務方に佐藤は叫んだ。「テレビはどこですか、テレビは大事にしにゃいかん。テレビを隅に置いてはいけない、テレビは大切だからね」。最初はテレビ局へのリップサービスかと思ったがどうやら様子がおかしい。「どこNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると違うからね。残念ながら、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。帰って下さい」ここまでテレビ局へのリップサービスと佐藤栄作一流の冗談だと思っていたが、雲行きが怪しくなってきた。はじめは冗談だと受け止めて冗談に対して笑い声も聞こえた会場もピリピリしてくる。ある記者が口火を切った。「総理、それより前に、先ほどの新聞批判は内閣記者会として絶対に許せない」。軽口ではなく本気も本気だったようで、佐藤はテーブルを叩いて「出てください。構わないですよ!」と言い放ち、これに対して抗議した記者は「それでは出ましょう」と応じた。毎日新聞の岸井成格が「出よう出よう!」と他の新聞記者達に呼びかけ、記者全員が退席した。異様な光景だった。ガラガラの会場に、テレビ局のビデオカメラが並んでいた。朝日新聞は夕刊で、「総理はがらんとした首相官邸で物言わぬ機械に向けて一人しゃべっていた」と皮肉った。全国紙では全体未聞のことに怒り心頭に発していた。

後日談になるのだが、元々佐藤栄作はテレビ局だけが来るように設定したつもりで、記者クラブ幹部もそれを了解していた。しかしその後の伝達に行き違いがあり、テレビへの独演は許諾したが、まさか新聞記者の出入りまで禁止されたとは思っていなかったので記者がきたということだそうだ。とにかく佐藤栄作のこの時の虫の居所が悪かったことだけは事実だろう。とにかく佐藤栄作が辞任してもはや多数派工作は隠す必要もなくなった。

総裁選前夜にも、佐藤栄作は電話をはなさなかったという。最後まで福田赳夫への支援を止めなかった。佐藤栄作、最後の戦いだった。

《田中頂上決戦を支えた軍師》

田中角栄が総裁選を難なく制覇したかのような表現が散見されるが、これは間違っている。

田中角栄が総裁選を制した最大の要因は「佐藤栄作四選」である。これで有権者からは完全に飽きられた。また、田中角栄にはまだ兵隊が足りなかった。三選で止めて余力があるうちに福田赳夫禅譲と明確に指示されたら、田中角栄はいいえとはいえなかっただろう。それくらい微妙だった。そして、佐藤四選を決定づけたのは「川島正次郎」の存在があった。

川島正次郎は明治二十三年生まれ。役人時代には築地新設を行った張本人で、政治家としては初入閣は遅咲きの64歳。67歳で幹事長、池田内閣で五輪担当大臣、副総裁を歴任してその後の総裁選の候補として政局を引っかき回す役目を果たしていく。

田中角栄が昇竜の勢いといえどもまだ力半ばだったとき、佐藤四選か、新政権かで党内が混乱した。田中角栄にとってはここで佐藤に反旗を翻しても勝ち目はない。といって禅譲路線ならば福田赳夫内閣確定だ。どうしたらいいのか。田中角栄はここで領主で親分の佐藤栄作に四選するように党内工作を開始し、既成事実化を計った。ここに助力したのが川島正次郎である。一日も長く総理をやりたい佐藤も、子分達の魂胆はミエミエだったがとりあえず神輿にのることにした。ここで土台を割っても仕方ない。福田・田中の二輪があるから安定する。佐藤栄作の「待ちの政治」の真骨頂だった。

《佐藤栄作”四選”への長い長い道のり》

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