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甲野善紀・方条遼雨『身体は考える/創造性を育む松聲館スタイル』

☆mediopos-3177  2023.7.30

甲野善紀と方条遼雨による
『上達論』に続く二冊目の共著
『身体は考える/創造性を育む松聲館スタイル』

(『上達論』については
mediopos2906(2022.11.1)でとりあげています)

「松聲館(しょうせいかん)スタイル」とは
甲野善紀の生み出した
「自分の体で動き、自分の頭で考える」を核とする
武術の稽古・探求する方法だが

その視点は武術の領域に限らず
日々私たちが生きていくうえでのさまざまな課題に
どのように対していくかについて
創造的な視点を得るためにも示唆的である

ぼくはとりたてて武道等にかかわってはいないので
武術に関する具体については想像の域を超えないが
ぼく自身の生きてきたありようと
多くの視点で深く共振できるところが多くある

本書は第一部と第二部に分かれ
第一部は方条遼雨よる
「松聲館スタイル」から体得したこと
第二部では両者の対談となっている

本書で「考える」といったとき
それは頭で考える「思考」ではなく
身体全体で考えるということであり

そうすることで論理や言語で説明可能な領域ではなく
むしろ「分からない世界」にふれ
「自分の枠組みの外側にあるもの」へと踏み出し
「枠組みの外側」へと
自分の領域を「拡張」することができる

その学びは失敗しながらも
まさに自分で「考え」そして「やる」ことであり
それらを「外部委託」してしまうことではない
(その点AI的なものの「枠組みの外側」でのそれである)

「外部委託」すると
「知の家畜化」へと向かってしまう
それは「カルト宗教のような、
洗脳して従わせる方法に通」じ
「事象を事象のまま見てみる」ことができなくなる

教育とされるものの多くはそうした「知の家畜化」であり
「あらゆる可能性に自己を開いた状態」をつくるのではなく
「思想に固定点を作」り
教えられたことを教えられたままに行い
そのなかで評価を得ようとするものだともいえる

「外部委託」に過剰適応してしまうと
「分からない世界」にあるものを感じられなくなり
「何かおかしいぞ」という「違和感」を
感じることもできなくなってしまう

第二部の対談の終わりのほうで
コロナ禍のことにも言及されているが
方条遼雨の周りではむしろ
「コロナ禍でいい事があった人がすごく多い」という
それは現象を「良い」「悪い」でとらえず
そうした枠組みの外において
「訪れた「運命のポテンシャル」を
最大限「使い切りたい」という発想があったからのようだ

甲野善紀は「二十一歳の時
「人間の運命は完全に決まっている」っていうのと、
「自由だ」という事が同時にある、
という事に気付い」て以来
「それを実感しようという事を
人生のテーマにしてきた」というが

その実感を深めていくためにも
「自分の体で動き、自分の頭で考え」ながら
自分の領域を「枠組みの外側」へと
「拡張」しようとしてきたのだろう

重要なのは「自分」という枠組みを
特定領域に閉じ込めないで
その外の「分からない世界」へと向かうことだ
論理や言語はともすれば
その外部にあるものを排し
そうした「枠組みの外側にあるもの」を
感じとることをできなくさせてしまう

■甲野善紀・方条遼雨
『身体は考える/創造性を育む松聲館スタイル』(PHP研究所 2023/7)

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「はじめに」より)

「本書は二〇二〇年に甲野善紀先生との『上達論』(PHPエディターズ・グループ)を刊行して以来、二冊目の共著となります。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「分からない世界」より)

「物事の理解や上達に役立つ思考法をご紹介しておきましょう。
 それは、「分からない世界に触れる」ということです。
 (・・・)
 ところが、人間にはもう一方の性質があります。
 「理解できないものを恐れる」という本能です。

 理解できないものは取り扱いがわかりません。
 どう接して良いか、どう向き合って良いかが分からず、拒絶してしまうのです。
 これは、生命の根源的なシステムに根ざした防衛本能とも言えます。
 このような良き、人は多くの場合、二種類の対応で済ませようとします。
 「無かったことのする」か「枠組みに押し込む」かのどちらかでです。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「枠組み」より)

「どちらも、「自分の枠組みの外側にあるもの」を切り捨ててしまっているのです。

 先ほど、「自己の拡張とは自己の外側に踏み出す事」と書きました。
 そして「理解できないこと」は、いつでも「自分の理解できる枠組みの外側」にあります。
 つまり「理解できないこと」とは、本来「自分の枠組み」を拡げるための、最高の材料なのです。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「栄養」より)

「学習のこつ・上達のこつは、
・ほどほどの理解で、とりあえずどんどん前に進んでしまう
・「理解できない領域」にも、「理解できないまま」触れておく
 ということです。

 「理解できないこと」を「理解できないまま」吸収すれば、情報は「理解できない領域」で栄養となってくれます。
 「枠組みの外側」で、自分の一部となってくれるのです。
 それが、新たな「自分」の範囲となります。
 つまり、「拡張」です。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「舌触り」より)

「この吸収法に最も適しているのは「非言語化情報」です。」

「こうした学習法を当たり前のようにしている存在がいます。
 それが「幼児」と「天才」です。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「身体感覚」より)

「『上達論』では、「論理は後追い」だと説明しました。
 感覚は本来「論理」よりも「十年以上先を行くもの」なのです。
 磨けば磨くほど、「先」へと行きます。

 本来、論理は直観や感覚を裏付け・説明するためのものであり、「創造的飛躍」には適していません。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「わかる」より)

「本来は、誰にでもできる事なのです。
 では、多くの人にそれが出来ないのはなぜか。
 まず理由の一つは、先ほど述べた「一〇〇点思考の呪い」です。
 もう一つの理由は、「論理の呪縛」です。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「野生」より)

「「論理」という呪縛から自らを解放する事。
 これは「人間」という「理性」ある生物でありながら、眠っている「野生」の能力を引き出すという事を意味します。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「違和感」より)

「「何かおかしいぞ」と感じることのできる人間がどれだけ存在するか。」

「「違和感」を感じる事ができない人々が一定割合を超えた時、大多数の「なんとなく」はいつしか「熱狂」となり、熱狂は「狂気」へと変貌します。
 大多数の「なんとなく」には、どんな天才も、英雄もかないません。
 狂気となったうねりは加速がついているので、後戻りはできないのです
 いつも間には加担者となっていた自分自身が「おかしい」と思う頃にはすでに崩壊が確定していれ、気づいた頃には将棋で言えば「一〇〇手」ぐらい後れています。
 逆に言えば、本来なら一〇〇段階ぐらい前に「違和感」を察知し、早々に「手」を打っておかねばならなかったのです。

 そうした「違和感」をいち早く察知するのが「身体感覚」であり、「想像力」です。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「芸術家」より)

「論戦で勝利すれば多数派に立ちやすいので、短期型思考の人は感覚肌の人達の「違和感」には「馬鹿」と断じ、見下す視点を持ちやすくもなります。

 しかし、本当の「馬鹿」とは「待てない」人たちなのです。

 序盤戦では「短期型」の方が圧倒的に強いですが、本質的に「掌握している領域」は「感覚肌」の方が広いからです。
 その構造に、感覚肌の人たち自身も気づいていません。
 「論理的」に構造が説明出来ないからです。
 しかし、その違和感を見える形にできる人達がいます。
 「芸術家」や「表現者」です。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「自分でやる」より)

「見回せば、「この世界」という最高に優秀な「教育者」に我々は囲まれている。
 にもかかわらず、「大人の了見」で余計な事をしようとしてしまう。
 それが、「教育」というものの根本的な問題だと私は考えます。」

「自分の手で「やる」事により、この世界の面白さ素晴らしさを。「失敗する」事により、この世界の「厳しさ」を、自ら学ぶことができるのです。」

「問題はそれほど難解でも複雑怪奇でもなく。できるだけ「早い段階」から、できるだけ「自分自身」でやらせ、考えるようにさせれば良いだけです。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「外部委託」より)

「「自分の意志による選択」に伴うのは、そこに至るまでの考察。可能性の予測、経過の観察。結果の検証、反省、それらの経験の蓄積。蓄積の転用といった要素です。

 こうしたサイクルは、「知識」や「セオリー」を無思考・無条件に使用する事と違って、「自分の頭で考える」という、本当の知性を磨いてくれます。
「ただ誰かの選択に従う」というのは、これらのサイクルの多くを放棄することになります。
「俺の言う事を聞いていれば上手くいくよ」という指導者と、「無条件で従う人」の間には。目先の結果と引き換えに、「従う人の知性を削いでいく」という関係性があります。

 それは、カルト宗教のような、洗脳して従わせる方法に通じます。」

「「優れた思想」に自分の思考を「外部委託」してしまい、「自分で考える機会」をどんどん削り取られ、「知性」が空っぽになって行ってしまうのです。」

「カルト集団による、外部からしたら滑稽にしか見えない奇行も、妄想型殺人や集団自殺も、元をたどれば「知の外部委託」から始まっています。

 そしてその動機は「優れている」こと、「救いになる」こと、「素晴らしい」こと、「恍惚」、つまり、
 「正しいこと」
 です。

 「正しい事こそ、一番危ない」のです。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「家畜化」より)

「正しさに従い、美しさに感動し、正義に共振し、成果に目を奪われている間に、知性は空洞化し「依存構造」は深まります・
 度合いや形は違えど、我々はこの見えない呪縛に絡め取られているのです。

 それは「知の家畜化」とも言える現象です。
 これまで繰り返し述べてきたのは、「家畜」となった知性を「人」へと戻す思考法なのです。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「三短思考」より)

「これまで述べてきた、人の知性を損なう三大要素が、「知の家畜化」と「無いことにする思考」、短気・短期・短絡的の「三短思考」です。
 これらの要素は、全て密接に関連しています。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「目先」より)

「「プライドが高い人」も要注意です。
「待つ」というのは、「プライド」の向こう側を見据える行為だからです。
 目の前の「勝ち」は譲るけれど、広い視野で見たメリットを取りに行く。
 一旦恥を受けいれ、次なる成長につなげる。
 こうしった思考がなかなか出来ず目先のプライドを守る事が最優先となり、同じ原理で行動を繰り返す度に、その精神性が増強されてゆきます。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「装置」より)

「「疑う」という行為は「猜疑心」「否定する」といったマイナスなイメージがあるかも知れませんが、「この世の全ての可能性に肯定的な行為」でもあるのです。
「目の前に存在するもの」「自分が最も信じがたいもの」に留まらず。それ等も含めた「あらゆる可能性に自己を開いた状態」だからです。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「固定点」より)

「人間の知性を最も低下させる原因の一つは、「思想に固定点を作る」ことです。
 これがあると、実像と認識の間に大きな「ずれ」があっても、それを修正する事ができません。

 結果、「事実」の方を脳内で編集し始めます。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「点検」より)

「人は、「信じるべきもの」と「信じたいもの」を混同して処理しがちです。
 これが、世に対する視点の混乱や視野の狭窄を生むのです。

「信じるべきもの」とは、疑いや否定的見解を投げかけても耐え得るものです。
「信じたいもの」とは、疑いや否定を拒絶するものです。

 この「振り分け」ができない人間にとっての聖域は、本来「聖域」ですらないのです。」

(方条遼雨「第一部 身体という思想)〜「原点」より)

「我々は言わば「自分」の専門家です。
「自分の日常」の専門家です。
「自分の常識」の専門家です。
 つまり、「自分」「自分の日常」「自分の常識」の専門馬鹿と言えます。
 この自覚かた始めない事には、「正確な状況認識」などできようはずもなく、「適切な行為」も程遠くなります。
 そして、そのために必要なのが「当たり前」を見直すことであり、「当たり前」を実行する事です。
 前者の「当たり前」とは、自分の中に凝り固まった常識のことです。
 後者の「当たり前」とは、「相対思考」「比較思考」をやめ、「事象を事象のまま見てみる」ということです。」

(甲野善紀・方条遼雨「第二部 対談 身体的運命論)〜「クリエイティブ」より)

「方条/先ほど先生が、身体の上手な使い方みたいなものは「学校の教育では教えてくれない」と仰っていましたけれども、欠点をプラスにするって「クリエイティブ」な事だから、学校で教えてくれないですよね。

 学校では「いろんなものを変えないように再現しろ」っていうのが現在のほぼ教育ですから、クリエイティブと正反対なんですよ。
 クリエイティブってある意味、極みは「不要なものを有効にする」事ですから。
 それって思考回路の「反転装置」なんです。
 もうほとんど、ごみレベルのものを価値あるものに変えてしまう、錬金術みたいなものですから。で、それを自分の内部の搭載する。
 それ自体が、すごく創造的な過程ですから。」

(甲野善紀・方条遼雨「第二部 対談 身体的運命論)〜「運命のポテンシャル」より)

「一般的に言ったら「悪い」とされる事にも、自然と反転装置を使っていたんじゃないかってだんだん自分でも分かってきて、
 そうするとそもそも、構造的に「悪いこと」ってあんまりないんです。
「長所即欠点」と同じように「欠点即長所」ですから。
 どんな状況でも見方によっては良い側面が必ず存在するはずなんです。

 だから新型コロナウイルスで世界的にパニックが起きた時に、すごく分かれるなって思ったのは、コロナ禍ですごくマイナスになった人と、むしろプラスになった人がいるなって、周りを見ていて思いました。

 端的に言えば、コロナ禍でいい事があった人がすごく多いんです、周りに。
 でも考えてみるとウイルスって「現象」に過ぎないから、「良い」も「悪い」も本当はないんですよね。
 それは人間が善でも悪でもなく、いろんな要素が中にあるように、いろんな要素の集合体ですから、現象って。
 病気が悪いとか、死ぬのが悪いとか決めちゃっていると、その状態の中にある「いい要素」が見えないんです。
 価値観に照らし合わせて、「悪いところ」を作っちゃいますからね。」

「だから身体も。「使い切りたい」って思うんですよね。おそらく。
 「運命」にもそういうのがあって、訪れた「運命のポテンシャル」を「善し悪し」で選別なんかしたらもったいないと、どこか思っている。」

(甲野善紀・方条遼雨「第二部 対談 身体的運命論)〜「役割」より)

「甲野/私の今までの人生を振り返ってみても、二十一歳の時「人間の運命は完全に決まっている」っていうのと、「自由だ」という事が同時にある、という事に気付いてこの時以降は、それを実感しようという事を人生のテーマにしてきたわけですから。
 このことを言葉を換えて言えば「わが身に起こることがすべて必然」って納得出来るかどうかを問われているようなものですから。
 だから、この感染症対策で「なぜあんなおかしなことを言っているのだろう?」と私が思う発言や行動をしている人達に対しても、ある面では本気で「しょうもないな」と腹も立つんですけど、同時に「あぁ、この人はそういう事を言うお役目なんだ」っていう思いが、常にどこかにありますから、心の底からは腹が立たないんですよ、その人達に対しても。
 この人生の中で、「人は様々な役割が振り当てられているな」っていう感じがしていますから。」

◎甲野善紀
1949年東京生まれ。武術研究者。20代の初めに「人間にとっての自然とは何か」を探求するため武の道に入り、1978年に「松聲館道場」を設立。以来、剣術、抜刀術、杖術、槍術、薙刀術、体術などを独自に研究する。2000年頃から、その技と術理がバスケットボール、野球、卓球などのスポーツに応用されて成果を挙げ、その後、楽器演奏や介護、ロボット工学などの分野からも関心を持たれるようになった。2006年以降、フランスやアメリカから日本武術の紹介のため招かれて講習を行なう。2007年から3年間、神戸女学院大学の客員教授も務めた。2009年から森田真生氏と「この日の学校」開講。
著書に『剣の精神誌』、『できない理由は、その頑張りと努力にあった』、『自分の頭と身体で考える』(養老孟司氏との共著)、『薄氷の踏み方』(名越康文氏との共著)、『巧拙無二』(土田昇氏との共著)、『古の武術から学ぶ 老境との向き合い方』、『古武術に学ぶ 子どものこころとからだの育てかた』など多数。

◎方条遼雨
天根流(あまねりゅう)代表。エッセンシャル・マネジメント・スクール顧問・講師。
身体思想家/心体カウンセラー/玄武術家/身体思想によるアドバイザー
甲野善紀、中島章夫に武術を学ぶ。両師の術理に独自の発見を加え、「心・体の根本原理の更新」と「脱力」に主眼を置いた「玄運動(げんうんどう)」「玄武術(げんぶじゅつ)」を提唱。師の甲野と共著の出版・合同講師も務める。「心と体は完全に同一である」という独自理論から、「心体コーディネート」「ふかふか整体」を考案。分野を問わず「心・体の使い方」を伝える。提唱する理論を元に組織・ビジネス・政治・芸術・体育など分野を問わないアドバイザーとしても活躍している。

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