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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP ht…

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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/    Facebook https://www.facebook.com/kazenotopos

マガジン

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos

    神秘学的な内容を写真と言葉で、「遊戯」していくシリーズ。

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】mediopos

    本を中心としたメディアを神秘学的な視点で読みながら「遊戯」していくシリーズ。

最近の記事

空即是色

☆photopos-3519  2024.4.27 水の流れか 空(そら)ゆく雲か この世を 生きる はかなさを 空(くう)と みたとて なんとしょう 空なる この世を 味わえば 愛も 情けも 香りたつ 白だ 黒だと 野暮などやめて 遊んで 生きて 色となす *愛媛県総合運動公園にて

    • 田中純『イメージの記憶』・『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』/唐木順三『中世の文學』/稲垣足穂『一千一秒物語』/九鬼周造「小唄のレコード」/世阿弥「遊楽修道風見」

      ☆mediopos3449  2024.4.27 田中純『イメージの記憶』第6章 「無の色気————デヴィッド・ボウイから世阿弥へ」 今回とりあげるのは 章題となっている「無の色気」についてである それは「色即是空 空即是色」の 「空即是色」ゆえの 「無」の香りだともいえるだろうか・・・ 田中純は『デヴィッド・ボウイ————無を歌った男』 というボウイの作品論を上梓しているが その副題の英訳は The Man Who Sang Nothing 「何も歌わなかった男」と

      • 名を超えて旅する

        ☆photopos-3518  2024.4.26 名のなきまま 生まれ 名を得て 名を生きる 名の 体をあらわさぬときは 名を変えるのもひとつ 名を売り 名を得て 名をあげ 名に恥じぬよう 名を残すのもまたひとつ 名に縛られ 名に泣き また 有名無実と化すならば 名を捨てて実を取るのも またひとつ いずれにせよ 果てには 名は失われる 魂は 名なき者として されど 名を超えた者として 旅を続ける者なればなり *愛媛県総合運動公園にて

        • 吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑩花は他の名でも同じく香れど」(群像)/「歴代の子供の名前ランキング!令和の傾向と昭和・平成との比較」 (テテトコ)/2023年赤ちゃん命名・名前ランキング(アカチャンホンポ)

          ☆mediopos3448  2024.4.26 子供の名前に 「キラキラネーム」が増えている 「キラキラネーム」とは 「伝統的でない当て字、外国人名、創作物の 登場人物名などを用いた奇抜な名前の総称」 (Wikipedia)のこと 2000年代には「DQNネーム(ドキュンネーム)」と呼ばれ 2010年代以降になると 「キラキラネーム」と呼ばれるようになった 昭和生まれの人間としては ずいぶんと違和感のある名前も多いが 時代とともに名前の傾向は変わっていて おそらく

        空即是色

        • 田中純『イメージの記憶』・『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』/唐木順三『中世の文學』/稲垣足穂『一千一秒物語』/九鬼周造「小唄のレコード」/世阿弥「遊楽修道風見」

        • 名を超えて旅する

        • 吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑩花は他の名でも同じく香れど」(群像)/「歴代の子供の名前ランキング!令和の傾向と昭和・平成との比較」 (テテトコ)/2023年赤ちゃん命名・名前ランキング(アカチャンホンポ)

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        • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos
          1,212本
        • 神秘学ポエジー【風遊戯】mediopos
          1,212本

        記事

          わたしをひらき せかいをひらく

          ☆photopos-3517  2024.4.25 水とともに流れ 花とともに咲き 鳥とともに歌うとき わたしは 水であり 花であり 鳥である わたしが せかいで なくなるのは せかいからはなれ それを指さすときだ わたしのことばが せかいのことばで なくなるのは せかいを名づけ 閉じこめてしまうときだ わたしは わたしでありながらも せかいへと 還っていかねばならない わたしがひらかれることで せかいがともにひらかれるために *愛媛県総合運動公園にて

          わたしをひらき せかいをひらく

          オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』『言語と意味のとの出会い』

          ☆mediopos3447  2024.4.25 オウエン・バーフィールド (1899.11.9-1997.12.14)は ルドルフ・シュタイナーの影響を受け シュタイナーハウスでの講義を行ったり シュタイナー出版から著作を刊行したりしているが とくに日本ではおそらくほとんど知られていない (一般には『英語のなかの歴史』(中公文庫/1980)が 訳されているくらいだ) 第一次大戦に参加した後 オックスフォード大学で法律を学んだ後 一九五七年まで弁護士を開業しながら著作を

          オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』『言語と意味のとの出会い』

          世界はいつもあたらしい

          ☆photopos-3516  2024.4.24 世界は いつも あたらしい なにもかもが いま生まれている 時間は 垂直の深みから 生まれてくる けれど世界を 測ろうとすると ほんとうの時間は 生まれなくなり 自由をなくしてしまう わたしは いつも あたらしい わたしは 時間を生きている 過去と未来の 奴隷になると いつもあたらしいはずの時間を 生きることができなくなる 自由をなくして *愛媛県久万高原町・面河渓にて

          世界はいつもあたらしい

          金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』/平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』/ベルクソン『時間と自由』『思考と動き』

          ☆mediopos3446  2024.4.24 わたしたちは「本当は自由」なのに 時間を空間化してしまうことで 「純粋持続」としての時間を生きられなくなっている 時間が空間化されると 時間は計測される「もの」となり わたしたちは「自分に対して外在的に生き」 「ほとんど行動させられている」ようになる しかも過去からくる記憶に縛られ 「いまこの瞬間を見ているようで、 実はいまままで何度も見てきたもののようにそれを見、 いままで何度も聴いてきたもののように、 それを聴いて

          金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』/平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』/ベルクソン『時間と自由』『思考と動き』

          忘れる恵み

          ☆photopos-3515  2024.4.23 忘れなければ 得ることのできない あらたな恵みがある 器を空にしなければ そこにはなにも 注ぎこむことができないように みずから考えるためには 記憶という檻から 自由にならなければならないように 忘れることは 深みを流れる智慧の水を 汲み出すこと あらたに生まれてくるとき 過去の記憶をなくしているのも あらたな生が 恵みに充ちたものとなるため 忘れ忘れ忘れて ゆだねることだ 忘れ忘れ忘れても なにひとつ 失わ

          忘れる恵み

          荘子「坐忘についての問答」/シュタイナー「忘れる」「心のいとなみの隠れた深み」

          ☆mediopos3445  2024.4.23 『荘子』の内篇にある 「大宗師」七章に 「坐忘についての問答  身体と感覚を棄てて道と一体になる」がある 孔子と弟子の顔回の会話である 顔回が孔子に 「私、一歩進みました。」といい 「仁義の徳を忘れること」ができるようになったという それに対して孔子は 「それは結構。しかし、まだまだだね。」という さらに「礼楽の掟を忘れること」が できるようになったというときも 孔子は「まだまだ」だという しかし「坐忘(座ったまま

          荘子「坐忘についての問答」/シュタイナー「忘れる」「心のいとなみの隠れた深み」

          わたしはあいだ

          ☆photopos-3514  2024.4.22 わたしは あいだで できている わたしは いつのまにか わたしを映す 鏡のあいだから あらわれる ひとりでいても 深みにいるふたりの あいだで 歌を交わしながら こころとからだ 生と死の あいだをめぐり 天と地 彼岸と此岸 刹那と刹那 有限と無限の あいだを遊ぶ わたしは あいだという 永遠の旅人である *愛媛県久万高原町・面河渓にて

          わたしはあいだ

          松田行正『和力』/松岡正剛『花鳥風月の科学』/『生命と現実 木村敏との対話』/『木村敏 臨床哲学のゆくえ』/『木村敏対談集』

          ☆mediopos3444  2024.4.22 〈間〉はもともと 柱と柱の間のことを表すことばで 「柱や樹木は、神話的宇宙の中心にあるシンボル」であり 四本の柱を注連縄で囲むと 「囲まれたところは見えない空間をつくりだ」し その囲まれた場所(結界)は 神と直結した垂直軸の場所である神域となる (松田行正『和力 日本を象る』) その「間」だが 「上代および古代初期においては、 「間」は最初のうちは「あいだ」をさす言葉ではな」く 「もともと「ま」という言葉には 「真」と

          松田行正『和力』/松岡正剛『花鳥風月の科学』/『生命と現実 木村敏との対話』/『木村敏 臨床哲学のゆくえ』/『木村敏対談集』

          コスモスの変容という夢のなかで

          ☆photopos-3513  2024.4.21 宇宙は マクロのコスモスと ミクロのコスモスが 照らし 照らされることで 変容していく 時空を超えた有機体である 自由とは ささやかだが かけがえのない ミクロコスモスの恩恵である マクロコスモスは ミクロコスモスを照らすが 照らし返すのは ミクロコスモスの自由に委ねられるだからだ 自由は 自由であるがゆえに 新たなものを生みだしながら 危険な破壊兵器ともなるけれど・・・ そうして 神々は ひとを照らし ひとは

          コスモスの変容という夢のなかで

          岡﨑乾二郎「掃き掃除」 (『絵画の素』)/ユング『ヨブへの答え』/シュタイナー『アントロポゾフィー運動のカルマ的関連』・「ミカエルと龍の戦い」

          ☆mediopos3443  2024.4.21 岡﨑乾二郎『絵画の素』のなかに 「掃き掃除」という章がある 英語では「掃き出す」ことも「追放」も 同じくexpulsionというそうだが 「楽園追放」といえば エデンの園のアダムとイブ 岡﨑乾二郎はトマス・コールの《楽園追放》を観て 「神は二人にむしろ冒険=駆け落ちの 機会を与えたとも思えてくる」という そこからさらにイメージは広げられ イエスが神殿から「掃き出した」「市場、商い」も むしろ「神殿の外に「解放」したの

          岡﨑乾二郎「掃き掃除」 (『絵画の素』)/ユング『ヨブへの答え』/シュタイナー『アントロポゾフィー運動のカルマ的関連』・「ミカエルと龍の戦い」

          わたしはいまどこにいる

          ☆photopos-3512  2024.4.20 わたしは わたし でいることができず いまは いま であることができず ここは ここ であることができず わたしではない だれか として いまではない いつか として ここではない どこか として いきている のか いきて いないのか わたしは いま どこに いる *愛媛県総合運動公園にて

          わたしはいまどこにいる

          古東哲明「瞬間を生きること ドロモロジーから遠く離れて」(談 no.129)/古東哲明『瞬間を生きる哲学』『沈黙を生きる哲学』

          ☆mediopos3442  2024.4.20 『談 no.129』の特集 「ドロモロジー 自動化の果てに」 に関してはすでに mediopos3402(2024.3.11)と mediopos3404(2024.3.13)でとりあげている 「ドロモロジー」とは P・ヴィリリオによって名付けられた言葉で 「前進、進行、競争、逃走」を意味する「ドロモス」と 「原理、言葉、論理」を意味する「ロゴス」の合成語 「〈今ここ〉ではない〈いつかどこか〉の彼方へと 競わせ走らせ追い

          古東哲明「瞬間を生きること ドロモロジーから遠く離れて」(談 no.129)/古東哲明『瞬間を生きる哲学』『沈黙を生きる哲学』