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対談=高野秀行×広瀬友紀「言語の/で未知を切り拓く」 (『週刊読書人』)/高野 秀行『語学の天才まで1億光年』/広瀬 友紀『ちいさい言語学者の冒険』

☆mediopos2887  2022.10.13

子供はことさらに文法を学んで
言語を習得するのではなく
使いながら言語を学んでいく

そのように高野秀行は
多くの言語を現地で学んできた

『語学の天才まで1億光年』は
その体当たり的な言語習得の冒険譚であり
ユニークかつある意味で普遍的な言語論でもある

その高野秀行と
広瀬友紀(心理言語学)の対談が
週刊読書人に掲載されている

そのなかから興味深い部分を引用してあるが

高野が「子どもは言語を身につける前に、
既に何らかのネイティヴであると感じ」ているといい
「生まれたときから何らかの言語感覚をもっている」とし

『ちいさい言語学者の冒険』の著者である広瀬は
「そう考えなければ、外界から得られるインプットだけでは
カバーできないほど豊かで高度な知識に
子どもたちがもれなく到達することを説明するのは難しい」という

シュタイナーは十二感覚に関する示唆のなかで
五感以外に言語感覚や思考感覚を挙げているが
わたしたち人間には動物が持っている
たとえばナビゲーション能力のような生得の感覚のように
言語を学び思考するための生得の感覚があり
その感覚を外界からの影響を受けながら
育てていき言語習得をすることになると考えるとわかりやすい

高野は子供のようにさまざまな言語を学び
さらにその体験を深めるなかで

「およそ、どの言語でも、言い表せないことはない」といい
「もしできない話があるとすれば、
概念自体がないときである」といい
言い表すためには概念を言葉化すると
それについて話ができるようになるといっているが

おそらくそこには生来の言語感覚に加え
概念化能力を育てる思考感覚が
創造的に加わることで表現が可能になるということなのだろう

語り得ぬものについては沈黙しなければならないともいい
それはそれで言語化不可能なものもあるが
思考感覚により概念化することで
間接的にであっても言葉化できることもある

おそらくそのはざまにポエジーがあり
語り得ぬものを詠おうとしているともいえる

■対談=高野秀行×広瀬友紀「言語の/で未知を切り拓く」
 (『週刊読書人 2022年9月30日』所収)
■高野 秀行『語学の天才まで1億光年』
 (集英社インターナショナル 2022/9)
■広瀬 友紀『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』
 (岩波科学ライブラリー 岩波書店 2017/3)

(対談=高野秀行×広瀬友紀「言語の/で未知を切り拓く」より)

「広瀬/『語学の天才まで1億光年』には、言語学者の営みの全てが詰まっています。これを読むと、「言語学者です」と名乗るのが、烏滸がましく感じられてしまう。
高野/いえいえ(笑)。広瀬さんの『ちいさい言語学者の冒険』(岩波書店)を拝読して、子どもの言語の習得の仕方は、ぼくが外国の言語を学ぶ方法とそっくりだと驚きました。子どもに同志意識が湧いています。
広瀬/大人は自分がどう言語を学んできたのか忘れているし、子どもは自分が何をしているのか普通は表明できない。しかしその両方をやってみせてくれたのが高野さんです。様々な言語の習得法を、一からご自身で類推して見つけ出し、その経験を客観的に分析・記述しているのはまさに「大きい言語学者」です。
高野/客観的な分析は、当時を振り返ることで、今だからできているのだと思いますが。
 一般的に言語を学ぶときには、テキストがあって先生がいますよね。ところがぼくの場合は、探検やノンフィクションの取材が目的で、行くのは辺境の地ばかりです。人が行かない奥地の少数民族の言語を学ぶことも多いので、テキストはないし専門の先生もいない。それでどうしても手探りになるんです。幻獣ムベンベ探査のために学んだリンガラ語は文字がなかったり、多くは文法なんてわからない状態から学びはじめます。とにかくその言語を現地で使うためにm入ってくる情報を類推して自分なりの法則を見つけ出し、法則が違っているようなら修正を加えながら、試行錯誤することになるんです。」

「高野/『ちいさい言語学者の冒険』を読むと、子どもは言語を身につける前に、既に何らかのネイティヴであると感じます。ぼくは日本語ネイティヴとして新しい言語を学ぶわけですが、子どもたちの習得の仕方がそれと同じだとしたら、生まれたときから何らかの言語感覚をもっていることになりますよね。
広瀬/はい、そう考えなければ、外界から得られるインプットだけではカバーできないほど豊かで高度な知識に子どもたちがもれなく到達することを説明するのは難しいでしょう。何語に特化していくのかは、もちろん外界からの情報に依存しますが。」

(高野 秀行『語学の天才まで1億光年』〜「はじめに」より)

「学生時代から現在に至るまで二十五を超える言語(外国語)を習い、実際に現地で使ってきた。そう言うと、「語学の天才なんですね!」などと感嘆されてしまうのだが、残念ながら現実はまるでちがう。」

「そもそも私の語学は普通の人が思っているものとはかけ離れている(念のために断っておくと、「語学」とは「言語(外国語)の学習」を指す。学問ではなくて技術の習得である)。
(…)
 ようするに、私にとって言語の学習と使用はあくまで探検的活動の道具なのである。しかし、言語(語学)はひじょうに強力な道具なので、ときには「魔法の剣」のように思える。できとうに振り回しているだけで自然に「開かずの扉(に見えるもの)」が開いてしまったりするからだ。こうなると、俄然、道具である言語自体にも興味が湧いてくる。
 いくつも魔法の剣を使っているうちにそれを比較したり、中身を自己流で分析したりしてしまうのは人の性(さが)である。すると、それは魔法でもなんでもなく、極めて論理的な構造をもっていることがわかってくる。ただ、その論理とは日本語ともちがうし、各言語同士でも似ているところもあれば、まるっきり別の組み立てであることもある。すごく不思議な構成だったりもする。でも必ずそれぞれが一つの独立した小宇宙となっている。アフリカのジャングルで話されているマイナーな言語でも、世界中で話されている英語のようなメジャー言語でもそれは変わらない。しかも言語を学ぶと、それを話している人たちの世界観もこちらの体に染み込んでくる。それが面白くてしかたがない。
 いつの間にか、私にとって語学(言語)は「探検の道具」であると同時に「探検の対象」にもなっていた。」

(高野 秀行『語学の天才まで1億光年』〜「エピローグ」より)

「三十数年にわたり、世界各地で二十五以上の言語を学んで実際に使ってきた感動を一言述べたい。よく質問されることでありながら、これまできちんと答えてこなかったからだ。
 面白いことに、初期の段階では「言語とはどうしてこんなにちがうんだろう」と思った。
 (ところが、習った言語の数が増えていくと印象が変わってきた。むしろ、「人間の言語はどれもなんて似ているんだろう」と思うようになった。多くの言語に共通する例をパッと思いつく順に挙げると、

・「〜してください」という言い方より「〜してくれますか」という言い方の方が丁寧。
 ・「あなた」という二人称を直接用いるのは失礼に感じるので、名前で呼んだり、「おにいさん」「おねえさん」みたいな呼び方をしたり、いろいろ婉曲な方法を編み出している。
 ・名詞を分類する傾向がある。中国語や日本語、タイ語のように「〜本」「〜枚」「〜個」と助数詞(類別詞)を使ったり、フランス語やスペイン語のように男性・女性に分けたり、バントゥ諸語のように十いくつかの種類(クラス)に分けたりする。
 ・音の似た単語があると、アクセントや音の高低で区別する。
 ・「行く」とか「する」といった使用頻度の高い動詞は不規則変化しやすい……etc。

逆に言えば、他の言語と極端に異なった言語もない。発音で言えば、音楽の和音みたいに二つの音を同時に発する単語をもつ言語とか、イルカのように超音波を発してコミュニケーションをとる言語など聞いたことがない。人間の身体構造を超えた発音はできないのだろう。
 異常に風変わりな文法の言語も見当たらない。例えば、目的語の中に動詞が突っ込み、「ごはん(を)食べる」が「ごは・食べる・ん」みたいになる言語はお目にかかったことがない。こちらは人間の脳が処理できないのだろう。コンピューターを使っても処理できないかもしれない。あるいは、処理できても合理的でないのだろう。
 各言語で発達したシステムの完成度にも感心する。
 前にも言ったように、一つ一つの言語は一見、驚くほど異なる。タイ語やワ語には動詞に時制がない。過去形も未来形もない。でも、過去や未来を言い表せないかというとそんなことはなく、英語のようにひじょうに多くの時制を駆使する言語と同じことが言えてしまう。
 英語の名詞には定冠詞the、不定冠詞a/anが付き、さらに単数・複数がある。日本語の名詞には何もない。では日本語の方が不自由かというとそんなことはなく、他の文法機能や文脈でちゃんと表現することができる。例えば「このへんに店とかないかな」と言えば、不特定の店のことだし、「ちょっと店に来て」と言えば、億体の店だろう。
 およそ、どの言語でも、言い表せないことはないのだ。ボミタバ語でもワ語でも、どんなテーマについても話すことができる。ボミタバ語で相対性理論について議論することも原理上可能だ。もしできない話があるとすれば、概念自体がないときである。概念がなければ、単語や表現もない。例えば、明治初期、日本には西洋文明とそれが生み出すモノの概念がなく、従って言葉もなかった。だから「会社」とか「権利」とかいった用語を作ったり、ビールとかシャツという外来語を導入したりした。すると普通に話ができるようになった。
 美しい言語や美しくない言語もない。フランス語が世界でいちばんうつくしいとか、中国語は音が汚いとか言う人がいるが、偏見にすぎない。
 どの言語もみんな美しい。」

「だから私は、つくづく思うのである。「人間はみな同じなんだな」と。
 人間は平等であるべきだとか、人権の観点から言うのではない。語学を通してみると、そういう結論しか得られないのである。」

(高野 秀行『語学の天才まで1億光年』〜「第五章 世界で最も不思議な「国」の言語(中国・ワ州篇)」より)

「村のワ語には、他の言語に当然存在するような言葉がいくつも欠けていた。例えば、「こんにちは」も「ありがとう」も「ごめんなさい」もなかった。
 私がチェンマイで習った標準ワ語にはちゃんと「こんにちは」や「ありがとう」があったが、気づくと、使っているのは私だけであった。少なくともムイレ村では使われないようだし、ワ州に住む多くの純粋ワ人はそれらの挨拶語をもっていなかったのではないかと思う。
 なにしろ、ワ人は狭い村の中に住んでいる。外から来る人もめったにいないし、こちらからよその村へ行くこともない。結婚もほぼ村内で行われるから、親戚も村の外にいない。毎日同じ場所で同じような人と会うのである。
 標準ワ語の「こんにちは」(モーム・マイ)は直訳すれば「あなたは良い」であり、これは中国の「你好」をそのままワ語に置き換えただけだろう。」

「外界から孤立した前近代社会の村には、他にもいろいろ「村言葉には存在しない語彙や表現」があった。「友だち」という単語がないことにも最初驚いた(標準ワ語にはあるのかもしれない)。
 でも、よく考えれば無理もない。物心ついたときからみんなが顔見知りの状態で、「友だち」なんて言葉を使うだろうか。友だちという言葉を使う必要があるのは、例えば、私のようなよそ者に対してだけだ。親戚でもなく、同じ村の人間でもないが、「おまえはいいやつだ。俺の友だちだ」とか「おまえ、友だちだろう。酒おごってくれ」などと言いたいときは彼らにもあり、そういうときは「朋友」と中国語を借りてくるのだった。」

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