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W・H・マシューズ『迷宮と迷路の文化史』

☆mediopos2750  2022.5.29

本書『迷宮と迷路の文化史』は
W・H・マシューズによって一九二二年に著された
迷宮と迷路の古典的名著で
「あらゆる迷宮研究の母胎であり、源流」
となっているという

迷宮といえば
ダイダロスがつくりあげた迷宮の闇のなかを
アリアドネーの糸を頼りに進んでいき
迷宮の中心にいる怪物ミーノータウロスを退治し
ふたたび外の世界へ生還するという
ギリシアのテーセウス神話だが

このテーセウス神話が成立したのは
前一四〇〇年前後のことだといわれ
迷宮図(迷宮概念)そのものは新石器時代後期
あるいは青銅器時代から存在していたという

なぜ迷宮なのか

研究者によるもっともポピュラーな解釈は
迷宮は通過儀礼とその過程を表すというもの

「通過儀礼の試しを受ける若者は
たった一人で迷宮内の曲折した道をたどり」
たどりついた迷宮の中心にいる
「異形の怪物」である「古い自己自身」を殺し
中心から外部世界へと「自己の生の道」を歩む

つまり自己の再生である

神秘学的にいえば
高次の認識を獲得することによる
あらたな霊性の獲得

引用に「ハンプトン・コートの迷路を歩いて思うこと」
という詩を引いているが
ひとの生もそれそのものが
通過儀礼にほかならないといえる

「僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出來る」
「この遠い道程のため」
という高村光太郎の「道程」という詩があるが
この「道」を「迷宮」とすれば
この詩も通過儀礼だということができる

そしてその道は「ひとり」辿らねばならない
だれかに代わってもらうわけにはいかない
じぶんの代わりに
誰かに死んでもらうわけにはいかないように
誰かに生きてもらうわけにもいかないように

じぶんという「怪物」は手強い
「怪物」を退治しても
そこから生還することも難しい
アリアドネの糸をどうするか
そこが鍵となる

■W・H・マシューズ(和泉雅人・宇沢美子 訳)
 『迷宮と迷路の文化史』
 (東京堂出版 2022/2)

(第1章 イントロダクション」より)

「迷路と迷宮のテーマには、浪漫と神秘の馥郁たる香気が漂っている。」

(「第22章 文学における迷宮」より)

「「迷路」や「迷宮」の言葉が醸し出す浪漫的で神秘的な薫りに誘われ、数多の虚構作家たちは、物語のテーマや、物語のなかで起きる出来事の舞台、あるいは読者を魅惑する象徴的な作品名などを表すために、迷路ないしは迷宮と表現してきた。」

「ハンプトン・コートの迷路は一度ならず文学作品に登場してきている。(・・・)一七四七年の『ブリティッシュ・マガジン』から引用してみよう。(・・・)

  ハンプトン・コートの迷路を歩いて思うこと

  この広大な迷宮————この世とは何なのだろう?
  人が生まれた時には、それは自然の迷路に過ぎない。
  人生を生きていくにつれ迷路は広がっていき
  曲がりくねった道がどこで終わるのかはかりしれない
  歪んだ茫漠とした人生を、人は一歩また一歩と歩む————
  危険もみえず、怖いともおもわずに!
  この迷宮を人は喜びをもって歩き回る
  角をまがっては混乱し、妙なる道から折れるたび当惑し
  横道にそれながらも、終点にたどりつきたいと願う
  知らない道、複雑な道を、それでも進んでいく
  終点にたどり着けるという見当もなく、道を歩む
  騙された間抜けのように、惑いながらも道を探し求め
  人生という短い進路のなかで、人は蒙昧に迷い
  迷路に立ち往生し、不安を抱き当惑する
  驚くことももはやなくなる最期の瞬間
  容赦ない死が、人から目隠しをとりさるまえ
  天国も現世も同じように未知であり続ける。
  陽気な真実と知恵が告白するのはその後
  死んでやっと、人生なんてただの冗談だと知ることになる

 迷路を訪れる人々が、なかでも特に若者たちが、きちんと正しい心構えをして迷路に入っていけるよう、この珠玉の言葉を真鍮に彫り、迷路の入口に掲げるべきか?」

(「解題」より)

「迷宮と迷路の古典的名著として知られる本書は、二〇世紀初頭、大英博物館においてマシューズが迷宮・迷路に関する、得られる限りの文献を探しだし、さらに独自のフィールド・ワークを通じて得られた迷宮・迷路についての記述を、総合的・体系的秩序のもとにまとめあげたものである。迷宮にかかわるほぼすべてのテーマを網羅し、史上初めて迷宮研究のパラダイムをつくりあげたという点でも、まさに歴史的偉業といえるだろう。(・・・)本書はあらゆる迷宮研究の母胎であり、源流なのである。

 人間の迷宮表象を強烈に形づくっているのは、血の臭いと悲恋に彩られたギリシアの迷宮神話である。深々とした迷宮の闇のなかを、アリアドネーの糸だけを頼りに進んでいくテーセウス。振子状に曲折する秘密の迷路はやがて彼の方向感覚を喪失させ、時間感覚さえも奪っていく。ダイダロスがつくりあげた迷宮の中心にいるのは人を喰らう異形の怪物ミーノータウロス。テーセウスはこの恐怖の存在を殺し、ふたたび外の世界へ生還しなければならない。

 このテーセウス神話のなかで最も重要な存在は何だろうか? それはいうまでもなく迷宮そのものである。ギリシア神話圏のなかで建造物が中心的役割を果たしている伝承は、たった一つしかない。ックレタ島の迷宮をめぐる伝承がそれである。建設者ダイダロスや英雄テーセウス、それどころか異形の景物ミーノータウロスでさえ脇役に過ぎない。暗闇に沈む迷宮こそがテーセウス神話の主体であり、さらには迷宮のなかをあますところなく振子状に曲折しながら周回する通路と、その果てに待ち受ける「中心」こそが迷宮の意味のすべてである。

 テーセウス神話が成立したのはおそらく前一四〇〇年前後のことだといわれているが、迷宮図、つまり迷宮概念そのものはこの神話よりはるか昔から、岩面陰刻の、迷宮に類似した同心円図まで含めると、おそらくは新石器時代後期あるいは青銅器時代から存在していた。」

「迷宮の形式はこのように歴史的な史料として存在しているが、しかしその一方で最も興味深く、最も困難な問いは迷宮の意味への問いである。(・・・)

 おおむね研究者のあいだで第一に推奨されている解釈は、迷宮が通過儀礼とその過程を表すというものである。通過儀礼の試しを受ける若者はたった一人で迷宮内の曲折した道をたどり、全空間をあますところなく通過したあとで否応なく中心に到達せざるをえない。たどりついた先のその中心で出会うのは神的原理であり、異形の怪物であり、古い自己自身である。迂回路という負荷を経過したあとに到達した中心において出会った神的原理に影響を受け、あるいは異形のものを殺し、あるいは古い自己を否定することで、儀礼の試しを受ける若者は新たな自己を獲得し、外部世界へと戻っていく。つまり迷宮の中心への道は古い自己の死への道であり、中心から外部世界への道は新たな自己の生の道ということになる。迷宮の道はきわめて両義的な道なのである。

 この解釈を宗教的に変容させたのが教会迷宮である。教会迷宮は、異教古代の迷宮表象をキリスト教化したものにほかならない。その形式はオトフリートの写本迷宮を経由して、クレタ迷宮の単一路型を踏襲、発展させたものである。教会の身廊に設置された迷宮は罪に穢れた現世の象徴であったというのが一般的な見解である。」

「迷宮表象はすぐれてアクチュアルな創造力を備えた存在なのであり、気の遠くなる時間を超えて生き延び続けている。一九八〇年代からふたたび迷宮への注目が集まり、二一世紀の今日にいたってなお、あらたな迷宮建設、迷路建設が盛んに行われている。(・・・)二一世紀にいたってなお迷宮表象にその生動性を与えている力の源泉は、ほかでもない、闇に沈む迷宮の血塗られた謎にあるのかもしれない。」

《目次》

第 1 章 イントロダクション
第 2 章 エジプトの迷宮I
第 3 章 エジプトの迷宮II
第 4 章 クレタの迷宮I
第 5 章 クレタの迷宮II
第 6 章 クレタの迷宮III
第 7 章 エトルリアまたはイタリアの迷宮
第 8 章 古代芸術における迷宮
第 9 章 教会迷宮
第10 章 芝迷宮I
第11 章 芝迷宮II
第12 章 芝迷路の起源
第13 章 花壇迷宮と小低木迷路
第14 章 トピアリー庭園迷宮、あるいは生垣迷路I
第15 章 トピアリー庭園迷宮、あるいは生垣迷路II
第16 章 トピアリー庭園迷宮、あるいは生垣迷路III
第17 章 置き石迷宮と岩面陰刻
第18 章 トロイ舞踏、またはトロイ競技
第19 章 「麗しのロザモンド」のあずまや
第20 章 迷路の語源
第21 章 迷宮デザインと迷路の解法
第22 章 文学における迷宮
第23 章 余録および結論

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