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『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』/発刊特集 「利他をつくる/つくるの中の利他(1)第1週 何かを意図して設計し、意図せざる者と出会う」(みんなのミシマガジン)

☆mediopos3419  2024.3.28

ミシマ社のwebサイト「みんなのミシマガジン」に
未来の人類研究センター編
『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』の
発刊を記念して行われた
伊藤亜紗×中島岳志×北村匡平×塚本由晴×山本貴光による
トークの模様が掲載されている(全4回のうち今回は第1回)

まずトークの方向づけを示唆している
伊藤亜紗による「まえがき」から

「利他」は「生産性」や「合理化」といった
社会の標準的なものさしからは外れているが
「経済活動の外側に位置する、余剰のようなもの」でも
「余裕のある人が行う、困っている人のための「ほどこし」」
なのでもない

「利他という概念」は
「それについて考える者に「人間であること」を要求する」
つまり「〇〇である前に、人間として、
おまえはどう振る舞うのか」と問いかけてくるのだという

サブタイトルに「テクノロジーに利他はあるのか?」とあるのは
「つくることによって人を動かすこと」一般に関わる利他の問題が
扱われているということなのだが
「人を動かす」というとき
他者をコントロールしてしまうことにもなりかねない

「それが利他かどうかを決めるのは、
与える側の能動性や意図ではなく、
受け取る側がそこに見出す価値」なのだが
かといって
すべてを受け手に委ねてしまうわけにもいかない

その意味でサブタイトルには
「よき受け取りが発生しやすいような状況を
設計することはできるのではないか」
という問いが込められている

さて今回はその第1週
「何かを意図して設計し、意図せざる者と出会う」

主に山本貴光から
雑誌に収録された記事へのコメントが掲載されている

建築家の塚本由晴の記事では
建築設計をおこなうとき
その「打ち合わせに誰を呼ぶのか」と問いかけているのだが
そのことが印象的だという

打ち合わせに
施主や関係者だけを呼ぶのだけではなく
「その場所にいる動物とか植物とか微生物、
あるいは空気とか水といった環境、
さらにはすでにこの世にいない人も含めた、
そういう存在たちも、打ち合わせに呼んだほうが
良かったんじゃないか」というのである

山本氏は「人間はどうしても、
人間の役に立つことばかりを考えちゃうんだけど、
その外側に、本当は関係しているんだけど目に入りにくい、
いろんなものがあって、
そこまで打ち合わせに呼んだほうがいい」のではないかという

その打ち合わせに誰を呼ぶかという問題のように
テクノロジーと利他の関係について考えるときにも
「○○として」という役割のもとに
ある目的に照らした対象となる者のために設計するとしても
その外側にいる「意図せざる者と出会う」ことになる

つまり対象となる者をコントロールするという関係ではなく
意図の外にあるファクターとの関わりも問題となる

伊藤氏がまえがきで示唆しているように
そうして「利他」を考えていくと
ある目的のもとに○○として設計するというような
「役割」としてではなく
その前に「人間として、おまえはどう振る舞うのか」
ということに向きあわなければならなくなる
それは特定の想定された「意図」を越えているからだ

生産性でも目的合理性でも
勝ち負けでもコストパフォーマンスでもなく
主体性や意志あるいは役割といったものの「下」にある
「人間」としての振る舞い・・・

「利他」というのは
じぶんという「仮面」の下にある
いまだ見たことのない「顔」を
恐いもの見たさで見ようとするような
そんな「空恐ろしい」振る舞いなのかもしれない

■未来の人類研究センター編『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』(ミシマ社 2024/2)
■『RITA MAGAZINE』発刊特集
伊藤亜紗×中島岳志×北村匡平×塚本由晴×山本貴光
 「利他をつくる/つくるの中の利他(1)第1週 何かを意図して設計し、意図せざる者と出会う」
((構成:星野友里 みんなのミシマガジン 2024.03.27)

**(未来の人類研究センター編『ITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』
   〜伊藤亜紗「まえがき」より)

*「店なのに、ただめしを食わす。
 せっかくの食糧を、あげてしまう。
 急な客人を、歓待する。

 利他はどこかとぼけた概念です。
 誰かに強制されたわけでもないのに、ときに己の身の安定すらかえりみず、他人の利益になるような行動をしてしまう。事例をならべるだけで、「なんで?」と笑いがこみあげてくるような気さえします。
 利他は、「生産性」や「合理化」といった、私たちがくらす社会の標準的なものさしからは、明らかにはずれた振る舞いです。競争における勝ち負けからも、コストやパフォーマンスの計算からも、利他は外れているように見えます。
 では利他は、経済活動の外側に位置する、余剰のようなものなのでしょうか? 利他は、余裕のある人が行う、困っている人のための「ほどこし」なのでしょうか?
 そうではない、と私は思います。

 私は二〇二〇年から四年間にわたって、大学の仲間たちと、利他について研究をしてきました。その中で繰り返し実感してきたのは、利他という概念が、それについて考える者に「人間であること」を要求する、ということです。
(・・・)
 一企業の社員であること。店の経営者であること。病院の医師であること。だれもが背負っているこうした「社会的な役割」をいったん脇においたときに初めて向き合えるのが、利他という概念なのかな、と感じています。「私は〇〇だから」という仮面をはずしたときにようやくその下に現れるもの、というか。
 つまり、利他は、生産性や合理化の「外」にあるものではなく、むしろ「下」にあるものなのではないか。もし人間である私たちが、完全に個人的な存在で、自分の利益を最大化することしか考えていなかったら、社会などつくらないでしょう。利他的な関係がまずあって、社会が生まれ、そのうえに私たちが当たり前だと思っている制度や価値観が乗っかっている。利他は私たちの社会のあり方を、土台の部分から考え直すための道具です。
 とぼけていながら、「〇〇である前に、人間として、おまえはどう振る舞うのか」と問うてくる。そう、それが利他という概念の空恐ろしいところなのです。」

*「サブタイトルの「テクノロジーに利他はあるのか?」についても一言。私たちの所属は東京工業大学ですので、つねにテクノロジーの問題が身近にあるのはたしかです。でもここでいうテクノロジーは、必ずしも狭義の「科学技術」には限定されません。本書では、AIやロボットのような文字どおり科学技術に関する話題も出てきますが、法律や料理なども含めた「つくること」一般、もっと言うと「つくることによって人を動かすこと」一般に関わる利他の問題が扱われています。
 これがじつはとても難しい。なぜなら利他の最大の敵は、他者をコントロールすることだからです。しばしば利他は「善行」と混同されています。けれどもその善行が「自分の頭で考えた、相手にとってよいこと」であるかぎり、それは自分の正義を押し付けることになってしまう。私たちが大事にしたい利他は、受け取り手がよろこぶ利他です。それが利他かどうかを決めるのは、与える側の能動性や意図ではなく、受け取る側がそこに見出す価値です。
 でも、すべてを受け手に委ねてしまうと、偶然を待つだけになってしまいます。それでは、社会が抱えるさまざまな問題に対して、利他という道具は何もできないことになってしまう。受け手の受け取り方そのものは設計するべきではないけれど、よき受け取りが発生しやすいような状況を設計することはできるのではないか。そのような状況を生み出すような、法律やロボット、食堂の形はつくれるのではないか。それが本書のサブタイトル「テクノロジーに利他はあるのか?」に込められた問いです。」

*「心の問題ではなく、創造の連鎖としての利他。」

**(『RITA MAGAZINE』発刊特集 「利他をつくる/つくるの中の利他(1)
   第1週 何かを意図して設計し、意図せざる者と出会う」より)

*「伊藤/皆さんこんにちは。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センターの伊藤です。今年の利他学会議は、八丈島から配信という形でお送りしています。

 ちょうど先週、我々のセンターの活動をまとめたピンクの本、『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか』という、東工大全体にケンカを売ったような(笑)サブタイトルがついた雑誌形式の本を、ミシマ社さんから出版しました。

 この分科会は、「利他をつくる/つくるの中の利他」と題して、この本に関わった旧センターメンバーと、本には関わっていないけれども現在センターの中で活動をしているメンバーで、出版記念トークのような形で進められたらと思います。

 この本のサブタイトルの「テクノロジーに利他はあるのか」というのは、東工大が科学技術の大学だということもありますが、そういう狭い意味でのテクノロジーだけではなくて、人が何かをつくること、つくってさらに社会とか世界に影響を与えていくこと、そういうことの中の利他を考えたい、という思いもありつけました。それを受けてこの分科会は「つくる」ということをキーワードに、進めていきたいと思っています。」

*「伊藤/それではゲストの3人をご紹介します。まずは、我々のセンターの初代メンバーであり、初代のプロジェクトリーダーでもある中島岳志さんです。専門は政治学ですが、この本の中では、3章立ての中の第2章、「『野生の思考』とテクノロジー」を主に担当されました。

 それからお2人目が北村匡平さんで、ご専門は表象文化論です。センターの第2期メンバーで、2代目プロジェクトリーダーとして活動を支えてくださり、とくに公園の遊具の問題を利他と絡めて考えいらっしゃいます。この本の第3章「「共感」を前提とせずに「共にいる」」を担当されました。

 3人目は塚本由晴さんです。今日はそちらはどこですか。

塚本/ここは千葉県鴨川市の、釜沼の集落で、棚田の綺麗なところです。そこで里山をフィールドにしたデザイン教育の実験をしています。

伊藤/塚本さんは東工大の同僚で建築家なのですが、センターのメンバーではなくて、それでもセンターができたときからずっと関わってくださっています。

 それから八丈島にもう1人、現センターメンバーで山本貴光さんがいらっしゃいます。ご専門は学術史と称しておられて、専門がわからないぐらい、どんな球を投げても返ってくる博学な方で、センターの中では水プロジェクトに入ってくださっています。利他のことは、直接は考えるミッションが与えられているわけではないお立場ですけれども、読者代表として、この本を読んでいただいた感想を、最初にいただいて、始められたらと思います。」

*「山本/「テクノロジーに利他はあるのか」というテーマを見て、思い出したことをご紹介します。この雑誌を楽しむ上でも補助線になると思います。

 2022年に作家の長谷敏司さんが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房)という小説を発表しています。先日、日本SF大賞も受賞したのですが、これがテクノロジーと人間の関係をめぐるとても現代的な面白い話なんですね。かいつまんで言うと、主人公のコンテンポラリーダンサーの青年が、事故で片脚を失ってしまう。それで義足をつけるのですが、その義足にはAIが仕込んであって、利用者の歩き方を義足が学習しながらチューニングしてくれるというわけです。

 AI義足をつくる人は、歩く人が安全に歩けて、転ばないように、誰が使ってもそうであるのがいいだろうという、ある種、利他的な意図で設計している。でも、主人公はコンテンポラリーダンサーです。ダンスをしたい。そのためには、不安定な体の傾け方もいろいろと試したい。しかし試そうとすると義足が勝手に修正してくる。そこでせめぎ合いが生まれるんですね。

 テクノロジーは一般的に、より多くの人に共通の役に立つことを設計して共有しよう、という発想でつくられる。でも、このダンサー個人においてはそうではない状態が必要である。そうした一般的なものと個別的なものとの齟齬のような状態がとても巧みに書かれています。まさに「テクノロジーに利他はあるのか」というテーマにぴったりと思ってご紹介しました。

 改めて雑誌に戻ってみます。すべての記事にコメントしたいところですが、今日はご登壇のみなさんに関わるところに注意を向けてみます。まず第2章の、塚本さんのお話の中でとても印象的なのが、建築などの設計をするときに、打ち合わせに誰を呼ぶのかという問いです。施主や利用者のような普通念頭に置かれる関係者を呼ぶだけではなく、その場所にいる動物とか植物とか微生物、あるいは空気とか水といった環境、さらにはすでにこの世にいない人も含めた、そういう存在たちも、打ち合わせに呼んだほうが良かったんじゃないかと。」

「山本/その次に、中島さんとドミニク・チェンさんの対談で、今度は人ならぬ、Nukabotというロボットとぬか床の微生物たちの話が出てきて、先ほどの塚本さんのお話ともつながっていると思いました。人間はどうしても、人間の役に立つことばかりを考えちゃうんだけど、その外側に、本当は関係しているんだけど目に入りにくい、いろんなものがあって、そこまで打ち合わせに呼んだほうがいいわけです。また、Nukabotについてロボットはあくまでも人間が行うことをサポートしているだけで、全自動で便利にしようというものではないという議論があったかと思います。これもまた、テクノロジーと利他の関係について考える上で不可欠の視点だと感じます。テクノロジーでサポートはするけど、人間がやることをちゃんと残しておくと言いましょうか。

 山本/それから、伊藤さんが巻頭言で、「利他」という概念について考えていくと、ついには人間であるということに立ち戻される、ということを書いています。これはこの雑誌全体に通じる指摘だと思いました。普段私達は人間としてではなくて、例えば「先生として」とか「高校生として」とか「アーティストとして」とか「親として」とか、「何々として」いう立場や肩書きや役割で生きている。肩書きや役割は、言うなれば特定の目的とセットになっている。そしてその肩書きで行動する場合、肩書きにくっついている目的に照らして利害を判断したりする。それ以外のことは二の次になっちゃうわけです。でも、伊藤さんがご指摘のように、利他について考えていくと、そうした肩書き以前の人間であることに戻されることになる。肩書きの外側にあるものに、もう1回引き戻されるということで、これは打ち合わせに誰を呼ぶか問題と、似た形の話だと思いました。

 それから最後に、北村さんの、歓待についての映画(深田晃司監督『歓待』2011)をデリダの歓待論と突き合わせながら読み解くという、全体を振り返るような素晴らしい論考がある。異邦人がやってきたとき、その異邦人には訪問する権利があるというカントの主張に対して、ジャック・デリダは、いや、そうじゃない、条件をつけない歓待が必要なんだと言った。これは今まさに日本で起きている、外国人を「労働者として」なら受け入れる、といった出来事に重なる話ですね。自分たちにとっては有益に思えるなんらかの目的に照らして、役立つか否かで異邦人を受け入れるか否かを決めようとする態度に対して、なんであるかを問わず歓待するという議論です。もちろんこれは理想論で、実際にはさまざまな課題が生じて難しいことですが、その点に着目して論を展開されている。

 雑誌全体を通して、ある意図に基づいて目的や機能を設計するけれど、結果として意図せざる者と出会ってしまう、という話になっていて、これが非常に面白かったです。」

*「伊藤/ありがとうございます。そうですね、「として」というのを、常に言い訳にしていて、それは言い換えると、自分が生きている中で、自分の担当であるものと担当じゃないものを、けっこう分けている。自分が何とかしなくちゃいけない状況だったり対象があって、でも本当は、その外側に、担当外のものがいろいろあるんだけど、それはなかったことにして生きているなっていう。

 この前、とある重度知的障害者の入所と通所の施設を見学する機会があったんですけれども、そこは絶対に担当を決めないんです。重度知的障害の方は、自分で「こうしてほしい」とは言ってくれなかったりするので、正解がわからない。担当者を決めてしまうと、今、こうしたがっているんだ、というふうに勝手に決めちゃって、その人の解釈を正解として物事が進んでしまう。それはとても危険なので、常に「最近こういう行動をしてるけどあれは何だろう」というふうに、みんなで解釈を言い合う。会議はめっちゃ長くなるんだけど、そういう関わり方をしている。

 利他学会議を開催するときにも、誰々がこのテーマを担当して、他の人はしない、というふうに分けないで、みんなで考える、ということを中島さん提案してくださったのを覚えているのですが、それがこの利他学会の、分科会とちゃぶ台トークでいろんな人がひとつのテーマについて語らう、という仕組みにつながっているんですよね。

北村/山本さんがさっきコメントくださった点、同じように考えていて、やっぱり人文学の研究者が集まって利他の問題を考えると、人間の主体とか意志とか、そういう話になりがちなんですけど、この雑誌は、そういった話がすごく少ないですよね。

 それよりもむしろ、人間以外のファクターがどう関わっていくのか、その環境の話をひたすらしている。仕組みや環境システムをどうコントロールするかじゃなくて、どうそれらから解放していくか。それが一貫していて、自分で言うのもあれですけど、すごく面白い、唯一無二の雑誌になったんじゃないかなと思いました。」

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