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卯田 宗平『鵜と人間: 日本と中国、北マケドニアの鵜飼をめぐる鳥類民俗学』

☆mediopos2702 2022.4.10

鵜は河川や湖・海辺などに行けば
比較的どこにでもみられる
(鵜にはカワウとウミウがいる)

その鵜を使って漁をする鵜飼は
日本と中国そして
北マケドニアにおいて行われているが
とくに日本と中国において
その鵜飼のあり方はずいぶん異なっている

まず中国の鵜飼では
人工的に繁殖させたカワウを利用しているが
日本の鵜飼では野生のウミウを捕獲し
それを飼い慣らして利用している

中国の鵜飼では野生の個体を捕獲して
飼い慣らしている事例はなく
逆に日本においてはウミウやカワウを
人工的に繁殖させたという記録はないという

動物では家畜化
植物では栽培化のことを
ドメスティケーションというが
そのドメスティケーションのあり方が
基本的に異なっている

中国やその周辺地域ではかなり昔から
カワウはもちろんイノシシをブタに
クワコをカイコに
マガモをアヒルに
サカツラガンをガチョウに
ヒブナをキンギョに改変し
コイの養殖もおこないはじめたという歴史があり
最近のゲノム解析では約三万三〇〇〇年前に
オオカミからイヌへの初期の家畜化も行われたようだが

日本では室町時代にウズラの生殖介入を行った以外
動物への生殖介入には消極的であったという

その違いは中国と日本との自然観の違いもあるようだが
少なくとも鵜のドメスティケーションにおいては
野生の個体を毎年安定的に捕獲できるかどうかという
基本的条件が大きく関わっているようだという

日本の鵜飼では毎年野生のウを捕獲して飼い慣らすが
(北マケドニア共和国でも同様だったという)
それは毎年野生のウが捕獲できるからであって
中国ではそれが安定して可能ではないため
カワウを飼育し繁殖させ鵜飼で使用する

そうした中国のような仕方で鵜飼を成り立たせるには
人為的な環境で「飼い慣らす」だけでなく
「飼い慣らしすぎない」ことが重要だという
その野生性を保持しなければ
漁が成立しがたくなってくるからだ

「飼い慣らしすぎない」ために
中国の漁師たちはカワウとの関係がドライで
必要な距離をとりながら
人間の管理下におき徹底的に利用している

こうしたことを見ていくと
ドメスティケーションが成立するためには
動物を人間の完全な管理下におかなければ
動物からの恩恵が安定して得られないという
いってみれば厳しい自然条件があるようだ

そうしてドメスティケーションが常態である文化と
ドメスティケーションが消極的にしか行われない文化が
成立してきたところも大きいのかもしれない
それがそれぞれの人間と自然との関係が
どのように築かれていくかにも深く影響しているのだろう

しかし鵜飼とは関係しているわけではないが
ふと頭をよぎったのは
人間のドメスティケーションということだ
人間は動物のドメスティケーションを行うが
人間もどこかでだれかからなんらかの仕方で
ドメスティケーションされているのかもしれない
おそらくそれはSFの世界だけではなさそうだ

いわゆるグローバル化した世界において
人間はさまざまな手段を通じて
ドメスティケーションされているのではないか
そしてそのときに重要視されているのも
ひょっとしたら
ある種の環境で「飼い慣らす」だけでなく
「飼い慣らしすぎない」ことによって
「魚」を効率的に捕獲しようとしているのではないかと

とくにここ数年来の全人類的な事件や
最近起こっている事件をみるだけでも
そんな想像をせざるをえないところがありはしないだろうか

■卯田 宗平『鵜と人間: 日本と中国、北マケドニアの鵜飼をめぐる鳥類民俗学』
 (東京大学出版会 2022/1)

(「まえがき−−−−なぜ生殖に介入しないのか」より)

「鵜飼とは鵜を利用して魚を捕る漁法である。」

「中国の鵜飼では漁師たちが人工繁殖させたカワウを利用している。一方、日本の鵜飼では野生のウミウを捕獲し、それを飼い慣らして利用している。実際、中国において野生個体を捕獲しているという事例はなく、日本において過去にウミウやカワウを繁殖させたという記録もない。(・・・)考えてみれば、中国やその周辺地域では、長い歴史のなかで鵜飼のカワウだけでなくさまざまな動物の生殖に介入してきた。諸説はあるが、たとえばイノシシをブタに、クワコをカイコに、マガモをアヒルに、サカツラガンをガチョウに、ヒブナをキンギョにそれぞれ改変し、コイの養殖も開始した。さらに最近のゲノム解析によると、約三万三〇〇〇年前にオオカミからイヌへの初期の家畜化もおこなわれたとされる。中国では動物を人為的な環境にとりこみ、その全生活史を人間の管理下におくことに積極的である。
 一方、日本では各地に大規模なシシ垣が築かれるほどイノシシがいたにもかかわらずブタに改変することなく、オオカミからイヌをつくらず、マガモやフナもたんに食す程度である。日本では室町時代にウズラの生殖介入を開始したといわれているが、それ以外の動物への生殖介入には消極的である。このような違いは何が起因するのであろうか。」

(「序章 いま、なぜ鵜飼なのか」より)

「現在、鵜飼は中国と日本でみることができる。ただ、ひとことで鵜飼といっても日中両国でさまざまな違いがある。中国の鵜飼は一部に観光を目的としたものもあるが、その多くは生業として続けられている、各地には年間を通して鵜飼に従事する漁師もいれば、農閑期にのみおこなう漁師もいる。漁がおこなわれる場所も大きな河川や湖沼から狭い水路やクリークまで多様である。こうした中国の鵜飼のひとつの特徴は、漁師たちが繁殖させたカワウを利用していることである。彼らは自宅などでカワウを飼育し、繁殖期になると特定の個体を交配させ、卵を産ませる。そして孵化した雛を育てて鵜飼で使用する。
 一方、いま日本でみられる鵜飼は観光を目的としたものである。現在、岐阜県岐阜市や関市、広島県三次市など一〇か所以上で鵜飼がおこなわれているが、生業として続けられているところはない。日本の鵜飼の特徴は過去より野生のウミウやカワウを利用してきたことである。日本の鵜飼は一三〇〇年以上の歴史があるが、ウを繁殖させたという記録はない。」

「日本と中国の鵜飼におおいてウの生殖介入という側面が大きく異なる。一般に、生殖が人間の管理下にあるかどうかが家畜動物か否かを判断するための重要な条件となる。この条件にしたがうと、中国の鵜飼におけるカワウは家畜動物である。一方、日本の鵜飼におけるウミウやカワウは野生個体を飼い慣らしているだけなので訓化動物といえる。くわえて、かつて北マケドニア共和国でおこなわれていた鵜飼い漁においてもカワウへの生殖介入はなかった。(・・・)漁師たちは毎年初冬になると湖に飛来するカワウを捕獲して冬季の漁で利用し、翌春にすべて放鳥していた。」

「ウを漁の手段として利用する場合、漁師たちはそれらを人間や漁船になれさせ、鵜飼という特殊な漁法に適した行動特性を獲得させる必要がある。(・・・)一連の漁業活動において、カワウが人間を恐れつづけ、漁の開始とともに次々と逃げだすようでは話にならない。
 一方、カワウは漁師たちによって代々飼育されているが、その過程で家畜動物特有の性質を過度に獲得されても困る。一般に、動物は世代を超えて人間の介入を受け続けると、祖先野生種とは異なる性質をもつようになる。(・・・)
 育てたウミウやカワウが漁師のそばから離れなかったり、過度に従順になったり、漁に無関心になったり、攻撃性が減退したりすればどうなるであろうか。それらの変化が漁獲効率の低下に結びつくことは容易に想像できる。ゆえに、鵜飼の現場ではウに家畜動物特有の性質を過度に獲得させないための働きかけも重要になる。すなわち、漁師たちは飼育するウを人間に慣れさせるだけでなく、逆に人間に慣れさせすぎず、その野生をも保持しなければならない。(・・・)つまり。鵜飼を成り立たせるには、ウを人為的な環境で「飼い慣らす」だけでなく、「飼い慣らしすぎない」という働きかけも求められるのである。」

(「第八章 鵜飼が生業として成りたつ条件」より)

「野生の個体を毎年安定的に捕獲できる条件下では、やはり手間や時間をかけて生殖に介入するという動機は生じないといえる。逆にいえば、特定の季節になると漁の手段を確実に入手できるため、使用後にそのすべてを手放すことができるのである。」

(「終章 鵜と人間、かかわりの原理」より)

「中国の漁師たちはみずからでカワウを繁殖させ、人間や漁船に慣れさせるが、一方で過度に慣れさせず、その野性性を保持させる働きかけも続けている。彼らは漁の手段としてのカワウを人為的な環境にとりこむだけでなく、とりこみすぎないことにも留意している。この事実を踏まえ、本書では相反する二つの志向性を使いわけながら鵜とかかわることをリバランスとよんだ。リバランスとはバランスを調整するという意味である。」

「鵜飼には、自然を読み、技と向き合い、みずからが飼い慣らした動物によって獲物を仕留めること自体に飽きさせない面白さがあるのではないだろうか。たとえば、長良川の鵜飼では野生のウミウを使用している。鵜匠たちによると、捕獲されたばかりのウミウは気性が荒くて神経質であるため、扱いを誤ると「鵜匠の目玉を目がけて、鵜は鋭い口嘴を向けてくる」という。こうしたなか、鵜匠たちは毎日何度もウミウの体に触れることでゆっくりと人間に慣れさせ、お互いの信頼を築こうとする。すると、鵜匠とウミウとのつながりが徐々に強くなり、やがてウミウを「鵜匠の手足代わりに、自在に駆使して、鮎を捕らせる」ことができるようになる。
 そして、実際の鵜飼では、みずからが飼い慣らしたウミウとともに「清流を鵜舟で漁をしながら下る爽快さは、やめられない楽しみ」があるという。ことに、鵜飼ではウミウの飼い慣らしや舟上での手綱さばき、急流での操船技術などが高いレベルで求められる。こうした自然と対峙する技は、「つかみ得たとの心境を味わうこと」が難しく、その習得が一生の課題となる。ゆえに、ウミウが獲物を仕留めることは日々のたゆまぬ努力の結果であり、そこに鵜飼の醍醐味がある。そして、そのときの醍醐味や気持ちの張り合いが技と向き合う意欲をさらに掻き立てるのではないだろうか。」

「鵜飼が成りたつ要因は面白さだけではない。とくに、中国における大規模な生業としての鵜飼では鵜に対するドライな態度も重要であると考える。ここでいうドライな態度とは、対象に情緒的な結びつきを強く抱かず、あっさりと割り切った感情で接するという意味である。」

「生活文化史の原田信男によると「動物を徹底的に利用する社会の方が、かえって動物との関係がドライで、割り切り方という意味で、距離の取り方がはっきりしている」という。たしかに、中国の漁師たちはカワウの全生活史を人間の管理下においており、カワウを徹底的に利用している。こうしたなか、彼らは人間とカワウとの間で主従の関係を明確にし、対象に過剰で複雑な感情をもちこまず、「カワウは漁の手段である」とあっさり割り切った態度で接する。カワウに対するこうした態度も鵜飼を生業として成りたたせる条件のひとつであると考える。」

【目次】

まえがき――なぜ生殖に介入しないのか
序 章 いま、なぜ鵜飼なのか
第一章 鵜飼研究の到達点――何がどこまでわかっているのか
第二章 なぜ鵜飼が誕生したのか
――野生種を飼い慣らす技術から考える鵜飼誕生の条件
第三章 前例なきウミウの産卵と鵜匠による手さぐりの応答
――宇治川の鵜飼における二〇一四年のできごとから
第四章 ウミウの繁殖生態の変化と「技術の収斂化」
――宇治川における四年間の繁殖作業を手がかりに
第五章 野生性と扱いやすさのリバランス論
――育てたウミウの個性と鵜匠による介入の強弱
第六章 日本の鵜匠がウミウの生殖に介入しない理由
――ウミウ産卵の要因をめぐる地域間比較研究
第七章 なぜ中国の漁師はカワウを繁殖させるのか
――中国雲南省大理ぺー族自治州の洱海における繁殖技術と生殖介入の動機から
第八章 鵜飼が生業として成りたつ条件
――北マケドニア共和国ドイラン湖におけるマンドゥラ漁の事例から
終 章 鵜と人間、かかわりの原理
あとがき――一点突破

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