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鷲田清一「所有について/最終回 ㉗危うい防具」 (群像 2023年11月号)

☆mediopos3252  2023.10.13

2020年2月(「群像」)からはじまった
鷲田清一「所有について」の連載は
今回(群像 2023年11月号)で最終回(第27回)

この連載については
mediopos-3094(2023.5.8)でも
とりあげたことがあるが
最終回ということであらためて

前回も少しふれたように
「所有」しているということは
近代の法的認識のような
じぶんのものとして専有する権利ではなく
「預かっている」ということであり
そこには義務と責任が伴っている

所有する主体としての「わたし」と
所有される対象との関係は
その両者の閉じた関係としてあるのではなく
そこには「社会的な承認や受託という契機」があり
それによって「所有」が成立している

所有権があるとしても
それは所有しているものが
じぶんの意志で自由にできることではなく
しかもときには「これはわたしのものだ」から
「分け与えることができる」ということにもなる

そうした意味でも「所有」を
「受託」としてとらえかえす必要がある

つまりひとつには
「私的所有」の権利を要求することではなく
「状況にとって」「もっとも適切な配置」のもとに
置くということであり
もうひとつには
「その可能性をどう生成させてゆくか」という
「帰責」の問題であるということである

わたしの身体や知識といったものにおいても
それらはわたしが預かったものであり
わたしだけに閉じた固有のものではない

じぶんの身体を大切にすることも
また得た知識を活用することも
それらはわたしに「帰属」していることを超え
その責任とさらにいえば義務を
どう果たしてゆくかが問題となる

鷲田清一は本稿の最後に「所有」の概念を
「未来を拓くものとして編みなおす」ことを示唆している

未来の世代はまだ存在はしていないが
そうした「現時点では不在の、
仮想の人たちからの信任ないしは負託に応える
というかたち」での「義務と責任」ということにおいて
「一つの贈与として取り組まれる」必要があるという

現代においてはとりわけ
「所有」をじぶんだけの権利としてとらえる向きと
「受託」されたものとしての「義務と責任」として
とらえる向きという
ふたつの「所有」のありようを
如実に目の当たりにできる時代だともいえる

いうまでもなく世のほとんどは前者で
その象徴的な典型が
富の一極集中やそれに付随した政治家の姿だが
それゆえにこそその姿を反面教師として
そこからの「自由」をいかに拓いてゆけるかが
現代の最重要なそして喫緊の課題となっている

■鷲田清一「所有について/最終回 ㉗危うい防具」
 (群像 2023年11月号)

(「〈もつ〉ということ————「有(も)つ」と「保(も)つ」」より)

「わたしが何かを所有しているという関係は、わたしという同一的な主体が、何かある対象をじぶんのものとして、つまりその有りようをみずから決することのできるものとして保有していることというふうに、通常は思念されるのであるが、しかし、このわたしと特定の対象との関係を《所有》の関係として規定し、下支えしているものは、けっして「わたし」という主体なのではないということ。このことをわたしたちはさまざまな視点から浮き彫りにしてきた。《所有》という関係は、所有する主体と所有される客体との恒常的な関係ではないこと、いいかえると、所有する者としての「わたし」と所有される物としての対象との関係は、「わたし」と当該対象との閉じた関係としてあるのではなく、つねに社会的な承認や受託という契機を内蔵することではじめて《所有》へと構造化されていること、つまり《所有》関係の形式である所有者/所有物はそれぞれに独立に二項ではなく、「わたし」はつねにある対象の所有権をめぐる係争に曝され、いつ破棄されるやもしれないし、当該の対象もまたどのような意味で、どこまで所有権の対象であるのかも「わたし」の意志によっては決しえないということ、それゆえにまた、ある物について所有権をもつことはかならずしも所有する者がそれを意のままにしうる権利(=自由処分権)を意味するものではないということ————極端なことをいえば、「これはわたしのものだ」という言明からはかならずしもつねに「だからそれをどう処理しようとわたしの勝手だ」という言明が続くのではなく、「だからみなに分け与えることができる(あるいは、分け与えなければならない)」という言明が続きもするというところまで想像を拡げる必要があること————、しかしその一方でまた、この《所有》の(権利というよりも)契機なくしては人の生存、ひいては「わたし」の存在も成り立たないこと・・・・・・。このようなことを視野に入れたうえで、わたしたちの生存もしくは《存在》に《所有》という契機があらためてどのようなかたちで組み込まれているのかを考える必要がある。」

「本連載がその冒頭で、「ある」と「もつ」という二語をめぐるエミール・バンヴェニストと和辻哲郎の論攷を手がかりに、とりあえず議論の起点として確認しておいたのは、《存在》と《所有》の対置ではなく、むしろそれらの相互共軛的な関係であった。」

(「〈プロパティ〉から〈プロプライエティ〉へ」より)

「「所有」が「存在」を支えるとときの「所有」は、あるモノが「だれのものか」というモノの帰属をめぐってその権利をたがいに主張しある近代的な「所有権(プロパティ)」の「所有」ではない。「持つ」「有つ」「保つ」・・・・・・と意味の含みを拡げるこの「もつ」はどういうかたちで「存在」を支えているのか。いや、こういう問い方は正確ではないだろう。「存・在」こそ(和辻にいわせれば)「忘失・亡失」に抗ういとなみ、すなわち「把持」であり、「有」こそ何かの「失」を回避するかたちで「有つ」(=保たせる)ことであったのだから、「存在」も「有」もこの三重の「もつ」をその存立の核としているのである。

 そして、《所有》を《受託》として捉えかえすべきだというわたしたちの議論が引き継いでいかなければならぬのも、まさにこの論点なのである。《所有》を《受託》へと読み換えてゆくことの意味はおそらく、次の二点に集約できると思う。

 一つは、《所有》といういとなみが最終的に帰着すべきところは、主体による「これはわたしのものだ」という「私的所有」の権利要求ではなく、むしろ状況にとって何がもっとも適切な配置かということ、つまりは「所有=固有権」(property)ではなく「適切さ」(propriety)だということである。

 いま一つは、《所有》において最後に問題となるのは、その権利の由来するところというよりもむしろ、当該のモノもしくは事態をこれからどう維持し、またその可能性をどう生成させてゆくかということである。《所有》は権利である以前に、まずは義務もしくは責任としてあること、いいかえると、それは「帰属」の問題というよりもむしろ「帰責」の問題だということである。」

(「〈帰属〉から〈帰責〉へ」より)

「「自己決定」とか「自律」とかの観念はつねにある限定された脈絡で用いられるべきであって、個人の「存在」全体を表す語としては不適切なものである。これが不適切である理由は二つあって、一つは自律という意味での「自己決定」はそれが主張される文脈を取り違えるとそのまま金泥の排他的な私的所有の権利にスライドしてしまうからであり、いま一つは、人は自己決定するにも、じぶんが何を望んでいるのかさえ不明だからである。自己決定するのはわたしたちには見えないものが多すぎるのであって、自分についてさえ実のところ責任を取りきれないからである。人はじぶんでじぶんのことが決められない。そういう不完全な存在だからである。」

「《受託》とはそもそも何かを預かり、その保管や処理、運用を委されることである。そして何よりも「わたし」というもろもろの行為をなす者は、人びとの社会生活のある局面を一つずつ委託されるなかで、それこそ責任を負うことのできる一主体として自己形成してゆく。つまり、ひとはあくまでそのつど共同生活上の役割(ペルソナ)を預かることで「わたし」という一つの人称的位格(ペルソナ)を得る(贈られる?)のであって、はじめからそうした主体であるから「だれ」という名をもった人になるのではない。じっさいわたしの考え、わたしの言葉一つとっても、それはすでにどこかからの引用であって、わたしがゼロから創出したものではない。だからロック的な論理においてさえわたしのものではない。」

(「手放す自由、分ける責任」より)

「《所有》を「権利」の地平でのみ捉えないこと、そして《所有》の概念を未来を拓くものとして編みなおすこと。この二つの視点が本稿にとって意味するところを最後に見ていきたい。

 《所有》を「権利」の問題と見ないということ、つまり法的な次元でのみ論じることはしないということ、これをわたしたちなりに表現しなおせば、《所有》を、何かがだれかのものであることとしてではなく。だれかのものになることとして捉えるということであろう。そのことはつねに自他のあいだで係争の的になる物件の所有をめぐってというよりも、さらに各人にとってのっぴきならない自身の身体、ならびにじぶんを養ってきた知識や能力についてより際立ったかたちで問われるべきことである。」

「人は身体を拘束されたり、一定の身体活動を強制されたり、暴力をふるわれたり、ときに陵辱されたりしたとき、だれにも譲ることのできない自己のこの身体の「所有権」を楯に、抗議したり、訴訟を起こしたりすることができる。しかしこの概念の防具も、それを過剰適用すれば逆に、「この身体はわたしのものだから、それをどう扱うかはわたしの自由だ」というふうに、自身の身体的な存在を排他的な私秘性のほうに約めてしまうことになる。また拷問にさらされるという極限的な場面で、〝この身体は所詮はわたしの所有物でしかないから、おまえの好き勝手にすればよい、それで所有者としてのわたしの存在が破壊されるわけではない〟というふうに、「所有権」の概念を楯におのれの主体的存在を護るというケースもありえよう。しかしその場合、主体としてのかぎりにおける「わたし」は身体のない主体であって。世界を感受しつつ生きる「わたし」ではない。「わたし」という存在の毀損や破壊を迫られる場面でのぎりぎりの自己救済の試みでではあっても、しかしそれは緊急避難というべきものであって、自己を私的なものへと閉じるかぎりで、この「所有権」という防具にはやはりどこまでも危うさがつきまとう。

 (・・・)知識の所有についても同じことはいえるのであっいぇ。「わたし」だけの所有物としてなにかオリジナルな知識などというものは存在しない。個人の知識も、言語そのものとおなじく、幼い頃からその人に社会から供与され、また植え付けられてきたものであり、いわば「引用の織物」とでもいうべきものであって、わたしの所有を超えたものである。「わたし」はせいぜい、それを使う「器」というべきものであって、剽窃や盗用の問題も一義的には決定できないようなむずかしさがある。」

「そして最後に(中空による)第二の提案、《所有》の概念を未来を拓くものとして編みなおすということである。

 未来の世代に向けての「義務と責任」というにしても、未来の世代はしかし未だ存在しないものである。未来の世代はそのかぎりで約束も契約もしようがない存在である。つまりその「義務と責任」は、いずれかならずわたしたちの後を生きることになるはずの人たちに向けての「義務と責任」であり、現時点では不在の、仮想の人たちからの信任ないしは負託に応えるというかたちで果たされるものである。ここで示される「義務と責任」はそのかぎりで《所有》を「未来へ拓く」、一つの贈与として取り組まれるべきものであろう。というのもそれは、「これはわたしのものだ、だからそれをどう扱おうとわたしの自由である」という主張から、「これはわたしのものだ、だからそれはみんなに分け与えることができる」という逆の発想へと人を動機づけるものだからだ。それはつまり、「秘匿し、護る」自由ではなく。「手放す」「分ける」用意があるという志なのである。「手放す」用意、「分ける」用意があるというのは、戴いたもの、授かったもの、借りたものは、与えてくれた人、授けてくれた人、貸してくれた人に返すのではなく、それが必要なのに足りない別の人に贈ることで返す、あるいは内蔵する社会を次の世代のためにあらかじめ形づくっておくことが、現世代の究極の「義務と責任」だということであろう。」

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