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エッセイ特集「休むヒント」(群像 2024年1月号)

☆mediopos3329  2023.12.29

群像 2024年1月号で
「休むヒント」という
エッセイ特集が組まれ
32人の「休む」にまつわるエッセイが掲載されている

「休む」のはずいぶんむずかしいことのようだが
エッセイを参考に(4人のエッセイから少し引いている)
じぶんなりに「休む」ことについて考えてみたい

麻布競馬場「不眠者の休息」では
「不思議なことに、眠ることは死ぬことと似ている。
休むこともまた、そうなのだろう。」とある

眠ることと死ぬことが似ているように
休むこともまた死ぬことに似ているのはたしかだが
なかなか眠りにつけないでいるとしたら
「休むと死んでしまうかもしれない」
つまりダメになってしまうかもしれないという恐れが
そうさせてしまうところも無意識にあるのかもしれない

要は真面目すぎるのだ
寝付きをよくするためには真面目にならないことだろう
馬鹿になれないと「休む」ことはむずかしくなる

蓮實重彦「会議を・・・」では
「ほとんどの場合、「休まぬ」主体は、
自分はいま忙しくしているというただそれだけの理由で、
何かをしているものと思いこんでしまう。」
「であるが故に、「休まぬ」とは
必然的に愚かなことでしかない。」
と喝破している

だがどうしても「さぼる」ことが
道徳的に間違ってると思いこんでいる人が多いようだ
けれどむしろそれは逆のことかもしれない
そう考えてみることも必要である
いちばん愚かなのは「やった気になる」ことである

石井ゆかり「雨の日も、風の日も。」では
一休の「「有漏地より無漏地へ帰る一休み、
雨ふらば降れ風ふかば吹け」を引きながら
「有漏地と無漏地、渾然一体の渦の中に
私たちは「ひとやすみ」している。」と示唆している

煩悩のただなかを生きていて
それが避けられないとしても
そのなかでの「ひとやすみ」が大切である

吉田篤弘「線を抜く」では
「「体」という字から、横に引いた線を一本抜きとると」
「「休」という字にな」り
「「本」という字から横線を一本抜くと、「木」になる」
といい
「ビールやコーラは、「線」ならぬ「栓」を抜くと
気が抜けていくが、人間の栓はどこにあって、
どうしたら抜けるのか。」という

要はどうしたら「栓」が抜けるかなのだ
ならば「栓」がどこにあるのかを探さねばならない

じぶんなりにそれを探してみることにする

今ではすっかり
眠るのが得意になって
いつでもどこでもどんな格好をしていても
短いあいだでもすっと眠れるが
十代から二十代のころは
眠ろうとすると
朝まで寝つけないこともよくあった

おそらく「休む」ことができずにいたからなのだろう
すぐ眠れるようになったのは
どこかで「休む」技を身につけたからのようだ

先のエッセイに準じていえば
まずは「死」を恐れなくなったことがある
生と死の境目を大袈裟に考えなくなると
休むことと休まないことの境目も大袈裟に考えなくなる

休んでいるわけにはいかない
休まないで何か大事なことをしないでいる
そう見られてはいけないというような
どうでもいいことから自由になること
つまりは「さぼり」の技術を身につけること

眠らずに生きていくことができないように
ひとは休まずに生きてはいけないのだ
だいじなのは「ひとやすみ」を事として生きること

「休む」技を身につけるためには
なにかをしていても同時に
「しないでいること」とともにあることだろう
それを「さぼり」といってもいい
なにかを真剣にすることが必要だとしても
それを「深刻」にする必要はないということでもある

刹那滅のように
なにかを「する」ということは
常に滅せられている
ひとは「する」だけでは存在できない
必ず同時に「滅」でなければならないのだ

「する」ことと「しない」ことは
決して矛盾してはいない
ならばその間の矛盾を同時に生きることも
できるのではないか
それができれば生と死も同時に成立させることができる

「有漏地より無漏地へ帰る一休み、
雨ふらば降れ風ふかば吹け」なのだ
ただしそのときには一休のように
「狂」が必要になるかもしれないけれど

■エッセイ特集「休むヒント」(群像 2024年1月号)

(麻布競馬場「不眠者の休息」より)

「昔から、眠ることが苦手だ。ベッドに横たわり、電気を消し、目を瞑る。そのあと、いったい何をすればいいのか分からなくなる。まるで眠るという行為のありようを忘れてしまったかのように、なかなか寝付けない日も多い。」

「やっぱり僕は、休むことが苦手だ。それは生まれつきの心の形のせいなのかもしれないし、三十数年の人生のうちに心に染み付いたもののせいなのかもしれない。何にせよ僕は、自分にとって「休むこと」と「休まないこと」の最適なバランスを探す必要があるだろうし、それはその時々によって変化を続けるだろう。こうしてまた、考え事がひとつ増えてしまった。
 僕は再びベッドに上体を沈め、目を瞑る。不思議なことに、眠ることは死ぬことと似ている。休むこともまた、そうなのだろう。生きることと死ぬことの間を、僕は今夜も眠れないまま漂っている。」

(石井ゆかり「雨の日も、風の日も。」より)

「10月2日、私は仕事場のソファに寝転がって本を読んでいた。そのつもりだったのだが、2ページも読まない間に眠り込んでいた。夕方、西日が射し込む頃になって目を覚まし、「なんだ、またなにもできなかった」と苦笑した。」

「「一休」とはおもしろい名である。子供にもおもしろい感じをもたせる。「ひとやすみ」と書くせいかもしれない。風変わりなこの名について、一休自身も折にふれて語る。「ひとやすみ」のよってきたるところは、つまり、「有漏地より無漏地へ帰る一休み、雨ふらば降れ風ふかば吹け」(水上勉『一休』中公文庫)。この歌は一休の作とも、そうでないとも言われる。少なくとも一休は自分の著書の中で、これに似た表現を用いている。無漏地は煩悩のない世界、有漏地はその逆である。雨ふらば降れ風吹かば吹け、おのれが世界に放り出されている。この「ひとやすみ」には煩悩があり、煩悩はない。有漏地と無漏地、渾然一体の渦の中に私たちは「ひとやすみ」している。「対自」は「煩悩」でもあろう。今のままでは許せなくて、どうにかしようともがきまわっている。一方、自分をもう操作しようとせず、風雨のただなかに放り出してしまこともできる。
 雨の日があり風の日がある。現実には、風雨を避けるために四苦八苦せざるを得ないのがほとんどの人間だろう。私もその一人で、みっともなくも焦りもがき、ムダな努力、とも言えないほどにわるあがきに日々を送っている。そんな中、疲れきって、それでも尚、本を読もうと頑張ったが、結局睡魔に負け、ぐうぐう眠り込んでいる。
 その全体が私の「ひとやすみ」なのである。」

(蓮實重彦「会議を大っぴらに「さぼる」男女が増えぬ限り、この国の未来は途方もなく危ういと思う」より)

「「休む」ことと「休まぬ」こととの決定的な違いは、その後者が、いま自分は何かをしているという思いこみを「休まぬ」主体にもたらしがちなことにある。いうまでもなく。それは途方もない錯覚にすぎない。実際、ほとんどの場合、「休まぬ」主体は、自分はいま忙しくしているというただそれだけの理由で、何かをしているものと思いこんでしまう。だが、忙しいことがその主体にいかなる積極的な行動ももたらしはせぬことなど、誰の目にも明らかなはずである。であるが故に、「休まぬ」とは必然的に愚かなことでしかない。では、その愚かさを、人はどのように回避すればよいか。これという理由もなく、ひたすら「休む」ことにすればそれでよい。別の言い方をするなら、「さぼる」ことに徹すればよいのである。「さぼる」ことが主体の積極的な振る舞いであることはいうまでもない。」

(吉田篤弘「線を抜く」より)

「「体」という字から、横に引いた線を一本抜きとると、なんと驚くなかれ、「休」という字になるではないか。
 これぞ、極意なのであった。
 抜くのである。
 体から力を抜いて、心から気を抜く。
 しかしまぁ、これはじつに難しい。ビールやコーラは、「線」ならぬ「栓」を抜くと気が抜けていくが、人間の栓はどこにあって、どうしたら抜けるのか。」

「自分を休ませるのは、ひとつも難しいことではない。自分が————あるいは人間が————元いたところに戻ればいいのである。
 そういえば、「本」という字から横線を一本抜くと、「木」になるではないか。
 これはきっと、偶然ではない。」

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