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奥野 克巳『人類学者K──ロスト・イン・ザ・フォレスト』/奥野 克巳〔コラム 日々〕 (『スピン/spin 第2号 』)

☆mediopos2962  2022.12.27

人類学者・奥野克巳による
ボルネオ島の熱帯雨林に生きる狩猟民
「プナン」のもとで調査を始める「K」の
フィールド体験記である

プナンの人びとは
未来や過去の観念を持たない

弔いの概念はない
近親者が死ぬと死体をその場に埋めて
できるだけ遠くに移動していた
今では葬儀はするが
遺品を焼き捨て
死者について語るのはタブーである

過去や未来を生きることはなく
刻々と変化する「今とここ」を生きている

反省や謝罪はしない

損得や所有の概念はほんらいなく
森の恵みをシェアすることで生きてきた
現在使われているそれらの言葉は借用語のようだ

プナンのひとびとの世界観は
現代を生きている私たちにとって
驚き以外のなにものでもないが

逆にみずからが当たり前のように生きている
世界観をふりかえって
その世界に外から訪れる者の視点で
それらをとらえたとき
それもまた驚くべきものであるのかもしれない

「今とここ」を生きている時
未来や過去はどこにあるのだろう

人が死ねばその人は
それまでの人のようには
今ここに存在はしてはいない
弔いとはいったなんなのだろう

反省や謝罪もまた
過去と未来からのものだろう
今とここには今とここしかない

シェアという生き方が基本であるとき
所有や損得という観念は生まれ難いだろう

私たちはいま当たり前のように思いこんでいる
さまざまな観念や生き方を
こうした驚くほど異なった人たちのそれに照らすことで
新たなそれらを模索していく必要があるのではないか

■奥野 克巳『人類学者K──ロスト・イン・ザ・フォレスト』
 (亜紀書房 2022/12)
■奥野 克巳〔コラム 日々〕
 (『スピン/spin 第2号 』河出書房新社 2022/12 所収)

(奥野 克巳〔コラム 日々〕より)

「2022年8月、3年ぶりにマレーシア・サラワク州(ボルネオ島)の熱帯雨林の中に住む狩猟民プナンのフィールドを訪れた。今から40年ほど前まで、森の中を遊動していたプナンは、近親者が死ぬと心痛から逃れるために、死体をその場に埋めてできるだけ遠くに移動した。葬儀などなかった。今日では葬儀はするが、遺品を焼き捨てる。その後、死者について語るのはタブーとされる。死者の名前さえ口にしてはいけない。死者と親族関係にある人は、自分たちの名前を変えてまで死者を忘れようと努める。夜中などにふと死者を思い出した時には、悲しみを言葉にしてはならないので、鼻笛を吹いて死者と無言で交流し、自らを落ち着かせようとする、プナンには、弔いの概念などないと言ってよい。彼らは、私たちがやるように、死者に新たな名前を付けて弔ったり、生前の姿を偲んだりするようなことはない。」

(奥野 克巳『人類学者K』より)

「ボルネオ島の鬱蒼としたジャングルに生きる所領民「プナン」は、未来や過去の観念を持たず、死者のあらゆる痕跡を消し去り、反省や謝罪をせず、欲を捨て、現在だけに生きている。戸惑いや驚きを覚えながら、Kは少しずつ、彼らの世界観の中心へと迫っていく————」

奥野 克巳『人類学者K』〜「時間性」より)

「プナン語に、時や時間にあたる言葉がないわけではに。「ジャカ」という言葉が、それにあたる。「マサ」というマレー語を借用する場合もある。ジャカ・サアウで「昔の時」、ジャカ・イトゥで「この時」と表現し、それらはそれぞれ、過去と現在を言い表す。
 しかし、それらは漠たるものとしての過去であり、現在であり、それらの語彙は、現代人が日頃用いているような、時刻や日付で表現される絶対的な基準による時間の観念を土台とするものではない。
 プナン語には、未来を表す時に使われる「ダウン」という言葉がある。それは「もし」を意味する。マレー語の「カラウ」だ。
「ダウン」は、もし○○なたどうなるとか、もし△△ならこうしよう、と言う場合に用いられる。「ダウン」は名詞としてじゃ「葉っぱ」のことだ。マレー語やインドネシア語でも、同じ。プナン語では、それが転じて「季節」をも意味する。
 プナンにとって、季節とは、花の季節のことであり、果実の実る季節のことでもある。ある場所で花が咲いても、川のこちら側では花が咲いていないことがある。ボルネオ島では、花が咲くこてゃ、場所も時期もイレギュラーな現象である。
 花が咲く季節を経て、果実がなる季節に、動物たちが森に集う。それを狙ってプナンが狩猟する時、森は楽園になる。
 葉から転じて季節という重要概念を示す言葉が、将来の仮定に関わる表現に用いられるというのは、とてもディープだ。つまり、「葉っぱ」がこうであればそうなるだろうし、「葉っぱ」がああであればこうなんだろうと言っていることになる、「葉っぱ」はそもそも、いつどうなるか分からないという季節性、つまりイレギュラーな時間性を孕んでいる。
 Kには、未来を、どうなるか分からない季節性の象徴である「葉っぱ」で表すプナン語の用法が、彼らの時間害ねを表しているように思われる。未来は予期されえないし、そもそも思考しうる対象ではない。そのことをひっくり返して述べれば、プナンは過去や未来を生きるのではなく、刻々と変化する「今とここ」を生きていることになる。」

奥野 克巳『人類学者K』〜「無所有」より)

「一般にプナン語には、マレー語と同一の語がたくさんある。(・・・)経験的かつ直観的には、プナン語の損得の概念や用語は、Kは外来語であると思う。たぶん、マレー語からの借用語だ。というおは、それらは、狩猟民プナンが森の中で発しないたぐいの言葉だからである。それらは、比較的新しくプナンに導入された観念や語だと、Kは考えている。
 森の中では、何かを獲れば、そのことは得であり、何かを失えば損であるというような考えを、プナンはしない。そういう考え方は、彼らにはあまりなじまないと、Kは思う。逆に言えば、そういう捉え方をしなくてもいいほど、森には糧が、財が豊富にある。
 人びとは、森の恵みをシェアすることで生き延びてきた。言い換えれば、損得という考え方は、シェアするという考え方と相容れない。損得は、シェアすることを原理として暮らしている人びとの頭の中にはない。損得概念は、くっきりと境界を与えられた自己と他者が行なう交換行為の中で発生する。
 その後はまた、何らかの蓄えをしなければならない状況下で発生する。貨幣単位で事物を計ることが日常化するような状況で、プラス、マイナスという価値基準が成り立つことによって生じてくるのではないだろうか。
(・・・)
 糧と財が、無尽蔵に出てくる森。そこにあるのは、狩猟民プナンにとって、決して損得で計られるようなものではなかったはずだと、Kは考える。」

【目次】

■プロローグ……森を撃つ
■多自然
 ▶︎インタールード──ジャカルタのモエ・エ・シャンドン
■時間性
 ▶︎インタールード──見失い
■無所有
 ▶︎インタールード──明石先生のこと
■人類学
■エピローグ……ロスト・イン・ザ・フォレスト

◎奥野 克巳(おくの・かつみ)
立教大学異文化コミュニケーション学部教授。1962年生まれ。20歳でメキシコ・シエラマドレ山脈先住民テペワノの村に滞在し、バングラデシュで上座部仏教の僧となり、トルコのクルディスタンを旅し、インドネシアを一年間経巡った後に人類学を専攻。1994~95年に東南アジア・ボルネオ島焼畑民カリスのシャーマニズムと呪術の調査研究、2006年以降、同島の狩猟民プナンのフィールドワーク。
著作に、『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』『絡まり合う生命』『マンガ人類学講義』『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』など。共訳書に、エドゥアルド・コーン著『森は考える』、ティム・インゴルド著『人類学とは何か』など。

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