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丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」(群像)/ロラン・バルト『表徴の帝国』/河合隼雄『中空構造日本の深層』

☆mediopos3455  2024.5.3

丸山俊一の連載「ハザマの思考」(群像)
第8回目は「表象と実際のハザマで」

主にロラン・バルト『表徴の帝国』と
河合隼雄『中空構造日本の深層』を主なガイドとしながら
加藤周一『雑種文化』小林秀雄『学生との対話』なども
あわせてとりあげられているが
ここではロラン・バルトと河合隼雄の視点を中心に・・・

丸山氏は「日本」をテーマとした議論の場で
「表象性」と「実際性」という言葉を口にする

日本は国際関係においてはフランスのように
「自由」「平等」「友愛」のような思想を
きちんと言葉にすることが必要ではないかという意見に対し

日本の「文化風土を歴史的に考えれば、
あえて言語化する必要があるのか」という
反対意見も出るなかでの
「表象性」と「実際性」である

日本は「抽象的な精神を概念化することが少し苦手」だが
「「表象化」という何らかの形に託し表す
センスは長けているのではないか?」

また「用の美」のような
「「実際」的な思考を美意識に高め日々の生活に生かす
感性も特徴と言えるのではないか?」

そうした「表象性」と「実際性」という
「微妙にすれ違うかに見える
二つのセンスのハザマにあるのが
日本らしい、日本的な思考法と言い得るのではないか」
というのである

そうしたイメージの背景にあったのは
ロラン・バルトの日本滞在記録『表徴の帝国』である

『表徴の帝国』という言葉が示すように
日本は「始まりも終わりも無い、
さながら永遠の迷宮のように見えた」ようだ

バルトは日本について
「様々な関係性の中で記号が轟き、イメージが乱反射しながら、
それが独特なコミュニケーションスタイルを生む国」であり
「磁場を作り出している「中心」もまた「空虚」であるという、
東京の「逆接」的な都市の構造に感慨を抱」く

バルトの言葉は
「対象に寄り添うようにあえて表層をなぞり、
迂回するように言葉を踊らせ」
「なかなか本質には辿りつかない」が
むしろ「その「地すべり」こそが楽しまれ、
そうした表現のスタイルそのものが」
日本的なものを表すにふさわしいということもできる

丸山氏は日本は「変換の国」であり
「この国の文化の面白さは、
中国から入って来た言葉をそのまま使うのではなく、
漢字、カタカナ、ひらがなと無節操なまでに
分解して使ってしまうところ」にあり

「この国の見えない文化風土」について
y=f(x)の「xに何かを代入したならば、
不思議な変換を施し世に送り出してしまう」というが

この変換の作法のブラックボックスを解明できれば
「日本のサブカルチャーの秘密の一端もわかる」
のではないかと示唆するとともに

「その構成要素として、表象性と実際性があることは、
面白い逆接ではないかと思っている」と加えている

ちなみにかつてルース・ベネディクト『菊と刀』でも
そうした「表象性」と「実際性」という
西欧の人々にとって驚くべき在りようである
日本人の二面性とその共存というありようが
注目されていたことも思い起こすことができる

さてバルトは日本の都市を
「中心は空虚」であるとしていたが
河合隼雄は日本人の心の深層に「中空構造」があるとした

「河合は、日本の神話に見られる特殊性から、
球の中が「空」であるモデルをイメージする。」

「わが国が常に外来文化を取り入れ、
時にはそれを中心においたかのごとく思わせながら、
時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れてゆく。
しかもそれは消え去るのではなく、
他の多くのものと適切にバランスを取りながら、
中心の空性を浮かびあがらせるために存在している。」
というのである

そうした捉え方にも
「表象性」と「実際性」に似た
「逆接」的なありようが見られる

『表徴の帝国』に戻るが
バルトはオリエンタリズムを否定したうえで
「「思いもよらぬ象徴世界」との遭遇の可能性を語」り
「それは、「断絶、変動、転換」の瞬間を
到来させるもの」で
それは「西洋と東洋という相対的な二元論に
回収されてしまうような差異ではなく、
絶対的な強度を伴う体験」だとしている

バルトが日本で
「《意味の喪失》をみちびく視覚の地すべり」を
与えられることになったのは
まさに有に対立する無ではなく
饒舌なまでに語る表象である無にほかならない

しかもそうした「視覚の地すべり」で
意味が超越されたところで
日本人は生きることに限りなく近接する「実際性」を
発揮することにもなるのである

そのように
日本的な思考法は
たしかに「表象性」と「実際性」という
微妙にズレながら逆説的にもなる
そんなハザマにあるものだといえるのかもしれない

繰り返しになるが
日本人は「抽象的な精神を概念化することが少し苦手」だが
「「実際」的な思考を美意識に高め
日々の生活に生かす感性」には親和性が高いといえる

とはいえそうした在りようも
次第に変化してきてはいる

バルトも皮肉っているように
それは「際限もない暗黒の地帯(資本主義国日本、
アメリカ文化化作用、技術革新)」へと
向かっていることとも関係している

そのことで表象性が貧しくなるとともに
実際性もまた貧しくなり
日本ならではの「ハザマ」が失効してしまわないよう
願うばかりである

■丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」(群像 2024年5月号)
■ロラン・バルト(宗左近訳)『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫 1996/11)
■河合隼雄『中空構造日本の深層』(中公文庫 1999/1)

**(丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」
   〜「今「日本論」の射程は? バルトの「視覚の地すべり」の先に」より)

*「先日とある議論の場に参加した。テーマは、ずばり日本。」

「中盤、日本も国として目標とする理念を言葉で明確に表すべき、との意見が出る。フランスの「自由」「平等」「友愛」のような国是となる思想をきちんと言葉にすることが、この複雑化する国際関係の中では肝要というわけだ。それに対して、この国の文化風土を歴史的に考えれば、あえて言語化する必要があるのかと、反対意見も出る。むしろ言葉にしてしまうことが迷走を招きかねないという思いが、発言の背景に滲む。

 そんな丁々発止が続く中、その間に割って入るように僕がつい口にしたのが、「表象性」と「実際性」という言葉だった。確かに抽象的な精神を概念化することが少し苦手で、モヤモヤあいた曖昧さを生みがちな「空気の国」ではあるけれど、「表象化」という何らかの形に託し表すセンスは長けているのではないか? そして同時に、古くから言われる「用の美」がある感覚の一面を的確に捉えているように、「実際」的な思考を美意識に高め日々の生活に生かす感性も特徴と言えるのではないか? そんなことを重ね合わせてみると、「表象性」と「実際性」という、水と油とまでは言わないが、微妙にすれ違うかに見える二つのセンスのハザマにあるのが日本らしい、日本的な思考法と言い得るのではないかと思い浮かんだのだ。」

*「そのイメージが浮かび上がったのには、若き日に読んだあの書の影響が大きかったことは、間違いない。フランス人文芸批評家による異色の日本滞在の記録、文化考察の試論、『表徴の帝国』だ。

   本文(テキスト)は図版を《注釈》するものではない。図版は本文を《図解》するものではない。本書に図版としてかかげられたものの一つ一つは、《意味の喪失》をみちびく視覚の地すべりをわたしに与える契機となったものであるにすぎない。そして、この《意味の喪失》こそが、禅が《悟り》と名づけるものにほかならない。身体、顔、表現体(エクリチュール)、こういう表徴作用群相互のあいだに、交流を交換をおこさせたい、そうしてそれら相互に表徴がもっている関係を読者に読みとってもらいたい、本文と図版を組みあわせて示すのは。そうい願いからなのである。
  (『表徴の帝国』ロラン・バルト 宗左近訳)

 これは本編に入る前の言わば前文なのだが、「《意味の喪失》をみちびく視覚の地すべり」なる表現が、実にシャレている。一九六〇年代後半、日本を気に入り三度にわたって滞在した際にバルトが目にした、日本社会の市井の人々の暮らしぶり、芸能のありよう。社会風俗の光景の記述に加え、新聞記事、地図、漢字、カタカナ、ひらがなと書き留めた表記も交えて、様々な図版もちりばめられた本書で語られるのは、まさに滑空する言葉だ。日本のコミュニケーションの作法の中にある表徴の美学、表象も妙が語られる。バルト自身も、対象に寄り添うようにあえて表層をなぞり、迂回するように言葉を踊らせる。それは、なかなか本質には辿りつかない。むしろ、その「地すべり」こそが楽しまれ、そうした表現のスタイルそのものが、たまらなく日本的であると、僕らも気づかされるのだ。様々な関係性の中で記号が轟き、イメージが乱反射しながら、それが独特なコミュニケーションスタイルを生む国、日本。その磁場を作り出している「中心」もまた「空虚」であるという、東京の「逆接」的な都市の構造に感慨を抱くあの有名な記述へとつながっていくわけで、バルトにとって、「表徴の帝国」は、始まりも終わりも無い、さながら永遠の迷宮のように見えたことだろう。」

**(丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」
   〜「ブラックボックスとしての「日本の返還力」その一端に?」より)

*「表象性と実際性。日本文化の基層にある感覚、思考法として二つのキーワードを僕が提示したのは、自身の経験からでもあった。現在制作中の「世界のサブカルチャー詞」の現場での試行錯誤はもちろん、様々な海外の眼差しに触れ異質な価値観と向きあう中で、ずっと心の奥底に沈殿し続けて来た感覚によるものだ。」

*「この国の文化の面白さは、中国から入って来た言葉をそのまま使うのではなく、漢字、カタカナ、ひらがなと無節操なまでに分解して使ってしまうところにあると思う。まさに、「変換の国」の面目躍如だ。ちなみにこの「極東の国」が地図上に浮かぶさまを思い浮かべる時、僕はf(x)という表象をイメージする。弓形の列島に重ねるように、数学で習う関数、y=f(x)というあれを見るのだ。つまりxに何かを代入したならば、不思議な変換を施し世に送り出してしまうのがこの国、この国の見えない文化風土というわけだ。この変換の作法のブラックボックス部分を解明できれば、日本のサブカルチャーの秘密の一端もわかると思っているのだが、その構成要素として、表象性と実際性があることは、面白い逆接ではないかと思っている。西欧に振りまかれてきた、「東洋の神秘」「不思議の国」ニッポンの背後にある、感覚の「地すべり」には、古くからの歴史がある。」

**(丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」
   〜「日本社会、文化の中に根付く雑種性」より)

*「そこでやはりさらに面白いのは、フワフワと記号が舞い踊る、あいまいなイメージの共有だけではなく、同時に、人々は実際の生活の場面にあっては極めて実際的に、ある意味即物的に判断、行動するように見えることの方ではないだろうか。その「表象性」と「実際性」の共存が興味深く、後者が発揮される瞬間に西欧の人々は驚きを隠せないのではないかと思う。そして、こうして言葉にしてみると、第二次大戦中にアメリカの文化人類学者が「敵国」日本を分析したあの古典、ルース・ベネディクト『菊と刀』も、書名からして日本人の二面性に注目していたことを思い出す。風雅に花を愛でていたかと思いきや、刀を抜くことも厭わない、日本人のイメージ。そんな「二面性」に応える意味もあったのだろう。」

**(丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」
   〜「やはり「中心は空」である? 日本人の心の構造」より)

*「日本人の心の中に、歴史的に温存されてきた、しなやかな柔構造。それは、戦後を代表するユング派の心理学者によってこんな風に表現されている。

  中心が空であることは、一面極めて不安であり、何かを中心におきたくなるのも人間の心理傾向であるとも言える。そこで、筆者が日本神話の(従って日本人の心の)構造として心に描くものは、中空の球の表面に、互いに適切な関係をもちつつバランスをとって配置されている神々の姿である。ただ、人間がこの中空の球状マンダラをそのまま把握し、意識化することは極めて困難であり、それはしばしば、二次元平面に投影された円として意識される。つまり、それは投影される平面に応じて何らかの中心をもつことになる。しかし、その中心は絶対的ではなく投影面が変われば(状況が変われば)、中心も変わるのである。このようなモデルを考えにくい人は、中心が空であるために、そこへはしばしば何ものかの侵入を許すが、結局は時と共に空に戻り、また他のものの侵入を許す構造である、と考えて貰うとよい。
  (『中空構造日本の深層』河合隼雄)」

*「バルトに続き、「中心が空」とまたも表現される日本論。今度は日本の都市ではなく、ずばり、日本人の心だ。河合は、日本の神話に見られる特殊性から、球の中が「空」であるモデルをイメージする。それは、「他のものの侵入を許す」のだと言う。海外からの文物を受け入れ、変換し解釈することによって雑種性に富んだ文化を育んできたこの島国は、いつも飄々と新しいものを取り込み、そのまましばらく置いておいても平気なのだ。そして、同時に存在する他のものとのバランスを保ちながら、諸行無常の様相を示すかのようだ。

  わが国が常に外来文化を取り入れ、時にはそれを中心においたかのごとく思わせながら、時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れてゆく。しかもそれは消え去るのではなく、他の多くのものと適切にバランスを取りながら、中心の空性を浮かびあがらせるために存在している。このようなパターンは、まさに神話に示された中空均衡形式そのままであると思われる。
  中心を空として把握することは困難であり、それは一時的にせよ、何らかの中心をもつものとして意識されることを既に指摘した。このことは、日本人特有の中心に対する強いアンビバレンツを生ぜしめることになる。つまり、新しいものをすぐに取り入れる点では中空性を反映しているが、その補償作用として、自分の投影した中心に対する強い執着心をもつ。あらゆる点においてm日本人は自分が「中心」と感じているものには執着し、高い関心を払う。しかし、時が来てその「中心」の内容が変化すると、以前に中央に存在したものに対する関心は消え失せ、新しい「中心」に関心を払うのである。」
  (『中空構造日本の深層』河合隼雄)」

*「「熱しやすく冷めやすい」とは、ずっと以前から巷で言われる、日本人の心性だが、それも「中空均衡形式」なる構造によって生まれていたというわけだ。
 八百万の神々が絶妙なバランスで均衡する空間、その力学の中心に位置する、「空」。確かにこうしてモデルにしてみると、直線的ではない、楕円を描くような、あるいはユークリッド幾何学の空間から微妙にズレ出しながらも、常に絶妙なバランスを保つ日本的な心のかたちを想像するのは、楽しくまる。そこにエビデンスはあるのか? と迫られたら強弁する気はないけれど、感覚的にフィットする。こうしたフィクションを構築してみること、こんな風に図解できるような仮説を立ててみることを楽しんでしまうこともまた、日本的であり、東洋的であると言えるだろう。悟りに至る一〇の段階を一〇枚の図と詩で表した「十牛図」などにも、類似した感覚を覚える。

 それにしても、「中心の空性を浮かびあがらせるために存在している」とは、妙なるレトリックだ。しかし、こうした表現に確かに、陽を知らしめる為にも陰を尊ぶような「逆接」を見るのである。」

**(丸山俊一「ハザマの思考8 表象と実際のハザマで」
   〜「表象性と実際性とをつなぐ「無」 それは」より)

*「表象性と実際性のハザマにも、河合が導いたような一つのモデルを考えることができるのだろうか? 日本的なる思考を他者に伝えるモデルとは。

 冒頭に掲げた『表徴の帝国』の中でバルトは明言する。

  わたしは東洋の本質などに、憧れのまなざしを注がない。わたしには東洋など、どうでもいい。ただ、こちらが対処のしかたを考えて狙いをつけるならば、東洋は西洋と完全に断絶した、思いもよらぬ特徴線(トレ)の貯蔵庫となりうる。東洋を見つめるときにわたしが捉えうるもの、それは、西洋のとは別の象徴、別の形而上学、別の知恵ではない(この知恵とは、ひどくのぞましいものではあるのだが)。それは、複数の象徴世界のそれぞれの固有性相互間の断絶、変動、転換の可能性なのである。
  (『表徴の帝国』ロラン・バルト 宗左近訳)

 しばしば西洋が陥る幻想のオリエンタリズムをさらりと否定した上で、「思いもよらぬ象徴世界」との遭遇の可能性を語る。それは、「断絶、変動、転換」の瞬間を到来させるものだと。そこにあるのは、西洋と東洋という相対的な二元論に回収されてしまうような差異ではなく、絶対的な強度を伴う体験なのだ。

  際限もない暗黒の地帯(資本主義国日本、アメリカ文化化作用、技術革新)へと掘りすすむことをあえて見送っても、なおひと筋の細い光によって探り求めなければならないのは、別種の象徴ではなく、象徴の裂け目そのものである。この裂け目は、文化の地平にしかあらわれない。
  (『表徴の帝国』ロラン・バルト 宗左近訳)

 アメリカ化していく六〇年代後半の状況をチクりちょ批評した上で、「象徴の裂け目そのもの」を見よ、という力強い言葉だ。

 「裂け目」というものは、埋めたくなるものである。だが、「文化の所産の地平に」あらわれた「裂け目」であるならば、あわてて埋める愚は避けねばならない。そこに、わびさびも生まれてきたのであり、禅の心もあるのではないか。

  日本が著者を表現体(エクリチュール)そのものの場のなかに置いた。この場においては、個々人の認識が揺らぎ、かつての読書体験は覆り、意味は引き裂かれ、弱められて、何ものをも表しえない空虚と化する。しかもなお、その対象は決して意味作用をやめず、好ましいものでありつづける。つまり表現体(エクリチュール)とは、一種の《悟り》なのである、
 (『表徴の帝国』ロラン・バルト 宗左近訳)

 言葉が生む「意味の世界」から逃れてきた異邦人にとって、言葉によって「意味を無化」する世界の存在は衝撃だったであろうことは、想像に難くない。それは、有と無というような二項対立として存在する「無」ではなく、ある意味、饒舌なまでに語っている「無」だったのだ。それをバルトは《悟り》と呼んだ。石畳と教会の壁に囲まれて生きてきた人々の背後に蓄積された大系をほぐし、崩し、再構成の可能性を提示するのも、この国の「おもてなし」なのかもしれない。

 バルトが感じとった、意味を超越したところで、生きることに限りなく近接する「無」。表象性と実際性のハザマの度のひとまずの最期には、豊穣なる「無」が広がっていた。」

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