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オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』『言語と意味のとの出会い』

☆mediopos3447  2024.4.25

オウエン・バーフィールド
(1899.11.9-1997.12.14)は
ルドルフ・シュタイナーの影響を受け
シュタイナーハウスでの講義を行ったり
シュタイナー出版から著作を刊行したりしているが
とくに日本ではおそらくほとんど知られていない
(一般には『英語のなかの歴史』(中公文庫/1980)が
訳されているくらいだ)

第一次大戦に参加した後
オックスフォード大学で法律を学んだ後
一九五七年まで弁護士を開業しながら著作を発表している

シュタイナー関係では人智学出版社から
『意識の進化と言語の起源』
(1976年/1979年刊行・1987年翻訳)
『言語と意味のとの出会い 話し手の意味』
(1976年年刊行・1983年翻訳)
という言語に関する著作の翻訳が刊行されている

その言語観をまとめておこうと思いながら
そのままになっていたことを思いだしたので
今回は現在手元にあるオウエン・バーフィールドの
翻訳資料の紹介も含め上記の二著作をとりあげる

今回とりあげておきたい内容については
『意識の進化と言語の起源』の「訳者あとがき」に
その概略が書かれてあるのでそれをもとに
人間の意識と言語に関する重要な示唆について
メモしておくことにする

オウエン・バーフィールドの基本的な言語観だが
「語(言葉)というのは、本来物質的な意味と
非物質的な意味の両方をもっていた」というものである

対象を指示し現す物質的な意味をもった言葉も
心的なものなどど現す非物質的な意味を持った言葉も
もともとその区別は存在していなかった

「かつての人間の意識は
自然の内側と外面と一体をなしていた」からである
「外なる自然と内なる意識との間には
いかなる分裂もなかった」

その後意識が進化するにつれ
外界の自然と内界の意識というように世界は二分され
「現代人の意識にとって、
世界はもはや完全に外面と内面に二分されてしまった」

現代人は「かつての人びとのように、
物を内面的なものの表れとして見るのではなく、
物そのものとしか見ることができなくなってしまった」が
そうした唯物的な見方を
バーフィールドは「偶像崇拝」と呼んでいる

そして「今日のわれわれが認める唯一の非物質的要素(内面)」
である「われわれの小さな自己意識」にしか
持てなくなっている状態を「監禁状態」と呼んでいる

「現代人は「文字通りの意味」の世界しか
見えない状況に置かれている」というのである

こうした「文字通りの意味」の世界しか見えない
意識や思考習慣という牢獄から脱出するには
「積極的に思考する習慣を身につけ」
さらには「想像力という筋肉」をつけていくことが
必要なのだという

「世界は観察する意識(人間の内面)と
観察される対象とに分割されるものではない」

「われわれの内面は自然の、
あるいは宇宙の内面であるばかりでなく、
その外面と表裏一体をなしている」

「その外面はわれわれの内面を変えることによって
変えていくもの」であって
「自然の外面を支配しているように見える自然の法則でさえ、
これがわれわれの精神の一部であると考えるかぎり、
永久不変なものではなくなってくる」

こうした言語観は
シュタイナーの精神科学的な観点からすれば
おのずと導き出せる観点ではあるが
禅的な身心脱落的な観点からしても
違和感なく理解できるのではないかと思われる

こうした見方が受け入れられるようになってくれば
科学主義的な向きも変わってくるのだろうが
いまだこうした言語観は一般的であるとは言い難い

おそらくこうした視点からしか
自然と意識の溝を埋めることは
難しいのではないかと思われるのだが・・・

■オウエン・バーフィールド(朝倉文市・横山竹己訳)
 『意識の進化と言語の起源』(人智学出版社 1987/8)
■オウエン・バーフィールド(朝倉文市・盛田寛一訳)
 『言語と意味のとの出会い 話し手の意味』(人智学出版社 1983/8)
■オウエン・バーフィールド(佐藤公俊訳)「世界の光」
 *一九五三年、ロンドン、シュタイナーハウスで行われた講義
 (ユリイカ2000年5月号 特集=ルドルフ・シュタイナー)
■オウエン・バーフィールド(渡部昇一・土家典生訳)
 『英語のなかの歴史』(中公文庫 昭和五十五年八月)

**(オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』〜「訳者あとがき」より)

*「バーフィールドは人間の意識の変遷を大きく三つに分けて概観している。すなわち、過去の、最初期の意識と現在の、今日の意識、それに未来の意識の三つである。昔の、原始的なと呼ばれる人びとの意識が、今日のわれわれの意識とは違い、非分析的で、非論理的(あるいは前論理的)であることはよく知られていることである。バーフィールドはこうした最初期の人びとの意識を比喩的な意識と呼んでいる。それは物を物として知覚思考するのではなく、(バーフィールドの言葉で言えば)イメージとして知覚し思考する意識である。言い換えれば、物質的なものを知覚−思考するとき、非物質的なものを同時にその背後に知覚し思考する意識である。したがって、彼らにとって単なる外面的な世界というものは存在しない。なぜなら、外面的なものや物質的なものは内面的なもの、あるいは非物質的なものの表れであったからである。こうして、人間は内面的にも外面的にも自然と一体であった。バーフィールドはこうした人間と自然の深い関係を「参与」(participation)という言葉で表現している。そして、この「参与」ということがバーフィールドの言語に関する考え方の基盤をなしている。」

*「バーフィールドによれば、非物質語(例えば、spiritとかresponsibilityとか)というのは、そもそものはじめにおいれは、物質語(windとかmountainとか)の比喩的用法によって生じたのではない。つまり、物的対象を表す言葉がまずあって、その後にそこからの比喩によって非物質的なものを表す言語が生じてきた(われわれは大抵こう思っているが、バーフィールドはこうした考え方をダーウィン的進化論の影響によるものと見ており、かつこれを批判している)のではないと言うのである。しからば、それはどのようにして生じてきたのであろうか。この問いに対するバーフィールドの答えはこうである。すなわち、語(言葉)というのは、本来物質的な意味と非物質的な意味の両方をもっていたというのである。今日物的対象しか意味しない語も、また非物質的なものしか意味しない語も、もともとは両方の意味をもっていたというのである。つまり、それらは共に、「天与のもの」として同時に備わっていたのだと主張するのである。こうして、最初期の人びとは物質的な意味(あるいは物)の背後に非物質的な意味(あるいは、もの)を常に意識していたわけであるが、これらは知覚する側にも知覚される側にも、言い換えれば、人間にも人間をとり巻く周辺の世界にもあったにちがいないと言う。これが先に述べた人間と自然の「参与」ということであり、言語はこの参与にはじまるというわけである。したがって、言語は、最も初期の段階では、人間が自然について語るというよりも、自然が人間を通して語ったのである。人間は、むしろその環境の意味から徐々に自らの意味を引き出してきたのである。こうして、人間の意識(内面)は、自然の内面に大きく支えられていたということができるのである。」

*「このように、かつての人間の意識は自然の内側と外面と一体をなしていた。外なる自然と内なる意識との間にはいかなる分裂もなかったのである。この点で、彼らにとって世界は一つであったということができるのですが、しかしながら、意識の進化は、世界を二分する方向に、外界の自然と内界の意識というように二分する方向に進み、自然と人間のかつてのあの幸福な「参与」の時代は終わったのである。」

*「現代人の意識にとって、世界はもはや完全に外面と内面に二分されてしまった。人びとは、かつての人びとのように、物を内面的なものの表れとして見るのではなく、物そのものとしか見ることができなくなってしまったのである。こうして現代人のものの見方をバーフィールドは「偶像崇拝」と呼ぶ。物の背後に非物質的なものを見ることができない。いわば唯物的なものの見方をこう読んだのであるが、一方、今日のわれわれが認める唯一の非物質的要素(内面)と言えば、それはわれわれの小さな自己意識ぐらいでしかない。現代の人びとは現実の世界から、また他の人びとから切り離されていると感じるようになったのも、こうしたものの見方に原因があるとバーフィールドは言い、現代人の置かれたこうした状態を「監禁状態」(imprisonment)と呼んでいる。(・・・)別な言葉で言えば、現代人は「文字通りの意味」の世界しか見えない状況に置かれているのである。」

*「最後に、バーフィールドは、このような現代人の、非物質的な自己の根源から切り離された意識や思考習慣という牢獄を打破し、そこから脱出するにはどうしたらよいかを問う。そしてその唯一効果的な方法は、今までの習慣と相容れない習慣を身につけること、バーフィールドの言葉で言えば、「積極的に思考する習慣を身につけること」である。そして更にこのような習慣身につけることによって、例えば、「思考行為における精神の自己経験」ということや、思考というものが、知覚とは違って内部から生じてくるものだということ、更には思考というものに「想像力という筋肉」がつき始めるということなどがわかってくると言うのである。」

*「このような想像力をともなった積極的な思考がこれまでの思考習慣という牢獄に穴をあけたとしたら、どういうことが分かってくるだろうか。世界は観察する意識(人間の内面)と観察される対象とに分割されるものではないこと、われわれの内面は自然の、あるいは宇宙の内面であるばかりでなく、その外面と表裏一体をなしていること。そしてその外面はわれわれの内面を変えることによって変えていくものだということなどが分かって来るのである。こうして、自然の外面を支配しているように見える自然の法則でさえ、これがわれわれの精神の一部であると考えるかぎり、永久不変なものではなくなってくるのである。バーフィールドが、「われわれの精神が監禁状態にあることによって危険にさらされるのは、われわれではなくて、われわれの惑星である」というエドウィン・H・ランドの主張に共感を示すのもこうした世界観によるのである。そして、最後に、われわれの内面(バーフィールドは「思考の性質」の例を挙げている)と自然の外面(「物質の性質」)は同じであると言うのである。彼によれば、思考の本質は普遍的であると同時に個別的である。例えば、われわれはいすを知覚し、そのいすと他の諸々のいすとを一つにして、いすという概念をつくりあげ、それにいすという名前をつけるが、思考が普遍的であるのはこうした思考のはたらきのことを意味する。また思考は個別的であるというが、それは、思考がいすという全体的な概念の中からいすを個別化するからである。こうして、普遍的であると同時に個別的であるものが他にあるというとき、それは物質である。バーフィールドの表現を借りれば、物質の究極的な構成要素は、いわゆる粒子ではなくて、「エネルギー、あるいは力の交点」のようなものであり、同時に「それは、その存在が認められる空間の一点にのみ存在しているのではなくて、世界中いたるところに遍在している」と言うのである。」

*「著者の言葉を借りれば、「言語においては、もしそれを歴史的に見るならば、意味の歴史の中に自己意識の時間過程がもっとも深く示されていることが分かる。意味の歴史は思考の歴史の内部表層だからである。言語が発展し歴史を通してそれが変化してつくにつれ、その中に宇宙の英知が徐々に人類の英知として下降し受肉していくのを見てとることができる(ルドルフ・シュタイナーの時間哲学」『人智学研究』第一号)という。つまり、人間の意識と客体は区別することはできるが、本来分割することはできないのである。」

**(オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』〜「第二章 現代の偶像崇拝」より)

*「われわれの今日の語彙のうち、非物質的な意味しかもっていない、あるいは、われわれが「意識」と呼ぶ内的な経験しか意味していない現代用語におけるすべての(事実上すべての、と言っても差しつかえないのでありますが)語は、かつては物質的な意味をもっていた、つまり、その語自体が、あるいはその語を構成する外国語の要素が何か物的な対象や出来事を意味していたということであります。(・・・)

 このように調べてゆきますと、われわれの今日使う、内的、非物質的な意味をもつすべての語は、それがどんなに物質的な意味とかけ離れているようにみえ、また〜主義、〜学、〜学的な、〜学はの、といったように接尾語をつけ加えて。さらにかけ離れたものにしようとしましても、同じように物質的な意味にまで溯ることができるのだという事実に直面するのであります。」

*「われわれには専ら非物質的な意味しかもっていないようにみえる現代の多くの語が、その昔は物質的な意味をもっていたということがはっきりわかったわけでありますが、逆もまた真なりということを見落としてしまったということであります。まったく物質的な意味しかもっていないように見える現代語が、かつては非物質的な意味をももっていたのだということを見落としてしまったということであります。」

*「では、比喩的に知覚するということは、どういう意味でありましょうか。それは、物質を物質としてのみ知覚することのない、あるいはできない意識を意味しているのであります。つまり、周囲の環境を知覚する際に、同時にその内部に、あるいはそれを通して、更にはそれによって表されたものとして、非物質的なものを知覚する意識だということであります。これを更に分析してゆきますと、(・・・)いささか程度の異なる思考と知覚の相互浸透ということが出て参りますが、今これは問題ではありません。ここで大事なのは、この種の意識にとっては、単なる「外的な」世界というものはないということであります。外的なもの、物質的なものは、常にまた自ずから、内的なもの、非物質的なものの表れであるということであります。

(・・・)

 今日の常識からしますと、外的な世界が現実的、恒久的なものであって、われわれが意識とか、主観とか、自分自身とか、更には自我よか呼ぶ内的な経験というのは、外界が時々生み出す束の間の非現実でしかないと考えられるのであります。このように見ますと、今日の常識というものが、常に通用するものではなくて、今日のと質を異にする常識から発達してきたものだということを理解することは、もしそれが事実でるならば、きわめて大事なことであるということであります。

 すでに述べましたように、この古い型の常識は物質的なものを知覚する時に一緒に非物質的なものをも知覚するのでありまして、物質的なものに、詩的比喩を用いて非物質的なものを加えたりはしないのであります。しかし、その後の常識は、現実の一面のみを、つまり、物質的な一面のみを止めて、もう一方の、非物質的な一面を無視することによって発展してきたのであります。こうして、外面的なものを、日物質的なものの表れ、あるいは衣としてではなく、それ自体のためにのみ受け入れ、評価するということになってしまったのであります。そして、今日現実というのは、イメージによってではなく、物そのものによって成り立っていると考えられるようになったのであります。」

**(オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』〜「第三章 習慣の力」より)

*「身についた知的習慣を捨てるために、新たにどんな習慣を身につけたらよいでありましょうか。それは積極的に思考する習慣、つまり、われわれの思考が生じるのに任せるというのではなくて、自ら思考しようとする習慣でなければならないということであります。他の習慣を身につける場合と同じように、同じ行為を何度も何度もくり返し行うこと、あるいは行おうとすることからはじめなければなりません、すなわち、時々、短い期間ではあんっても、その時間だけは、何を考え、また(おそらく一層大事なことでありますが)何を考えないかを取捨選択する以外のことは何もしないということから始めなければならないということであります。これを「瞑想」という言葉で呼ぶかどうかはたいして重要なことではありません。」

*「もう一つわかりますことは次の点であります。すなわち、知覚とは対照的に、思考というのは内部から生じてくるものだということであります。またわれわれが行うもの、単にわれわれに対して生じてくるものではなくて、われわれが直接経験するものだということであります。従って、(・・・)思考と知覚を区別しないでぼんやりしていてはいられないということであります。(・・・)

 更にもう一つ、大事なことがわかってきます。すなわち、思考は想像力という筋肉を身につけ始める。もしすでに身についているならば、それを更に強化するということであります。」

**(オウエン・バーフィールド『言語と意味のとの出会い 話し手の意味』〜「第四章 意味の歴史における主体と客体」より)

*「明白な事実としては、もし我々が、ほんとに自然を眺めるならば、もし我々が、心の底にタブーを持つことなく、自然を観察するならば、自然には内面(インサイド)がないなどということを示す何物も存在しないのである。それどころか、その逆の方が正しいことを示す、あらゆる証拠がある。「本能」という概念一つを取っても、それがどう解釈されようと、前に述べたことを示している。というのは、本能とは、自然の中に働いている、超個人的な知恵としてでなければ、理解することはできないし、正当に考えることもできない。」

*「宇宙の歴史において、物質が精神に先行したという、現在支配的な前提は歴史的な誤謬でり、しかも残念なことに、その影響が大変よく浸透した誤謬だということだ。今や明らかになったことは。個体発生的にも、主体性というものは、空間の一点において、無から生じた、というものではなく、周辺から個人の中へと縮約されていった、意識の一形態なのである。系統発生的に言えば、地上に初めて、一種の有機体として出現したときの、ホモ・サピエンスの課題は、無から何らかの形で、思考能力を発展させることではなく、彼が与えられた意味として、自分という有機体を通して経験した、不自由な知恵を、能動的な思考にのみ対応する主体性へと、また、個人的な思考活動へと変えていくことであった。」

*「もしも、自然に内面がないとすれば、歴史にも内面はない。と言うのは、この種の議論の中でコリングウッドが役割を与えた「思考」は、人間の頭蓋骨の中での下等な動物的な、短い生命を持った生物の筋(弦)の一ゆれにすぎないのだから。しかし、言語の歴史的研究は、我々を、人間と自然と両方の内面へと導く。そして、そうすることによって、先史時代を通って歴史時代へ到る、明確な「筋書(プロット)」を現すのである。「律動(リズム)」について言えば、知性を備えた人が、まず最初に、筋書きはあると言うこと、すなわち、我々が見ているのは、遊びごとではなく、茶番でもなくて、ちゃんとした演劇なのだ、ということを、認めてからでなければ、律動を探し求める理由はわからない。そして、今まで述べたことを通して、私の提言は、普通の劇を見るときと同じように、出来事を眺めることによってのみではなく、言葉の一つ一つを理解することによって、その発見はなされるということである。」

**(オウエン・バーフィールド(佐藤公俊訳)「世界の光」より)

*「ルドルフ・シュタイナーは、一九三〇年頃から始まる時代を、エーテル・ヴィジョンを見る能力がますます広がる期間であると、しばしば述べていました。彼はこの世紀の半ばを指して、さまざまな方向から「新しいものが暴力的に押し入ってくる」時代であると、言いました。それゆえに、二〇世紀の生と人智学運動の生のこの時に、私たちが次のことをますます明瞭に識別するようになることはささいなことではないのかも知れません。外的光と内的光の識別、エーテルの光とアストラルの光の識別、アーリマンの征服とルシファーの贖いの識別、光そのものとアルファとオメガにおける、父の言葉における光の源との識別です。」

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