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永井玲衣「世界の適切な保存 連載⑤届く」 (『群像 2022年 09 月号』)

☆mediopos2823  2022.8.10

思いは
完全には
伝わらない
わかるということも
ない

けれど
伝わった
わかった

軽率にも
言ってしまうことがある

「届いたことを感じられるときがある。
届けられてしまったと、
痛む魂をふるえる指でおさえるときがある。
あなたの思いのすべてはわからない。
だが、あなたの腕がわたしの魂に入り込んだ、
その痛みを感じている」
そんなときがある

伝わる
わかる
ということは不思議だ

頭で
つまりは
内容を理解することはできるが
胸の奥に入り込んできて
暖かくなるような
そんな分かりかたとは異なっている

それは思考と感情の違いではない

思考にも
冷たい思考と
あたたかく生きた思考があり
感情にも
冷たい感情と
あなたたく生きた感情がある

思いは
完全には
伝わらない
わかるということも
ない

けれど
あたたかく生きた思考
あたたかく生きた感情は
そしてその両者が
うまく交叉し得たとき

伝わらないはずのものを
わかるはずのないものを
みずからの魂の奥で
たとえほんの欠片であったとしても
ともに生きることはできるのではないか

神秘学で
軽率で批判的なありようが
戒められるのは
そんな魂の働きが
損なわれてしまうからだろう

魂と魂が
絶対的な他者性を超えて
むすびあえる稀有の可能性を
損なってしまうからだろう

それは愛ともいえるだろうが
愛は甘いだけのものではない

他者は
「どんなにやさしく刺し込まれたとしても
ナイフであり、異物である」
それをいかにして
「抱擁の名残のようにあたたかさを感じる」か
それは右の頬を打たれたとき
左の頬を差し出すようなものでもある

■永井玲衣「世界の適切な保存 連載⑤届く」
 (『群像 2022年 09 月号』所収)

「ほとんどの場合、何かの思いが完全に伝わるということはない。「わかりあう」ということは不可能であると信じられている。にもかかわらず、わたしたちは思いが伝わっているはずだと思い込んだり、そもそもの不可能性を忘れてしまったりして生きている。
 それどころか、伝えようとすることそれ自体すら、脱臼していることもある。最初から失敗している試み、横断歩道を待つひとに駆け寄り、肩に手を置くと、まったく見知らぬひとが振り返る。その驚きと、恥ずかしさと、可笑しさ。伝えるという行為に対し、あまりに意識的でなかったことにも気づく。
 だが今度は伝えることを意識すると、わたしたちは途端に臆病になる。弱々しくふるえて逡巡し、落ち着かなくなる。

心が心を求めつつ、濁流に魚は閉じるまぶたを持たず(千種創一)

わたしたち人間が持つまぶたを、魚たちは持っていない。彼らはまぶたを閉じることはない。静かな目つきで、濁流の中を泳ぎまわっている。それに対しわたしたちは、簡単にまぶたを閉じることができてしまう。濁流の中できつく目を閉じて、誰のことも見ずに、口もひらかずに、押し黙ることができてしまう。それはわたしたち人間にゆるされた自由であり、不自由さでもある。
 魚たちは見ている。互いを見ている。見ないことはできない。濁流から這い出ることもできない。彼らに心はあるのかわからない。心がないからこそ、いつまでも見つめ合うことができるのかもしれない。わたしたちは心があり、心を求め、閉じるまぶたを持ち、それゆえ閉ざしてしまうことができる。
 心を求め、何かを伝えることは、たとえば壇上から何かを一方的に言うことではない。伝えたいことがわたしから切り離され、てくてくと歩いていき、相手に届いてくれるわけではないからだ。
 伝えるということは、わたしがあなたのところまで歩いていくことである。いや、あなたの中にまで入りこんで、じたばたすることである。それが手紙やデジタルメッセージであったとしても、わたしから切り離された何かに情報を載せるのではなく、わたしをわたしから削り取って、あなたの中にまで入り込もうとする。
 だから、伝えることは、本質的にあなたの領域を侵すことである。それはとんでもない試みだ。どんなに注意を払ったとしても、あなたの魂に胸を突っ込んで、わたしの欠片を届けようとすることになる。あなたの魂は、わたしの熱い胸でびりびりに破けて傷つくだろう。

わたしたちの心は、思いは、原理的に伝わらない。だが、届いてしまうことはある。届いたことを感じられるときがある。届けられてしまったと、痛む魂をふるえる指でおさえるときがある。あなたの思いのすべてはわからない。だが、あなたの腕がわたしの魂に入り込んだ、その痛みを感じている。あなたの欠片がわたしの魂の奥まで分け入ってしまって、もう自分では取り出すことができない。指でまさぐって探すが、ひどく狭くて見つけられない。なぜあなたはこんな場所に入り込めたのかと、不思議にさえ思う。
 「わかるよ」「伝わった」などといった軽率な言葉を返すことを、わたしたちはおそれる。だから「わかる気がする」と言ったりして、何とかもがこうとする。」

「「伝わったよ」

本当に伝わったかどうかなんて、わかるはずもないのに。それなのに、言ってしまう。
 あなたの差し出した欠片が、わたしの中にやってきて、とどまっているということ。何かは完全にはわからないが、たしかにそれがわたしにやってきたということ。そういうときにこそ「伝わった」「わかった」とわたしたちは言ってしまう。あなたが入り込んだせいで、わたしの魂はずきずきとした痛みを感じている。

洋梨にナイフを刺せば抱擁の名残のように芯あたたかし(東直子)

やわらかく果汁がしたたる洋梨にナイフがじっくりと刺し込まれるように、わたしの魂にあなたが届く。それはどんなにやさしく刺し込まれたとしてもナイフであり、異物である。しかし、抱擁の名残のようにあたたかさを感じる。
 あなたとわかりあうことはできない。わたしの痛みと、あなたの痛みは違っている。共有することはできない。だが泣きたくなるようなあたたかさを感じている。あなたの何かがわたしに届いてしまったことだけがわかる。そのかぼそいあたたかさの記憶だけで、わたしたちは生き延びることができる。」

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