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サミュエル・シェフラー『死と後世』

☆mediopos-3167  2023.7.20

本書『死と後世』では
「私の死」の後においても
「後世」があるということが
「私」にとっても重要である
ということが論じられている

その際の「私の死」というのは
生物学的な死=死後の生は存在しない
ということが前提とされており
「後世」というのは
そうした「私の死」の後
私とは直接は関係していない世界
及びその世界で生きている人々を意味している

シェフラーの基本的な観点は
人間の生は
その「生」を現在可能にしている「世界」と
そこに生きる人々の存在の存続を信頼し確信することに
ふつう想像されるよりも強く依存している
ということであり
しかもそこでは「私の死」ということが不可欠である

シェフラーは
じぶんの死から30日後地球に巨大小惑星が衝突する
人間が不妊化し人々が次第に死に絶えていく
という2つの人類の消滅のシナリオが
わたしたちの思考や感情にどのような変化をもたらすか
という思考実験を行う

個人主義及び利己主義の観点からは
「後世」は
じぶんとは関係がないとされそうなのだが
そうではなく
じぶんの死への恐れとは別に
人類の終焉や
これから生まれてくる人間がいないということは
ひとを不安にさせるという

さらにいえば
限られた時間性のなかで生きられた生ゆえにこそ
つまりは死すべく生まれてきているからこそ
「後世」がその支えになる

シェフラーの言葉でいえば
私は「私が死に、他の人々が生きるということ」を
必要としている

わたしたち人間は
個人主義的利己的に生きているとしても
深いところでは「人類」という集合的な生をも
生きているともいえるかもしれない

表面意識ではどちらかが顕在化することが多いだろうが
わたしたちは個の魂と集合的な魂のふたつの顔を
ともにもちながら生きている
本書はそのことを意識化する契機にもなる

「後世」のことではなく
世界のほろびる日を生きるということだが
本書を読みながら石原吉郎の
こんな詩を思いだした

 世界がほろびる日に
 かぜをひくな
 ビールスに気をつけろ
 ベランダに
 ふとんを干しておけ
 ガスの元栓を忘れるな
 電気釜は
 八時に仕掛けておけ

「後世」がなくても「生」の現在はある
そして「生」はどこかで「私」を超えている

■サミュエル・シェフラー(森村進訳)『死と後世』
 (ちくま学芸文庫 筑摩書房 2023/6)

(「序論(ニコ・コロドニ)」より)

「シェフラーの題名の「after life 後世」とは、多くの宗教的・神秘的伝統が措定してきた個人的な「life after death 死後の生」ではなく、(・・・)われわれの死後の人々の生存という、「集合的後世」のことです。シェフラーはこう問います。そのような集合的後世があるだろうというわれわれの想定は、われわれの生の中でいかなる役割を果たしているだろうか? 」

「シェフラーの講義はわれわれが一連の思考実験を行って、それらに対するわれわれの反応と折り合いをつけるように誘います。「ドゥームズデイ・シナリオ」においては、あなたの死の三十日後に誰もが死んでしまいます。P・D・ジェイズムの小説『人類の子供達』(二〇〇六年にアルフォンソ・キュアロンによって同じ題名で映画化された[日本公開時の題名は『トゥモロー・ワールド』]がシェフラーに示唆した「不妊のシナリオ」においては、子どもが生まれなくなります。シェフラーもそう考えているように、これらのシナリオが人を不安にさせるということを見て取るのは難しくありません。しかしそれはなぜでしょうか? ドゥームズデイ・シナリオにおいて、あならが若死にするわけではありません。また不妊のシナリオにおいては、誰もがそうでない場合と同じだけ長生きするのである————それほど十分にではないかもしれませんが、ここで人を不安にするのは、人類の終焉それ自体であり[われわれにとって]見知らぬ人々が生まれてこないということです。」

「後世に関する推測は「不死の推測 immortality conjecture」とでも呼べるものと対にされるかもしれません。その推測は〈もしわれわれが、自分たちも自分たちの知っている誰も不死でないということを知ったら、われわれの生は同じように荒涼たるものになるだろう〉というものです。しかしここでは思考実験は必要でありません。われわれは現実にこの実験を行っていて、その結果ははっきりと否定的です。われわれもわれわれが知っている誰も不死でないということを知っていても、われわれは多かれ少なかれ自分の目的追求に自信を持ち、それに投資しています。このことは驚くべき対照を生み出します。あるケースでは集合的後世————われわれが知らない、それどころかまだ生まれてもいない人々の生存————は、われわれ自身あるいは今生きている他の人々の継続よりわれわれにとって重要だ、ということになるからです。シェフラーの表現では「われわれが知っておらず愛してもいない人々が存在するようになることは、われわれ自身の生存とわれわれが実際に知っていて愛する人々の生存よりも、われわれにとって重要である」。」

「もし後世に関する推測が正しいとしたら、それは人間の個人主義と利己主義に関する通常の想定を、微妙だが広範囲にわたる仕方で複雑化させる、とシェフラーは言います。それは〈われわれが評価しているものの多くは、たとえ明瞭に社会的ではなくても、集団に関する暗黙の前提条件に依存している〉ということを明らかにすることで、われわれの個人主義の限界を示唆します。それはまた、〈われわれは他の人々に起きることについて感情が動かされる————たとえその人々がどれだけわれわれから遠く離れているとしても〉ということを明らかにすることで、われわれの利己主義の限界も示唆します。(・・・)シェフラーの論点は〈後世に関する推測は、われわれは他の人々に起きることに、われわれが信じているかもしれないよりも感情的に依存しているということを明らかにする〉ということです。(・・・)われわれは自分自身の生が価値を持ちうるために、他の人々が生きることを必要としているのです。」

「ある意味では、われわれは生きるためには死ぬ必要があります。われわれの生が意味を持つためには、それどころかそもそも生であるためには、生は終わりを持たなければなりません。しかしそれにもかかわらず、われわれが死を恐れるのは不合理ではないのです。

(・・・)

 それは部分的には、われわれが生涯というものを、多かれ少なかれ一定の長さを持つ一定数の段階————幼年、青年、老年————を通じた進行としてとらえているからです。また部分的には、多くの価値は病気とか危害とか危険といった不利益からの保護あるいは解放の諸形態であるそれらを含んでいるが、それらの不利益自体は死が見込まれる、ということに依存しているからです。そしてまた部分的には、またおそらく最も重要なこととして、比較し優位をつける判断を伴う評価活動は、希少性、特に時間的希少性という背景がなければ意味をもたないからです。」

「シェフラーが引き出す諸結論の中で最も驚かされるものは、「後世」に関する諸発見————他の人々の生存に対するわれわれの態度に関するもの————が「恐怖と死と信頼」に関する諸発見————われわれ自身の生存に対するわれわれの態度に関するもの————に対比されたとき最終的に生ずるものです。他の人々は私の死後も生きるだろう、人類は生き続けるだろう、という気体は私が自分の行動の多くを評価するために不可欠だが、私は生き続けないだろう、私の生は続かないだろう、という認識もまた同じように私が自分の行動の多くを評価するために不可欠である、というのです。シェフラーの表現によると、私が必要としているのは「私が死に、他の人々が生きるということ」です。最も抽象的な言い方をすれば。価値ある生に関するわれわれのとらえ方は一見すると両立できない要求を行っています。それは終結と持続の両方を必要としています。それは時間的限界を持つ一方で、継続的企てにどうにかして参与する必要があるのです。この逆説的な結びつきと価値自体をわれわれにとって可能にするもの、それはわれわれが可死的であると同時に社会的でもあるという事実です。私自身の死は私の生涯を意味有る弧(アーク)に曲げますが、その弧はそれが引き継ぐ集合的な歴史を背景として描かれるのです。」

(シェフラー「第1講 後世(第1部)」より)

「正直を言うと、「後世 after life [「死後の生」という意味もあり]」というこの題名は少々ひっかけである。私は今日の多くの人々と同じように————しかし他の人々とは違うが————通常理解されるような死後の生の存在を信じていない。つまり私は個人が生物学的な死の後も意識を持つ存在として生き続けるとは信じていない。その反対に、生物学的な死が個人の生の最終的で不可逆な終わりだと信じている。だから私がこの講義の中で行わないことの一つは、通常理解されるような死後の生の存在を擁護して論ずることだ。しかし同時に、私は他の人々が私自身の死後も行き続けるだろうということを当然視している。私は地球上の人類の生がいつでもいくつかの別々のルートをたどって突然破局的な終末に至るかもしれないということを確かに知っている。だがそれでも私は、自分の死後も長い間人類が生き続けるということを通常当然視している。そしてこのやや非標準的な意味で、私は後世があるだろうということを当然視しているのである————つまり、私が死んだ後も他の人々は生き続けているだろうということを。われわれの大部分がこのことを当然視していると私は信じているし、この講義の目的の一つは、われわれの生活の中でこの想定が果たす役割を探求することにある。

 私が主張したいのは、私の非標準的な意味における「後世」の存在がわれわれにとって大変重要だということである。それはそれ自体としてわれわれにとって重要だし、〈後世の存在は、われわれが気にかけている多くの他のものがわれわれにとって重要であることをやめないための必要条件である〉という理由からも重要だ。あるいは、それが重要だということを私は示したい。もし私のこの主張が正しいとしたら、それは自分自身の死に対するわれわれの態度が持ついくつかの驚くべき特徴を明らかにする。それに加えて私が論じたいのは、〈われわれにとっての後世の重要性は、もっと一般的に、あるものが重要であるとか、われわれにとって大切であるとか、われわれがそれを評価するといったことの中に何が一般的に含まれているかの解明に役立ちいる〉ということだ。最後に、後世の役割は、自分自身についてのわれわれの思考の中で時間というものが有する、深遠だとはいえ捉えがたい影響に光を投げかけ、われわれの生の時間的な次元と折り合いをつけるためにわれわれが用いる様々な戦略を探求する便利な出発点になる。」

「あなたに一つの粗野で病的な思考実験をしてもらうようお願いすることから始めよう。あなた自身は通常の長さの寿命を持つことになるが、あなたの死の三十日後、地球は巨大小惑星との衝突によって完全に消滅する、ということをあなたが知っていると想定する。この知識はあなたの残された生涯の中であなたの態度にどのような影響を与えるだろうか?」

(シェフラー「第2講 後世(第2部)」より)

「私がこの第2講義で取り上げたい最初のトピックは、重要なことWhat matters が私の言う「後世」に厳密にいかなる仕方で依存しているかである。われわれにそのような後世があるという確信がなかったら————自分自身の死んだ後も他の人々が行き続けるだろうという確信がなかったら————われわれにとって重要である物事の多くが重要でなくなるか重要性が小さくなるだろう、ということはすでに見た。このことが元来のドゥームズデイ・シナリオから明らかだったが、不妊のシナリオが、〈われわれにとっての後世の重要性は、自分が愛する人々の生存への配慮だけから来るのではない〉ということを明らかにした。しかし重要なことが後世のどのように依存しているかについては、三つの異なるテーゼを区別することができる。第一のテーゼは、私がこれまで擁護してきたものだが、〈われわれにとって重要なことは、後世の存在へのわれわれの確信に暗黙のうちに依存している〉というものである。これは態度的依存テーゼと呼ぶことができよう。(・・・)

 しかしながらこの態度的依存自体の含意は、〈これらの物事がわれわれにとって重要でなくなるのは、部分的には、われわれは後世を確信しなければそれらが無条件にsimpliciter重要性あるいは価値がより小さいと考えるだろうからである〉ということだ。そしてこれはわれわれが第二の依存テーゼを受け入れているということを示唆する。そのテーゼは〈無条件に重要であるということは、後世の現実の存在に依存しているのであって、それについての確信だけに依存しているのではない〉というものである。(・・・)

 さらに、われわれがあるものを評価するということが、それは無条件に価値があるというわれわれの信念に部分的に存しているとしたら、そして〈あるものが無条件に価値があるということは、後世の現実の存在に依存している〉ということを暗黙のうちに受け入れているとしたら、そのときわれわれはまた別のテーゼを受け入れているという結論が出てくると思われる。そのテーゼは〈われわれがあるものを評価するということ、あるいはそれがわれわれにとって重要であるということは、重要な点において、後世の現実の存在にも依存するのであって、われわれがその存在を信じているということだけに依存するのではない〉というものである。」

(シェフラー「第3講 恐怖と死と信頼」より)

「もし私が論じてきたことが正しいとしたら、われわれの価値へのわれわれの確信は死と人類の生存の両方に依存するということが出てくる。この両者のうち、死は避けられないもので、それにもかかわらずわれわれの多くはそれを恐れるが、人類の生存は必然的なものではないが、われわれの大部分はそれに対する脅威を不十分にしか恐れていない。」

「たとえ死がわれわれの確信を脅かさないとしても、われわれが死を恐れることは不合理ではない。しかしもしわれわれが、われわれの確信が依存している人類の生存への一層深刻なる脅威を十分に恐れず、それを克服しようとしなかったら、それは不合理かもしれない。これはそれ自体として重要な結論であり、また死と確信との関係に関する重要なことをわれわれに教える。この二つの態度が常に衝突すると考えるのは自然なことだ。しかし人類の生存の場合におけるように、われわれの確信の源泉自体が脅威にさらされているとき、恐怖への傾向はそのような脅威に対応するようにわれわれを動機づけることによって、確信を掘り崩すのではなく支えるだろう。死の恐怖にあっては事情が異なる。その場合、すでに述べたように、われわれはわれわれの確信が依存している当のものを恐れるのであって、片方の態度が別の態度を支えるというのは言いすぎだ、だがそれにもかかわらず真であるのは、〈われわれの恐怖の強さは、死が終わらせるあらゆる物事の価値へのわれわれの確信の深さの証拠である〉ということである。」

【目次】
日本語版への序文(サミュエル・シェフラー)  
謝辞
本書の寄稿者

序論(ニコ・コロドニ)

死と後世
第1講 後世(第1部)
第2講 後世(第2部)
第3講 恐怖と死と信頼

コメント
ドゥームズデイの意義(スーザン・ウルフ)
後世はどのように重要なのか(ハリー・G・フランクファート)
評価されるものを保全するのか、評価することを保全するのか?(シーナ・ヴァレンタイン・シフリン)  
私が死に、他の人々が生きるということ(ニコ・コロドニ) 
 
コメントへのリプライ
死と価値と後世 ―― 回答(サミュエル・シェフラー)  

訳者あとがき
人名索引

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