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マイケル・ボンド『失われゆく我々の内なる地図/空間認知の隠れた役割』

☆mediopos2913  2022.11.8

私たちは科学技術によって
ほんらい持っていた生きた能力を手放し
次々と外部に依存するようになってきている

GPSもそのひとつだ
GPSが私たちから取り去ろうとしているのは
ナビゲーション能力である

ナビゲーション能力は空間を把握するほかにも
「出来事を記憶し思い出す」
「人間関係を理解する」
「抽象的な概念を操る」
「良好なメンタルヘルスを保つ」
「認知症を防ぐ」などの働きにかかわっているという

スマホのGPS機能を使って
ナビゲーションを行うことが
そうした能力を失うことになるとは
必ずしもいえないだろうが

たとえば少なくとも道を探すとき
迷わず目的地に導いてくれる機能は
「道に迷う」ことによって
私たちが育てているであろう能力を
スポイルしてしまうであろうことは容易に想像できる

レベッカ・ソルニットは著書『迷うことについて』で
「決して迷わないというのは
生きていることにはならない」といい
ソローのこんな言葉を引用しているという
「道に迷って初めて」
「つまり世界を失って初めて、私たちは自分を発見し始め、
自分がどこにいるのか、そして私たちと世界との
かかわりの持つ無限の広がりを認識できる」

問題はGPSのような科学技術だけではない
常に最初から正しい答えが決まっていて
そこに辿りつくこと以外の道が失われる
つまり「問うこと」によって
「迷う」ことを排するような教育や
その力で人間のメンタリティを管理するようになる
政治や医療などもまた同様である

じぶんで迷いながら歩き問い考えること
それが奪われたとき
あるいはみずからがそれを捨て去るとき
人は生きているといえるだろうか
自分の生の場所である「内なる地図」を
失ってしまうことにならないだろうか

■マイケル・ボンド(竹内和世訳)
 『失われゆく我々の内なる地図/空間認知の隠れた役割』
 (白揚社 2022/4)

(「まえがき」より)

「人びとは道に迷うことを極度に恐れる。そこから分かるのは、私たちにとって自分がどこにいるのかを知ることがいかに重要であるかということだ。アルツハイマー病患者は多くの時間をうつ状態で過ごすが、それはひとつには彼らの認知地図がほとんど壊れてしまっているからだ。彼らはどこにも行き着くことができないし、家の中でさえ迷うことになりかねない。認知症にかかっていた私の祖母は、死ぬ前の最後の日々、くりかえしこう言っていた————「わたしはここにいるのかい?」いったい祖母は何を言いたかったのだろう? 人がどう言うとき、いくつかの状況が考えられる。地図のある地点を指さして、「わたしがいるのはここ?」と尋ねることもあるだろうし、あるいは特定の場所を頭に思い描いて、そう自分に問うこともあるだろう。いずれにしても場所の経験は、空間認知細胞の発火パターンによって、説明されることは決してない。つまり、自分のいる場所を本当に知ることができるのは、その場所について話ができたり、どうやってそこに来たかを思い出せるときだけなのだ。
 結局のところ、祖母が聞きたかったのは、自分が今いる部屋と自分とのかかわりの歴史であり、そしてまたおそらくは、自分がはたして存在しているかどうかを聞いていたのだろう。多くの点で、それは究極の質問であり、私たち全員が人生のある時点で尋ねる問いかけなのかもしれない。わたしはここにいるのだろうか? そうであってほしい。これより大事なことが、ほかにあるだろうか?」

(「第十一章 道の終わり」より)

「ここ一〇年間というもの、ナビゲーション・アプリとGPSが空間記憶に害を及ぼすということが、多くの研究によって分かってきた。ナビの指示に従っているとき、世界は私たちのかたわらをただ通り過ぎていくだけだ。訪れた場所の記憶もほとんどない。旅について想像したり計画したりすることも必要なければ、顔を上げることさえしなくて澄む。だが、地図を使うなら、見ているものから自分の位置を推測せざるを得ないのだ。」

「GPSが私たちの感性におよぼす影響は、ひょっとしたら実際的な影響と同じくらい深刻である。何にも気をとめずに世界を動きまわれば、その無知から影響を受けないはずがない。場所の記憶は、そこにいるとどんな感じがするのかを語る物語である。ぼんやりと素通りすれば、私たちは豊かな理解と豊かな思い出を作り上げるチャンスを失う。認知神経学者のコリン・エラードが『心の場所たち(Places of the Herats)』に書いているように、「媒介されることのない生の現実の経験」などというものはない。しかも、うつむいてスマホのドットを見続けていれば、他の人と交流するチャンスも捨てることになる。」

「GPSによって、いっさい道に迷わないということもあり得るようになった。人によっては魅力的に聞こえるだろう。だが必ずしもそれは、想像するほど魅力的なものではないかもしれない。常に地理的に間違うことのない世界に生きるとき、私たちは自分というもののいくらかを、成長の可能性のいくらかを失う。レベッカ・ソルニットは著書『迷うことについて』で、確実性と知らないということについて熟考し、こう言っている。「決して迷わないというのは生きていることにはならない。どうやって迷うかを知らなければ、破滅が待っている。発見に満ちた人生は、未知の土地のどこか、その中間に横たわっている」。続けて彼女はヘンリー・デイヴィッド・ソローの文章を引用する。ウォールデンの池のほとりに彼が建てた小屋での二年間は、「思慮深く」生き、「人生のすべての真髄をすすりとろう」とする試みだった。「道に迷って初めて」と彼は言った————「つまり世界を失って初めて、私たちは自分を発見し始め、自分がどこにいるのか、そして私たちと世界とのかかわりの持つ無限の広がりを認識できる」。」

「科学者のなかには、GPSが以前考えられていたよりも深いレベルで認知機能に影響を及ぼしているかもしれないと心配している人々もいる。そう考えてもおかしくはない。すでに述べてきたように、ナビゲーション行動において、メンタルマップをつくるなどの空間アプローチを使う人は、受け身で自己中心的アプローチを使う人に比べて、海馬の灰白質が厚い(つまり、前者のカイバには、より多くのニューロンと、ニューロン同士の結合がある)。空間アプローチを使う人たちは海馬を鍛えているのだから、それも納得である。これもすでに述べたことだが、海馬に灰白質の少ない人々は、人生の後半になって、認知症など認知にかかわる病気を発症する危険が高くなる————強靱な海馬は清浄な認知と手を携えていくのだ。だからといって、究極の受け身戦略であるGPSを終始使い。海馬を極力使わないで生きることが、必ずしも認知機能の低下につながるとはかぎらないし、スマホを投げ捨てることがその呼ぼうになるわけでもないだろう。」

「進化の歴史の大半を通じて、私たちは多大な認知力を動員して、自分の周りの空間について、また自分がその空間にどうおさまっているのかについて学んできた。どこに私はいるのか? どこに属しているのか? どこに行こうとしているのか? どうやってそこにたどり着くのか? これらは存在と生存にかかわる根本的な疑問である。それに答えるために、有史以前の祖先たちは、強力な記憶システムを発達させ、それによって知らない土地を何百キロも旅することができた。私たちはそれ以来、これらの能力を使い続けている。今、それを捨て去り、代わりになんでもやってくれるテクノロジーにウェイファインディングの役割を引き渡してしまってもいいのだろうか? スマホを持ったすべての人が、このことを考えるべきだ。なぜならGPSは私たちを行きたいところに運んではくれるけれども、こうした存在にかかわる本質的な疑問に答えるのを助けてはくれないからだ。
(・・・)
 ナビゲーションは、もし完璧にかかわるならば、他の真実をも明るみに出す。それは、場所の活き活きした経験であり、自分は「ここ」にいるという知識である。このふたつは永遠の真実だ。それらは、最初のウェイファインダーたちにとって重要だっただけでなく、今の私たちにとっても重要である。旅の重要性は今も変わらない。行く手には、いまだに探検されていない世界が存在する。私たちはその世界に分け入る道を見つける必要があるのだ。」

《目次》
第1章 最初のウェイファインダーたち
第2章 うろつきまわる権利
第3章 心の中の地図
第4章 考える空間
第5章 A地点からB地点へ、そして戻る
第6章 あなたはあなたの道を行き、私は私の道を行く
第7章 自然を読む
第8章 道に迷うことの心理学
第9章 都市の感覚
第10章 私はここにいるの?
第11章 道の終わり

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