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末木新「自殺対策はすばらしい新世界を創造し、我々の人生を豊かにするか?」 (『群像 2024年2月号』/オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

☆mediopos3344  2024.1.13

『群像 2024年2月号』で特集されている
「死について」より末木新の論考
「自殺対策はすばらしい新世界を創造し、
我々の人生を豊かにするか?」をとりあげる

かつて日本の自殺者が三万人ほどだったにもかかわらず
その後二万人程度にまで減っているという統計データについて
以前からその減った原因について知りたいと思っていたが
この論考からそれが少しばかり見えてきたところがある

厚生労働省のホームページに掲載されている
「日本における自殺の現状」によれば

「平成10年以降、14年連続して日本国内の自殺者数が
3万人を超える状態が続いていましたが、
平成24年に15年ぶりに3万人を下回りました。
また、平成22年以降は9年連続の減少となり、
平成30年は2万840人で昭和56年以来37年ぶりに
2万1,000人を下回りました。」
「自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数)は
主要先進7カ国の中で最も高くなっています。」とある

最近のデータでは
令和4年の自殺者数は
前年に比べ874人(4.2%)増の21,881人
男性は13年ぶりの増加、女性は3年連続の増加
男性の自殺者数は、女性の約2.1倍
となっている

「自殺対策基本法」が制定され
「自殺対策が国家的な事業になってから、
自殺者数は順調に漸減し、
三万人いた年間の自殺者数は二万人にまで減った」
というように
「「統計」上の自殺者数は減っている」ものの
「いわゆる原因不明の死亡がこの二〇年で
二万人ほど増えているという事態」がある

コロナ禍となり
国家・マスメディア・科学者・知識人を挙げて
コロナワクチンの接種が推奨されるにつれ
「超過死亡者数」が激増するようになったことを知り
人口動態や厚生労働省のデータを参照するようになったが
そこであらためて確認できたことは
「原因」をどのように規定するかによって
統計データは大きく変化するということだ
「原因」とみなさなければその統計データはゼロにさえなる

末木氏は記事中に
「自殺者の一部が意図的に原因不明とされている」
といった断定的な見解は避けているものの
自殺者数が減少するデータと
原因不明の死者数が激増するデータが
ほとんど連動していることに注目している

国家的な事業として自殺対策を行い始めるとともに
見かけ上の自殺者は減ったが
原因不明の死者数は激増し
あわせた死者数はむしろ激増しているのである

末木氏はオルダス・ハクスリーのディストピア小説
『すばらしい新世界』で描かれる
「国家によって管理され、困った時に飲みましょうと
洗脳(≒丁寧な広報を)された上で、
配布されている」「ソーマ」と
現在日本国家が行っている自殺予防対策である
「「困ったときに相談しましょう」というCMを流したり、
義務教育でそうした趣旨の自殺予防教育をすること」を
ハクスリーの描く「ソーマ」と重ねている

末木氏の記事のタイトルは
「自殺対策はすばらしい新世界を創造し、
我々の人生を豊かにするか?」だが

「自殺を予防しようという法律があること
そのものはすばらしい」ことだとしても
「我々の人生を豊かにするものは、
ソーマの配布や使用そのものではな」く
「この社会が、我々一人ひとりに、
社会的関係を創造したり変化させたりする
自由を保証することである」ならば
国家管理のもとに私たちを閉塞させる施策は
むしろ逆効果をもたらすことにもなる

自殺者は表向き減っているように見えても
それさえ「主要先進7カ国の中で最も高」く
それどころか原因不明の死者数を含む自殺者数は
その倍ほどになっているのが現状である

さらにはようやく少しずつ明らかになってきている
ワクチン接種による死者数等が激増している現状のように
私たちはいま政治主導であらわれつつある
「すばらしい新世界」への対し方を
考えていかなければならない事態となっている

■末木新「自殺対策はすばらしい新世界を創造し、
          我々の人生を豊かにするか?」
 (『群像 2024年2月号』/特集 死について)
■オルダス・ハクスリー(黒原敏行訳)『すばらしい新世界』
 (光文社古典新訳文庫 光文社 2013/6)
■デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)
 『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』(光文社 2023/9)

(末木新「自殺対策は・・・」より)

「将来実施されるべきマンハッタン計画なみに重要な研究プロジェクトは、主導する政治家や参加する科学者が〝幸福の問題〟と呼ぶであろう事柄についての、政府をスポンサーとする大規模な調査である。〝幸福の問題〟とは、言い換えれば、どうやって人々に隷属を愛させるかという問題だ。(オルダス・ハクスリー)」

(末木新「自殺対策は・・・」〜「自殺対策による新世界の創造」より)

「一九八八年に前年度から大幅に自殺者が増加し(九七年には消費税の増税やアジア通貨危機などの経済的混乱があり、特に中高年男性の自殺率が増加した)、そこから始まった自殺者三万人時代は、自殺対策基本法ができてしばらく後に、司法によって終止符が打たれた。自殺対策が国家的な事業になってから、自殺者数は順調に漸減し、三万人いた年間の自殺者数は二万人にまで減った。コロナ禍による孤独・孤立の蔓延、経済的な混乱によりそれまで右肩下がりであった自殺者数は微増したものの、それでも以前のような水準にはない。そう、日本社会は二〇年前よりも遙かに生きやすくなった。自殺対策はうまくいっている!!(もちろん、まだまだ二万人の自殺者がいるので、対策はもっと強化しなければならないが!)」

(末木新「自殺対策は・・・」〜「世界は良くなり、自脱は減っている?」より)

「これが、厚生労働省が毎年刊行する自殺対策白書などの公的な文書に見られるドミナント・ストーリー/正史である。しかし、ちょっと待ってほしい。このストーリーは我々の生活実感と合致するものだろうか。コロナ禍によって発生したと思しき現下のスタグフレーションを思わせる経済動向の影響ももちろんあるだろうが、それにしても、この社会は20何前よりも生きやすいものになっていると我々は感じているだおるか。みんな幸せで、自殺なんてことを考えなくてもよい状態に近づいたのだろうか。

 確かに、「統計」上の自殺者数は減っている。一方で気になることもある。それは、いわゆる原因不明の死亡がこの二〇年で二万人ほど増えているという事態についてである。我々が通常、自殺と考える志望形態を統計の数字に計上することはこれまでにも国際的に言及され、多数の研究が積み重ねられてきた。というのも、自殺が自殺である所以は、亡くなった者が自らの意思によって生前の行動の意図を聞くことはできないからである。そして、自殺者の一部は、別の死因として統計的に計上される場合があり、そのよくある計上先の一つに、原因不明の死亡(正確には人口動態統計の「診断名不明確及び原因不明の死亡」)がある、というわけである。

 近年の日本の死亡統計データを分析すると、原因不明の死亡が多い地域では自殺が少ないというゆるやかな関係が見られる。九八年の自殺者の増大以降中高年の自殺は減少傾向にあり、子ども・若者の自殺は横ばいか微増のような状態にあるとされているが、二万人ほど増えた原因不明の死亡のボリュームゾーンは(自殺が減ったとされる)中高年である・・・・・・。

 もちろん、ここで私が言いたいことは、こうした原因不明の死は全て自殺であり、時差湯を見かけ上減らすために、自殺者の一部が意図的に原因不明とされているなどという陰謀論ではない。しかし、おそらく昔であてば自殺と判断された死亡の一部は原因不明に計上されるようになっているし(その原因の一端は、訴訟リスクの回避強化といった社会的変化であろう)、そもそも様々な理由で死因を確定し正確な統計を作ることそのものが難しくなっている。」

(末木新「自殺対策は・・・」〜「社会的関係を想像したり変化させたりする自由をこの社会はどう保証するのか?」」より)

「人が自殺をする根源的な理由は、他者との関係性の喪失にある。自殺をしないだけではなく、幸せに生きていけるか否かを規定する主要な原因も、同じく他者との関係性である。もちろん、他者がいなくとも幸せに生きていける人もいる。しかしながら、統計的に見れば(人間を集団として見れば)、普通の人間が自殺をせずに幸せに生きていくためにもっとも重要なものは、社会的関係の充実である。だからこそ、自殺の危機に瀕した者に「社会的関係」そのものを(一時的にせよ)処方しようと考えた先人の試みは正しかった。

 しかし、相談事業が関係性を処方できるのは、その場限りであり、その相談が終わった後に何も残らないのであればそれは(質の悪い)ソーマ(オルダス・ハクスリーのディストピア小説『すばらしい新世界』で描かれる気分転換のための錠剤で、多幸感や快楽、心地良い幻覚作用をもたらすもの/副作用もなく、政府から配給される)を飲むのとほとんど同じである。しかもそのソーマが自分の創意工夫によって作られたものではなく、国家によって管理され、困った時に飲みましょうと洗脳(≒丁寧な広報を)された上で、配布されているものだとしたら・・・・・・それは、「すばらしい新世界」である。

 我々の人生を豊かにするものは、ソーマの配布や使用そのものではない。この社会が、我々一人ひとりに、社会的関係を創造したり変化させたりする自由を保証することである(・・・)。そしてそれは決して、上からの押しつけであってはならない。「困ったときに相談しましょう」というCMを流したり、義務教育でそうした趣旨の自殺予防教育をすることと、〝欝かなと思ったら早めのソーマ〟、〝一〇グラム(のソーマ)は一〇人分の欝を撃つ〟と〈条件づけセンター〉で睡眠教育をされることは、何が違うだろうか(しかも、今や、困った時の相談も、必ずしも人間の他者が担うのではなく、他者からと錯覚してしまうクオリティの返答をAI が作るところまで来ているわけであり、そうなればなおのこと、ソーマの服用と何が違うのかを答えることは困難になるだろう)。

 『ブルシット・ジョブ』で本邦でも名をはせた文化人類学者のデヴィッド・グレーバーと、考古学者のデヴィッド・ウェングロウは、共著『万物の黎明』の中で、近年の考古学的知見に基づき、現代の我々が生きる社会とは異なる、過去に実際に存在したであろう人類社会のあり方を描き出している。その中で、我々が過去に築いてきたより閉塞していない社会においては、社会的な関係を構築・変化・再創造する自由を確保するために、移動する自由と服従しない自由が重視されてきたことが論じられている。仮に、現在の自殺対策の在り方に問題や閉塞した状況を感じるのであれば、このような視点は非常に参考になるだろう。

 当然のことながら、自由は、単に邪魔をしない/障害にならないというだけで保証されるわけではない。自由を行使することができる力を我々が持てるよう、教育が保証する必要がある。

 自殺を予防しようという法律があることそのものはすばらしいことである。国や地方自治体が自殺を予防することそのものを阻害する必要はない。しかし、単に国が決めたメニュー(自殺総合対策大綱)を効果もろくに確認せずに粛々と官僚的に実施するだけであれば、それは息苦しい空気を作ることにつながりかねない。自殺対策基本法制定20周年を控え、今、この国の自殺対策は、(国家「だけ」に頼らずに)人々が自由に社会的関係を想像したり変化させたりすることができる環境や社会を作っていくための創造力/想像力を必要著している。」

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