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高橋睦郎『遊ぶ日本 神あそぶゆえ人あそぶ』/笠井賢一『芸能の力』/中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』/『ノヴァーリス作品集』

☆mediopos3440  2024.4.18

日本語の「あそぶ」は
ほんらい「神の動詞」だったという

「神神の行動はすべてアソブで表現しえた。
このアソビに人間が関わる方途はただ一つ、
神神をアソバせることを通じて神神のアソビを真似び、
これを神神の世界から人間の世界へ降ろすこと」だった
(高橋睦郎)

つまり「神あそぶゆえ人あそぶ」

「神楽」という伝統芸能があるが
「神楽」はもともとは「かみあそび」
と呼ばれていたともいわれる

神とは
神に捧げ物をする祭卓である「示」と
電光が屈折して走る形である「申」が
一体となった漢字で
「底知れぬ威力を持つ神を慰める行為として、
神に芸能を見せることが神楽の原点」である
(笠井賢一)

「神楽」の旧字「樂」は
三番叟などでも使われる木の握りの付いた鈴のことで
この鈴を振って神霊を楽しませるのが「神楽」

この「神楽」はほんらい
「神を楽しませ、神を遊ばせる行為」であり
観客は存在しない

この「神楽」をふくめ
ほんらい芸能の根本にあることは
「神への祈りと、神を供応し、楽しませ、
遊ばせるということ」にほかならない

「神懸かり」もそのことと関連した
シャーマニスティックな現象で
「神が巫女または男巫に憑いて
神のお告げをご託宣する」ことである

古代「遊部」(あそびべ)という
天皇の葬礼に際し祭器などを用意し
殯宮に供養し歌舞を奏して鎮魂の儀を行なった
部の民が存在したが
そこにも「あそぶ」という
神の動詞が関わっていると思われる

以上日本の伝統芸能「神楽」に関連した
「神あそぶゆえ人あそぶ」をみてみたが
自然神秘思想にも関わったドイツロマン派の詩人
ノヴァーリスもまた
「神と自然もまた遊んでいるのではないか?」
と「神の遊び」「自然の遊び」についての断章を残し

さらにはその「遊び」について
「偶然を相手に実験すること」
思考や数学や言葉に関連させて言及し
それらの「自己以外に目的をもたない」たわむれが
「ポエジー」となることについて示唆している

人間が神々にかわって
神々を遊ばせるということは
人間が神々になるということではないが
現代ではそのほんらいの「神々」になりかわって
人間たちがそれぞれの目的のために
「宴遊」を繰り返すようになっている

昨日のmediopos3439で
「遊びでしかない遊び」が
大人にいかにして可能かということについてふれたが

それが可能なのはほんらいの「神楽」のように
みずからの内なる神(が存在するとして)を
遊ばせる以外の目的をもたないような
「遊びでしかない遊び」を遊ぶときではないか

それこそがノヴァーリスの示唆している
「聖なる遊び」ともなり得るのだろう
そしてそこにこそ
内なる神への捧げ物としての祈りともなる
ポエジーの極北も存在するのではないだろうか

■高橋睦郎『遊ぶ日本/神あそぶゆえ人あそぶ』(集英社 2008.9)
■笠井賢一『芸能の力 言霊の芸能史』(藤原書店 2023/7)
■中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想/自然学から詩学へ』(創文社 1998.2)
■『ノヴァーリス作品集 第3巻』(今泉文子訳 ちくま文庫 2007/3)

**(高橋睦郎『遊ぶ日本/神あそぶゆえ人あそぶ』〜「1 遊べ遊べ遊べ 原理1」より)

*「  本
  木綿作る 科の原に や
  朝尋ね 朝尋ね
  朝尋ね や

    末
  朝尋ね 汝も神ぞ や
  遊べ遊べ 遊べ遊べ
  遊べ遊べ

    本
  朝尋ね 君も神ぞ

    末
  汝も神ぞ

    本
  君も神ぞ

    末
  汝も神ぞ

    本
  君も神ぞ や
  遊べ遊べ 遊べ遊べ
  遊べ遊べ
 
    末
  遊べ遊べ 汝も神ぞ
  遊べ遊べ 遊べ遊べ
  遊べ遊べ

 時の霞を幾重にも隔てた彼方からおこる、この古代の本方(もとかた)・末方(すえかた)に分かれての掛け合いの声から、どんな光景が立ち上がって来るだろうか。
 神迎えのための榊に取りつける木綿弊(ゆうしで)、その木綿をつくる科(しな)の木がいちめんに生えた神聖な野に、夜明け、ひとりの神が尋ねて来る。野には迎える神が待ち受けていて、尋ねてきた神に「この穢れのない朝、尋ねて来られたあなたは尊い神だ、さあお遊びください」と誘う。こんどは尋ねてきた神が迎える神に「この朝、尋ねて来た私を迎えてくださるあなたこそ尊い神だ」と返す。二人は「あなたこそ神」「あなたこそ神」と頌(たた)えあい、「遊びください」「お遊びください」と誘いあう。いつしか神神の数は殖えて、朝日さす科の木の原は神神の宴遊の野と化す。

 もちろん、この神神の宴遊は演じられる神神の宴遊であって、演じているのは巫覡(かんなぎ)または俳優(わざおぎ)としての人間だ。だから、この宴遊は神神の宴遊であるとともに、人間の宴遊だ。神神は人間たちに演ぜられることによってはじめて宴遊できるし、人間たちは神神を演じることによってはじめて宴遊できる。これがわが国の古代の神神と人間の関係の原点だったのではないか。」

*「そもそも『神楽歌』の「神楽」を「かぐら」というのは「催馬楽」とラの音を合わせ、かつ神の下りる場、窮極的には採物を神座=かみくら=、簡(つづ)めて「かぐら」と呼んだことと重ねたのであって、もともとは「神楽」じたい「かみあそび」、したがって「神楽歌」も「かみあそびうた」と呼ばれていた可能性が高い、といわれる。」

*「現代、かつて神または神神のいた地位にいるのは人間だ。人間は自分こそが「あり」と主張し、わが物顔にさまざまなことを「する」。神または神神に代わって「する」のだから、人間の行為は「あそぶ」に近づいてよさそうなものだが、まことは「あそぶ」からおよそ遠い。神の動詞「あそぶ」を人間に引きつけていえば、心にうかんでくることを思いのままおこなって、しかもその行為が宇宙自然の理(のり)に叶っていること。これは神にしかできないし、人間は倣うことによってしかこれに近づけない。倣うからにはお手本である神または神神がなければならないが、私たちは「神は死んだ」と言って憚らない。言わないまでも心中ではひそかにそう確信している。そして、われひととともにすこしも倖せではない。」

**(高橋睦郎『遊ぶ日本/神あそぶゆえ人あそぶ』〜「一跋 神から人へ」より)

*「国語におけるアソブはほんらい神の動詞だった。神神の行動はすべてアソブで表現しえた。このアソビに人間が関わる方途はただ一つ、神神をアソバせることを通じて神神のアソビを真似び、これを神神の世界から人間の世界へ降ろすこと。このとき、アソビの主体である神神は人間の世界に流謫し、さすらったことになるだろう。とすれば、これを真似び、学んだ人間のアソビも、流謫。さすらいというかたちを取らざるをえない。まず神神の世界であるタカマノハラに叛逆した神としてのスサノヲが地上に追放され、タカマノハラの地上化ともいうべき宮廷から危険分子として弾き出された半神ヤマトタケルが西から東へ、さらに西へとさすらい、これに準った皇族からの離脱者がさすらいの生涯を送り、只人・地下人のさすらいがこれにつづく。」

**(笠井賢一『芸能の力 言霊の芸能史』〜「一 芸能のはじまり」より)

*「神は、神聖にして強い霊力を持つものをさし、それは樹木や巨石といった自然物であったり、雷(神鳴りとも書きます)や大風のような自然現象もふくみます。アイヌ語の神を意味する「かむい」と同源の言葉だと考えられています。
 漢字の「神」は、もともとは「示」と「申」とが一体になったもので、申は電光が屈折して走る形であり、示は神に捧げ物をする祭卓のことなのです。
 このような底知れぬ威力を持つ神を慰める行為として、神に芸能を見せることが神楽の原点なのです。
 「楽」という漢字の旧字は「樂」であり、木の握りの付いた鈴(これは韓国のシャーマンや日本の三番叟の鈴と同じです)をもち、それを振って神霊を楽しませるものでした。
 孔子は『論語』のなかで「詩に興り、礼に立ち、樂に成る」と樂を人間としての最高位、完成として大切にしています。
 この神と樂が一緒になった言葉が神楽(かぐら)です。神楽と呼ばれる芸能は、神を祭るために神前で演奏する舞楽なのです。神楽は大和言葉では神座————かみくらがつまっや「かぐら」になったといいます。こうした神楽には大きく二つの系譜があります。
 一つは御神楽とよばれる、皇室及び皇室と縁の深い神社での歌舞。もう一つは里神楽と呼ばれる、民間の神社で伝えられてきた歌舞です。
 宮中の御神楽は千年程前に始まったとされますが、これは公開されておらず、見ることが出来ません。しかし、その宮中のよりさらに百年程古くから始まった石清水八幡の御神楽は、映像に記録され、見ることができるようになりました(・・・)。
 これはあくまで、神を楽しませ、神を遊ばせる行為であって、ここには観客は存在しません。
 もう一方の里神楽は私たちに馴染み深いものです。日本中の神社にはたいがい神楽殿が有り、さまざまな神楽が残っています。」

*「芸能の根本は、神への祈りと、神を供応し、楽しませ、遊ばせるということなのです。
 だから芸能の始まりにはいわゆる観客は存在しません。あくまで見るのは神様であり、それが終わってから、直会(なおりあいという意味で、物いみ(斎戒)が終わって常に戻り、お神酒・神饌を分かち合って頂くこと)になって、はじめて人々は芸能を楽しんだのです。」

*「神楽のもう一つの重要なファクターに神懸かりという行為があります。神懸かりは「神憑り」とも書きます。狐憑きと同じです。
 神や人や動物が人に乗り移り、着いて狂乱させ、常とは違った状態になることです。憑という漢字は、木を三つ書いて森となるのと同じに馬を三つ重ねて書いた字が元で、群馬が狂奔することからきた文字だといいます。この憑くということの根本は、神が巫女または男巫に憑いて神のお告げをご託宣するということなのです。」

**(中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』〜第1部 第3章 世界の意味の喪失と回復」より)

*「ノヴァーリスの「来るべき自然学」は、「顕現」や「表象」という、「目に見えないもの」と「目に見えるもの」のあいだの、言わば「中間地帯」を対象とする。「無」と「有」、「渾沌」と「形あるもの」、「生命なきもの」と「生命あるもの」、「精神=霊=気」と「物」が、相互に変換する転移のプロセスを問題にする。」

**(中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』〜第3部 第9章 高次の自然学としてのポエジー」より)

*「「ポエジー」は、ノヴァーリスにおいて「高次の自然学」でもある。
 ヨーロッパの近世において、人間は「私」の自覚を強め、自己を世界や自然から切り離して意識するようになった。自然と人間、客体と主体、物質と精神、身体と心をひとまず分離したところに、近世の自然科学や哲学は成り立つ。ノヴァーリスは、十八世紀末のヨーロッパの東の端にあって、精神と物質など、抽象化という知的操作によって分別された二元をふたたび結びつけることを自己の課題としていた。ノヴァーリスの「来たるべき自然学」kuenftige Physikの構想は、このような文脈のなかに位置している。(・・・)自然神秘思想の伝統は、自然科学や哲学が、それぞれの限界を越えて、人間と自然のつながりを探究するときに、分裂した統合のモデルとなった。」

*「ノヴァーリスの独自性は、新たな自然学が、新たな科学でも、新たな哲学でもなく、「ポエジー」であること、すなわち芸術であることを理論的に明確にし、実際に「ポエティッシュな」作品を創造したことである。」
「ノヴァーリスは、科学と哲学とポエジーとを区別し、この三者を段階として理解している。「すべての科学(学問)は、ポエジーになるーー哲学になったあとに」。」

**(中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』〜第3部 第10章 文学の理論としての詞学」より)

*「自然の運動と人間の芸術活動がそれぞれ自己完結的に独立しつるも、あるつながり、対応関係をもつことは、また、「遊び」の概念に即して明らかにすることができる。神や自然の「遊び」、「たわむれ」については、次のようなメモがある。

  神と自然もまた遊んでいるのではないか? 遊びの理論 Theorie des Spielens。聖なる遊び。純粋遊び学 reine Spiellehre————日常 gemeine 遊び学。応用遊び学。(Ⅲ三二〇、四一八版)

  雲のたわむれWolkenspiel————自然のたわむれ、きわめてポエティッシュ。自然は風琴(アイオロスのハープ)だ————自然は楽器であって————その響きはさらに、私たちの内なる琴線をかなでる。(観念連合 Ideenassozoation。)(Ⅲ四五二、九六六番)

「遊び」や「たわむれ」とは、自由で、非日常的で、非効率的な自然のあり方を表している。
 ノヴァーリスは、「神の遊」について、真実性をもって現実的に語りえない時代にいたし、そのことを自覚してもいた。その点、ノヴァーリスが「一般草稿」を記したあとの時期に本を読んで知ったヤコブ・ベーメとは異なる。ノヴァーリスでは、人間が自己を意識し、その自覚に基づいて為す「遊び」が、関心の中心を占めている。

  遊ぶこと Spielen は、偶然を相手に実験すること experimentieren mit dem Zufall である。(Ⅲ五七四、一四一番)

 この「遊び」は、「賭け事」であるとも考えられる。「偶然」についてノヴァーリスは独特な考えをもていた。「偶然」は、「高次の存在との接触」であり(Ⅲ四四一、九〇一番参照)、別世界からの合図のようなものである。「偶然」は、ほんとうは「必然」であり、神の摂理であるかもしれないが、その意味がわからないので。「偶然」と思われているだけなのである。ノヴァーリスは、人生の「偶然」を「素材」として用いることを勧める。「精神」豊かな人は、「偶然」を「ひとつの無限の小説(ロマーン)」の始まりにすることができる(Ⅱ四三六/四三八、六五番)。また「偶然に対する正しいセンスをもつ人」は、「あらゆる偶然を、一つの知られざる偶然を規定するものとして利用することができる(Ⅲ六八七、六八〇番)。つまり、「偶然」のなかに自分の「運命」の必然性を読みとることができる。
 「偶然」から「運命」を読みとることに、たとえば占いがある。ノヴァーリスの「遊び」では、「偶然」と「実験」が結びついている。「実験」は、悟性の計算に基づき自然に介入することである、ノヴァーリスの「遊び」は「偶然」とのたわむれを意識的な行為とする。そしてそのような「偶然」との意識的な「たわむれ」がノヴァーリスにとっての「芸術」ないし「ポエジー」になる。だから、「ポエジーは、自発的で、意図的で、理念的な偶然の産物 selbsttätige,absichtliche,idealische Zufallprpduktion に基づく」と言われる(Ⅲ四五一、九五三番)。意図や理ねなどの、詩人の意志に基づく能動性と、連想の働くにまかせるような(Ⅲ四五一、九五三番参照)受動性との両方の面が必要である。(・・・)

 ノヴァーリスは、思考や数学や言葉に関しても、「遊び」の面を見る。思考や数学や言葉は、自己以外に目的をもたないとき、その独立性によってかえって、「自然のたわむれ」をあらわすことができる。」

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