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種村 季弘『水の迷宮』

☆mediopos2923  2022.11.18

種村季弘が複数巻にわたって
選集を編んでいる日本人作家は
泉鏡花と日影丈吉の二人だけだという

さらにいえば
初期から晩年までについて繰り返し論じているのは
泉鏡花と渋澤龍彦だけ

それほどに重要な作家である泉鏡花について
三十有余年にわたって書かれた文章が
生前にまとめられることはなく
二年ほど前の本書『水の迷宮』が初めてのこと

なぜ水の迷宮か

鏡花にとって水とは
やすらぎそのものでもあったにもかかわらず
「水は、(あるいは水の女は)、
たとえ目の前にあっても接触することができない。
すくなくともそれと合体して最終的にやすらぐことはない」

水への禁忌がそこにあったのである
そしてその禁忌こそが鏡花を「水の作家たらしめた」

「鏡花の水の物語は、間近に水がありながら
水との接触を禁じられているという
パラドックスに支えられている。」
現実の水との接触を禁忌とすることではじめて
夢中の「恋しき人」とともにいる恍惚があるのだ

なぜ水への禁忌か

興味深いことに
「鏡花の女には顔がないか、
顔はほとんど描写されない」

それに対して
「衣装が微に入り細を穿って描写される」ような
「衣装フェティシズム]があるのだが

女の顔に対するアンチ・フェティシズムには
「オシラ神信仰の影が落ちているかもしれない」というのだ

少し短絡的な発想ではあるが
その「水への禁忌」「顔の不在」は
禁忌であり不在であることによって
欲望の対象であるアニマを無意識の内に
永遠化する働きがあるといえそうだ

永遠は常に仮象のなかにしか見出せない
そのことによって欲望は永遠化するのである

母なるもの聖なるものへと向かいながら
それらは永遠に不在のままである
その影が投影される実在の対象はどこまでも仮象であり
そこで欲望が満たされることはない
そのパラドックスを生きる迷宮そのものが
まさに「夢」のなかの物語として描かれてゆくのだ

○○を求めるがゆえに
「○○への禁忌」「○○の不在」を生きる
無意識の内に人はそのパラドックスをあえて生きている
逆にいえばそれがあってはじめて生きられるところがある

信仰というのもおそらくそんな有り様なのだろう
「神」に祈りながら
実際にはその不在に歯がみしならも
それゆえにこそ求めざるをえないような
聖なるものへの憧憬
つまりは生と死をむすぶ永遠

■種村 季弘『水の迷宮』
 (国書刊行会 2020/12)

(「泉鏡花——水の迷宮」より)

「友禅の着物が美々しく女をくるんでいる。それが「水の上」にいる。鏡花の常套として、水があればほとんど自動的に美々しい衣装の女が出現してくる。「幼い頃の記憶」でも、のっけに母がいて、縮緬友禅の女がいる。そしてそこは「兎に角、水の上であった。」
 だからといって鏡花の女が常に水のモティーフにともなわれているということにはならない。(…)
 「幼い頃の記憶」に回想されているような、おだやかなまどろみに自足して水とともにある時間は、同じく幼児鏡花が主人公の「薬草取」や「化鳥」のような作品にしか見当たらないのである。なぜかといえば物語の現在には、水の上の女はもはやいないか、まだいないからだ。「幼い頃の記憶」にも次のようにある。「若し、その女を本当に私が見たものとすれば、私は十年後か、二十年後か、それは分からないけれども、兎に角その女に最う一度、何所かで会ふやうな気がして居る。確かに会へると信じて居る。」
 この随筆を書いた明治十五年の鏡花は三十九歳。問題の美しい女に会ったのが五歳のみぎりとして、三十数年前に会って以来女の不在は続いている。十年後、二十年後に会えそうだとはいえ、それは期待であって実現の可能性はおそらくない。彼女はもはやおらず、またまだいない。現在とは、いわば彼女の不在において宙吊りになった時間である。この不在が水にやすらぐこと、あるいはやすらぎの水に直に触れることを禁じている。水は、(あるいは水の女は)、たとえ目の前にあっても接触することができない。すくなくともそれと合体して最終的にやすらぐことはない。
 とすれば水への禁忌が鏡花をして水の作家たらしめたのである。」

「ことほどさように鏡花の水の物語は、間近に水がありながら水との接触を禁じられているというパラドックスに支えられている。現実の水との接触を禁忌したところではじめて夢中の「恋しき人」とともにいる恍惚がある。
(…)
 水の女たちはローレライのように死に誘う。といって鏡花の主人公たちはかならずしもカタストロフィックな水に呑み込まれる末期を遂げるわけではない。心中相手の誘惑する女たちが我から身を隠してしまうことがあるのである。「草迷宮」の鬼面の女がそれだ。
(…)
 古風な花柳界の女を思わせる女たちは、男の身を立ててみずからは水中や火中に消えてゆくのである。
(…)
 女に近づいたかと思えば、相手は隠れ、はぐらかして逃げる。身を引いて隠れる女には概して顔がない。個としての顔がない、というほうが実情に適っていよう。そもそも鏡花の女には顔がないか、顔はほとんど描写されないのである。代わりに衣装が微に入り細を穿って描写される。だから「その女」に目印がないことはない。女芸人か芸者のように派手な(友禅縮緬かなにかの)着物を着ているはずだ。顔立ちはあいまいである。
 鏡花のこの衣装フェティシズム、もしくは顔に対するアンチ・フェティシズムには、オシラ神信仰の影が落ちているかもしれない。オシラ神のもっとも素朴な像は白木に紙や布をかぶせただけのものである。のっぺらぼうの、あるいはせいぜい稚拙に目鼻を描いた木製のしゃもじに、美々しい衣装を着せたものである。いずれにせよ神力を呼び込む装置としての、紙、布、衣装に充填があって、本体は空白に近い。」

「見方を変えれば、鏡花のかぎりなく旅路をさまよう生は、派手な着物を着た顔のない女たちとの追いつ追われつの、ひらひらと春の野に舞う荘周の蝶にも似た、芸能者の遊戯としての生にほかならない。舞台は水の迷宮。作品の人物はときにパセティックな結末を迎えることがあるにもせよ、鏡花その人は六十六歳の生涯を全うして、生きたかぎりの世界を実物大の水の迷宮として造形し続けたのである。」

【目次】
I
水中花変幻
水辺の女
摩耶夫人三相――鏡花・迷宮・金沢
胎児を孕む化物屋敷――泉鏡花『草迷宮』
泉鏡花―水の迷宮
読みたくなる鏡花

II
「泉鏡花集成」解説
1 絵のように美しい物語
2 悪と温泉
3 女の世界
4 洪水幻想
5 迷宮の怪
6 顔のない美女
7 水源の女神
8 女と人形
9 火の女 水の女
10 三人の女
11 芸の討入り
12 ハイカラなピカレスク小説
13 愛と死の戯れ
14 魔の山

III
鏡花再演
言語の受難・言語の解体――三田英彬『泉鏡花の文学』
『海の鳴る時』の宿
三階から上――鏡花の化け物
縮地気妖の怪
玄関のない家

IV
泉鏡花と白山信仰
泉鏡花作品に見るオシラ様
鏡花、彼岸の光明 [対談・川上弘美]

解題 齋藤靖朗

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