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山本史郎『翻訳論の冒険』

☆mediopos3303  2023.12.3

今や翻訳がAIで「できてしまう」
かのような時代となっている

しかしそこで何が翻訳されているのか
その翻訳の「正しさ」とはどういうことだろうか

本書『翻訳論の冒険』で扱われるのは
「文学テクスト」であって
実用的なテクストはそこには含まれない

「翻訳論」が必要なのは「文学テクスト」であり
その「冒険」に乗りだそうというのが本書である

とはいえ
文学テクストと実用的なテクストの境界は
必ずしも明確ではないことも多い

実用的なテクストとは
いわば論理国語なるものの扱うテクストだろうが
言語そのものがメタファーであり
定義さえもそこから自由ではないことからいえば
(数式でさえも単なる論理だけでできてはいない)
本書で問われている文学テクストの翻訳論は
実用的なテクストと無縁ではないだろうが
本書ではそれに関しては言及されず
「文学テクスト」なるもののみが扱われている

本書の視点では
翻訳によって伝えようとするのは
形式ではなく「内容」である

文法や構文形式の異なる言語間において
形式を主に伝えることはできないからである
よって逐語訳は文学テクストにおいては成立しえない

本書の基本的な考え方は以下の通りである

「現実の中で生きている人間は、
書かれたことば、話されたことばそのものを
伝え合っているわけではない。
それを包み込む、意味の充満した大きな空間」である
「意味空間」においてコミュニケーションを成立させている

それゆえに
「翻訳で起きていることは意味の伝達」であって
「翻訳の理論はこの公理をもとに展開されなければならない」

本書に記載されている「図:翻訳の「三角形」」で
表されているように

「原テクストの表層とは関係なく、
それ自体が別の言語・文化環境の中で
原テクストとして機能しうるものを作るのが
翻訳という行為であり、
そうしてできあがったものが翻訳されたテクスト」である

つまり「訳テクストは、原テクストと同じ
「意味」を表していなければならない」ということである

そのことからいえるのは
本書第二部の「翻訳の実例を見る」
において示唆されているように
文学テクストは映像をはじめ
ほかのメディアへの「翻訳」も
移された表現が原テクストと同じ「意味」を
表し得ているとすれば「翻訳」可能だということである

しかしAI翻訳の可能性ということでいえば
実用的テクストを含めある程度可能ではあるが
「絶対にAIに翻訳できないテクストが
存在し続けると断言できる」というのは
AIには膨大なデータベースを背景にした
アルゴリズムが進化することはできるだろうが
そこには「意味空間」が存在し得ないからだといえる

さて本書でいう「意味空間」という観点からいえば
わたしたちが行っている言語をふくむ
さまざまな「表現」はすべて
それぞれが有しているその都度変化しつづけている
「意味空間」からの「翻訳」であるということもできる

そのように「翻訳」されたものを他者に伝えるときにも
その他者はじぶんのなかの「意味空間」において
それを「翻訳」して受けとっている

「意味空間」ということでいえば
まったく言語を共有していない場合にも
なぜか相手の言っていることが
そのまま伝わってくることがあるが
(おそらくだれにでも経験があるのではないか)
それは「言語」をほとんど介さないままで行われる
「意味空間」の「共有」ということではないだろうか

■山本史郎『翻訳論の冒険』(東京大学出版会 2023/9)

(「はじめに」より)

「なぜ「文学の翻訳論の冒険」ではないのだろうか。その理由は単純だ。「翻訳論」という学問が対象とするに値するテクストは唯一「文学テクスト」のみである、というのが本書の強い主張であるからだ。すなわち、本書にとっては「文学テクスト」以外のテクストを扱う「翻訳論」は存在せず。「文学の翻訳論」という表現はいわば同語反復なのである。ただし、この「文学」という語の意味は、いわゆる「文芸」ではない。本書の「文学」は、通常の意味から大きく逸脱している。まさに本書が「冒険」である所以である。」

「この本で私は人間の意味理解をモデル化するために、「意味空間」という考え方を提唱した。(・・・)この語は私の造語で、人間が発話するときに心の中に生じている状態を表そうとしている。この概念を、私は「作業仮説」として提唱している。それによって言語使用なり翻訳なりの精神活動がうまく説明できるなら、概念として成功しているといえるだろう。本書はその検証の場である。」

「2023年になって、にわかにAIが私となっている。もう明日にも、AIが人間の頭脳にとってかわるのではないかという期待と恐れが世界中に渦巻いている。
 翻訳はどうだろう? AIによる翻訳、すなわち自動翻訳の歴史はコンピュータとともに古い。当初は構文解析と語彙の置き換えが研究の中心だったが、コンピュータの性能の向上とともに、大規模データベースを基にしたマッチングと自動学習のアルゴリズムの研究へと変わった。これによってすでに、一見文脈をも考慮したかのように見える、すぐれた翻訳すら可能となっている。この流れの先にはすべての翻訳がAIによってなされる時代がくるのだろうか? 
 実用的なテクストについてはイエスである。だが、そのような事態となっても、絶対にAIに翻訳できないテクストが存在し続けると断言できる。それはどのようなテクストだおるか? なぜAIに翻訳できないのだろうか? そのような問いにも、本書は答えようとしている。そして結局のところ、それこそが「翻訳論」の最終的に目指すゴールなのである。」

(「I 翻訳になぜ理論が必要か」〜「06 形か意味か(2)――日本の「逐語訳」」より)

「翻訳はいったい何を表現するのだろう? 第一義的に何を伝えようとするのだろうか?
 この疑問に対して、3つの答えがありうる。

 1.言語に内在する型式
 2.言語が表現している意味
 3.形式と意味の両方」

「「意味」を考慮の外におく翻訳は考えられないということになり、答えは2か3でなければならない。」

「日本語と西欧語の翻訳で、本来の表現意図には含まれていない言語そのものの文法構造の影を露出させてしまう逐語訳は、余計な情報を組み込んでいるという理由で、不必要に類似性を損なう翻訳であるというのが、理性的な評価でなければならない、」

「よって日本で翻訳法を考えようとするなら、「単純な形での」形式の対応などあたまから存在しないことは自明なのである。意味の対応を問題にする以外の選択肢はない。そこから出てくる結論は唯一つ、日本における翻訳研究は、翻訳は意味のみを伝達するという認識を出発点としなければばならないのである。」

「翻訳で起きていることは意味の伝達である。翻訳の理論はこの公理をもとに展開されなければならない。」

(「I 翻訳になぜ理論が必要か」〜「07 そもそも、意味とは何だろう」」より)

「はたして、抽象的な命題を抽象的なまま「理解」することなんて、できるのだろうか? そんな説明はまやかしではないのか? ほんとうは、これまでの経験で蓄積された記憶に基づく近似的な映像を頭に描いて、はじめて理解というプロセスが成立しているのではないだろうか?
 「純粋な概念」なるものは存在するのだろうか? それは思考のための仮構ではないのか? 点や線と同じく現実世界には実質を持たないモノ、観察しようとすると、その視線によって影響を受けてしまい、もとの状態から変化してしまうモノ。目を向けたその瞬間にモノは意味を帯びる。我々は意味を帯びたものしか「見る」ことができない。
 自然は真空を嫌う。」

「何年か前から、私の心には「意味空間」という言葉が浮かんでいる。言葉と、まだ言葉になっていない「意味」が充満した空間のことである。それが如何なるものか粗描してみよう。
 何か文章を書くとき、じっさいに文字として記されるのは、書き手の頭の中にあった表現のうちごく一部だけだ。書かれた言葉葉、書かれなかった言葉の大海原の上に浮かんでいるようなものだと言いたいが、比喩をまぜこぜにすると混乱のもとなので「意味空間」にもどろう。
 意味空間はいわば「雲」である。発生られた言葉、書かれた言葉が核となり、そこから蒸気のように発散される無数の言葉や観念、意図や感情などに取り巻かれている。この雲はその時々に焦点化されている(すなわち発せられている)語や表現とともに、刻々遷ろっていく。どの一瞬をとっても、その全体を再現するのは不可能である。だいいち全体といっても、外周の縁はにじんでいる。しかし中心近くには、その言語に親しい者たちにとって、反射的に浮かんでいる言葉や観念がある。その中には個人の経験に基づくものも含まれるが、言語や文化と結びついている「公共」のものが大部分を占めている。」

「現実の中で生きている人間は、書かれたことば、話されたことばそのものを伝え合っているわけではない。それを包み込む、意味の充満した大きな空間、すなわち意味空間にひたってコミュニケーションを成立させているのではなかろうか?
 いや、これではまだ当たり前すぎる。もっと過激に述べておこう。コミュニケートされるのは意味空間そのものなのである。」

(「I 翻訳になぜ理論が必要か」〜「10 いよいよ、翻訳とは何だろう」」より)

「翻訳とは、任意の言語による表示(原テクスト)から溯って著者の心に生じている表示を翻訳者の心に再現し、それを別の想定の集合を持った人間に対して、別の原語を用いて表示するテキスト(訳テクスト)を作る行為である。その場合、原テクストと訳テクストは同じ命題を共有しているという意味で、類似の関係にある、」

「原テクストには、関連性の原理に基づいて書かれた明意から、推論を経て暗意にいたるプロセスが構造化されているが、それとパラレルな構造を別の言語で作るのが翻訳である。すなわち、原テクストとの対象読者は持っている想定の集合とは、まったく異なる想定の集合を持っている読者が、原テクストと同じ暗意に達することができるような明意を作ることである。」

※図:翻訳の「三角形」

「このモデルのもっとも過激な主張はこうである。すなわち、原テクストの表層とは関係なく、それ自体が別の言語・文化環境の中で原テクストとして機能しうるものを作るのが翻訳という行為であり、そうしてできあがったものが翻訳されたテクストなのである。」

「私独自の翻訳モデルを、もう一度簡潔に描いておこう。私の主張は単純そのものである。

(1)訳テクスト及び原テクストが伝えるのはセマンティック[意味論的]な意味ではなく、コミュニケーション的な意味である。
(2)翻訳論の観点から見て、原テクストのコミュニケーション的な意味、及びそれを生じさせる構造を分析・記述するための、現時点でもっともすぐれた言語理論は関連性理論である。
(3)訳テクストは独立したテクストであり、原テクスト同様に関連性理論で解釈できる構造を備えていなければならない。
(4)ただし、絶対的条件として、訳テクストは、原テクストと同じ「意味」を表していなければならない。すなわちその重要な暗意[implicare]において類似[resemble]する命題を共有していなければならない。
(5)それに加えて、基本的要件として、訳テクストの明意も原テクストと類似している必要があるが、原テクストの暗意を類似させるために必要であれば、明意は原テクストと異なるものも許容される。

 以上で論じたのはここまでだが、念のためにもう1つ。次の定理を付け加えておこう。

(5)(4)の「同じ意味の命題」には、明らかに2つの言語が関連するが、理想的なバイリンガルの言語使用者が存在し、その人物によって同一のthoughtが、2つの言語で表現されることが理念上は可能である。」

(「I 翻訳になぜ理論が必要か」〜「11 文学テクストを翻訳するということ」より)

「言語学としての関連性理論は、言語によるコミュニケーションにおいて、暗意を生じる想定の論理構造を明らかにすることが研究の中心である。私がここに提唱している翻訳理論もこれとまったく同じプロセスとして述べることができる。すなわち、文学テクストにおいて特定の言語表現がどんな暗意を生み出すのかを明らかにし、それを可能にしている想定、すなわち文学的規約[convention]や文化的要因の構造を明らかにし、それが異なる言語や異なる媒体へとどのように転移させることができるのかを研究するのが、翻訳研究のもっとも重要かつ興味ある課題なのである。すなわち意味の生成と変容、そして転移のメカニズムの研究こそが翻訳論の向かうべき方向なのである。」

(「II 翻訳の実例を見る」〜「11 映像に翻訳する――『ホビット』『チョコレート工場の秘密』『ふしぎの国のアリス』」より)

「従来は、文学作品を別の言語に翻訳することと、別の媒体に移すこと(本論の場合は映画化)は本来的に異なる種類のこととして考えられてきた。しかし、(・・・)文字もしくは映像のテクストが何を表現しているかを記述し、それが読者や観客に伝えようとしている暗意がどのように転換されているのかという観点から分析するなら、言語への転換も、映像への転換も、同じ種類の精神活動として論じることができるのである。このように考えるなら、文学作品の映画化をも「翻訳」と呼ぶことに何の問題もないのである。」

(「II 翻訳の実例を見る」〜「12 メディア間の翻訳を考える――『ジェイン・エア』から映画、児童書、語学教科書へ」より)

「すぐれた物語は次々と媒体を変えながら消費されていく。その間に、媒体の特質や、想定される読者や監訳の性質によって、原作の意味やメッセージ、あるいは物語そのものが様々に変容していく。そのような変容は、なぜ、どのような条件のもとで、いかなるメカニズムで起きるのだろうか? それを考察するのが翻訳論の使命なのである。」

【主要目次】

はじめに

I 翻訳になぜ理論が必要か
01 イントロダクション――翻訳論はなぜ必要か
02 世界にはどんな翻訳論があるのか
03 まず、翻訳を定義してみよう
04 日本の「翻訳」とは何だったのか
05 形か意味か(1)――西欧の逐語訳
06 形か意味か(2)――日本の「逐語訳」
07 そもそも、意味とは何だろう
08 意味を伝える、とは
09 関連性理論とは何か
10 いよいよ、翻訳とは何だろう
11 文学テクストを翻訳するということ
12 さあ、理論の応用に漕ぎ出そう

II 翻訳の実例を見る
01 文学翻訳の実践へ――冒険の見取り図
02 翻訳推敲のワークショップ――『たのしい川べ』
03 視点・声・心理劇を翻訳する――『床の下のこびとたち』
04 物語の意味を翻訳する――『ホビット』(1)
05 物語の仕掛けを翻訳する――『ホビット』(2)
06 仕掛け翻訳のバリエーション――スターン、ディケンズ、O・ヘンリー、トールキン、モンゴメリー
07 明治日本の天才たち――福澤諭吉、夏目漱石、森鷗外
08 短編翻訳のポイント――イエイツ、マンスフィールド、デ・ラ・メア、ブラッドベリ、ポー
09 書き換えられた『源氏物語』――ウェイリーとサイデンステッカー
10 言語が変わると物語が変わる――『赤毛のアン』『羅生門』『新聞紙』『コンビニ人間』
11 映像に翻訳する――『ホビット』『チョコレート工場の秘密』『ふしぎの国のアリス』
12 メディア間の翻訳を考える――『ジェイン・エア』から映画、児童書、語学教科書へ

あとがき

□山本史郎(やまもと・しろう)
東京大学名誉教授、順天堂大学健康データサイエンス学部特任教授。1954年生まれ。1997年東京大学大学院総合文化研究科教授、2019年昭和女子大学国際学部特命教授。『東大の教室で「赤毛のアン」を読む』(東京大学出版会、初版2008年、増補版2014年)、『東大講義で学ぶパーフェクトリーディング』(DHC、2010年)、『名作英文学を読み直す』(講談社選書メチエ、2011年)、『読み切り世界文学』(朝日新聞出版、2015年)、『翻訳の授業』(朝日新書、2020年)ほか。翻訳に『ホビット ゆきてかえりし物語』(原書房、1997年)ほか同シリーズ、ブレンダン・ウィルソン『自分で考えてみる哲学』(東京大学出版会、2004年)など。

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