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出岡宏『「かたり」の日本思想 さとりとわらいの力学』

☆mediopos3321  2023.12.21

『「かたり」の日本思想/さとりとわらいの力学』の
著者である出岡宏は(二〇一八年の時点)
「日本の伝統芸能」という授業を十年ほどやっているという

授業時間の半分程は映像資料を流しているなかで
古今亭志ん朝の『文七元結』を視聴した女学生が
こんな感想をもった

「どうしようもないことばかりだけれど、
救いが全くない世界というわけでもないのが
自分たちの生きている世界だ、
と思わせてくれるところが面白い」

「どうしようもない」
と受け止めたうえで
「救いが全くない世界というわけでもないのが
自分たちの生きている世界だ」と
「微妙な言い方で肯定的に掬い取っている」
というのである

著者はそうした肯定的な掬い取りを可能にしたことに
「芸能の力」を見ている

本書はいちばん最後を
「私たちの人生は、面白い。」
で締めくくっているが

能や狂言・歌舞伎・落語といった芸能が
現代まで受け継がれてきているのは
この世をたんなる肯定ではなく
だからといってたんなる否定でもないような仕方で
「肯定的な掬い取り」へと導くような
そんな「さとりとわらい」を
わたしたちに与えてくれているからだろう

本書の最終章では
能『江口』がとりあげられている

諸国一見の僧をワキ
遊女の長である江口の君の亡霊をシテ
とする夢幻能である

シテは「罪業深」い「流れの女」であるが
やがて普賢菩薩と変じて西の空へ飛び去る

ワキ僧は「世の外」に真理を求めるが
シテの「江口の君」は
「風雅を楽しむことのできる、
私たちのこの世界に戻ってき」て
「「波の上」に、「波」の上に舟を浮かべて
「遊女の舟遊び」をする」

「波」が象徴するように
「真理は「世の外」にあるのではな」く
「真如の「波」として現れ」る
その「波の、その連動する変化としての現象が、
そのまま私たちの真理なのである。」

「色即是空」は即「空即是色」なのだ

故に私たちは
「世の外」に真理を求めるのではなく
この世に「真如の「波」として現れ」ている
そんな生そのものを戯れることへと
ひらかれていかなければならない

この世は「どうしようもないことばかり」だが
そこに「救いが全くない世界というわけでもない」

芸能の力はそんな生を私たちに垣間見せ
「私たちの人生は、面白い。」と
生を肯定させてくれる
ときに悪という現実さえも
たっぷりと見せつけられながらも・・・

■出岡宏『「かたり」の日本思想 さとりとわらいの力学』
 (角川選書 KADOKAWA 2018/4)

(「第一章 芸能の力」〜「救いがないわけではない世界」より)

「「日本の伝統芸能」という授業を、かれこれ十年ほどやっている。授業時間の半分くらいは映像資料を流している(という意味でわりあいと楽な)授業であるのに、学生たちからの面白い感想は多く集まってくる、私としれは大変ありがたい授業である。右に、第一章の見出しとして掲げた「救いがないわけではない世界」という言葉も学生の感想にあったもので、古今亭志ん朝演ずるところの落語『文七元結』をDVDで視聴したときの、ある女学生の感想の一部である。ちゃんと引用すると、「どうしようもないことばかりだけれど、救いが全くない世界というわけでもないのが自分たちの生きている世界だ、と思わせてくれるところが面白い」というものである
 この時、この女学生は少し前に誕生日を迎えて二十歳になったばかりであった。
(・・・)
 さて、文字どおり二十歳のこの若い学生は、自分が生まれてきたこの現実の世界が、「どうしようもないことばかり」の世界であると喝破した。しかしその際、だいたいの学生なら、「どうしようもない」のあとに「だから」と続け、冷笑的に何か達観したようなことを言いそうなところを、彼女は「だけれど」と受け止めた上で、「救いが全くない世界というわけでもないのが自分たちの生きている世界だ」と微妙な言い方で肯定的に掬い取っている。私はこの学生のそのような心性に敬意を抱くとともに、「どうしようもないことばかり」が起こる現実の世界を、若い学生に「救いが全くない世界というわけでもない」と思わせることに成功した、芸能の力を改めて思った。」

(「第一章 芸能の力」〜「芸能の、善意を信じさせる力」より)

「「どうしようもないことばかり」の現実の世界のなかでは、善意や助け合いを信じる心はえてして世間知らずの人間が持つ弱点であって、助け合いなんぞを勧める言葉はむしろそんな弱点を隠す術も知らないお人好しをだます嘘かもしれない。でも、嘘として縮んでしまった私たちの善意を、私たちが改めて信じることができれば、わずかな真実が、現実の世界のなかで息を吹き返すかもしれない。
 現実の世界ではすっかり信じにくくなっているそういう真実を、志ん朝の『文七元結』は私たちに信じさせる。芸能は現実を超えたところから、現実を生きる私たちに命を吹き込んでくる、信仰にも通じる力をもっているように思う。」

「第六章 笑みのなかのおかしさ————狂言・落語(地獄絵・節談説教)」〜「救いがないわけではない世界」より)

「学生たちに志ん朝の『文七元結』を見せると、番頭の活躍に対して彼らはよく笑う。この番頭は、吉原がどこにあるかも知らない、という(嘘だとよくわかる)顔をしているのだが、主人に言われ、文七から吉原の店の名前を聞き出そうとして、店の名前が長いか短いか、「屋」がついたか「楼」がついたかと玄人らしい質問を重ねながら、「段々段々狭まってきてんだぞ」と文七w励まし、文七が「「さ」がつきました・・・・・・「さの」なんとかっていうんです」というと、「佐野槌かっ」と鬼の首を取ったように喜び、「分かりました旦那様、佐野槌でございます、京町二丁目にある立派なお店で・・・・・」と口走ってしまう。この、色気たっぷりもっていそうな番頭は、「しかし、文七の命の親を探りだそうとする正義に上気しているのである。
 博打に嵌まった長兵衛も、碁に夢中になる文七も、吉原に実は詳しい番頭も、まさに「明るくて、お人好しで、少々慌て者で、友情に厚くて、欲気も色気もたっぷりあって、そのくせ、正義感も倫理観も健全」な人たちである。そこは、ともすれば「どうしようもないこと」が繰り返されるこの世において、「誰が困るのも同じこと」という善意の助け合いを実践する人たちの世界であいr、そのことで誰かの難儀が回避されれば、そこに笑みが広がるような世界なのである。『文七元結』には善人ばかり出てくるが、とはいえ底の浅いお人好しばかりというわけではない。金を貸してくれる女将は吉原の大店の女将である。彼女は鬼になることもできるだろう。鼈甲問屋の主人ももちろん人間の残酷さを知っているだろう。長兵衛もいわば地獄を覗いた人間である。そこには、凄みある「情けは人のためならず」を知っている人たちの、その上での「誰が困るのも同じこと」という善意の助け合いの実践があり、そこに生じる親和的な笑みがある。
(・・・)
 宗教的な権威に頼らずに、人々の具体的な生活を描写することを通して、その小さな光を一つ一つ集めて描きだした親和的な笑みが背後に結晶していく。落語においては、「笑みの内に楽しみを含む」という、世阿弥が理想として狂言の笑いと同質のものが、一人一人の素語りのなかに、そうとは知らせずに実現されているようだ。
 それはまた、繰り返しになるが、不人情と無粋と吝嗇を嫌い、人情を肯定し、粋に、助け合って生きる「難しいこと」に心を砕いている人たちの心を訪ね、その潜在的な苦心を掬い取ることでもある。そのことによって、私たちは人情を肯定し、粋に、助け合って生きようとする「張り」を勇気づけられる。そのとき、私たちは「どうしようもないことばかりだけれど、救いが全くない世界というわけでもないのが自分たちの生きている世界」だということが信じられ、そのことが信じられれば、この世は確かに「救いがないわけではない世界」になるのであろう。」

(「終章 紛らわしではなく、痩せ我慢でなく、面白く。」〜「能『江口』の前半————色即是空」より)

「能『江口』は、ワキ僧による、次の「次第」で始まる。

   月は昔の友ならば、月は昔の友ならば、世の外いづくなるらん

 都を「まだ夜深きに旅立」ったワキの歩みを、連れ添うように月が照らしている。その月は、風雅に親しんだ在俗の「昔」から友であった月である。歩いても歩いてもついてくる月に照らされて、ワキは「世の外」にある真理を探して旅を続けている。
『江口』は、このような諸国一見の僧をワキとする夢幻能である。対して、シテは遊女の長である江口の君の亡霊である。この「罪業深」い「流れの女」であるシテは、しかし曲の最後には普賢菩薩と変じて西の空へ飛び去る。「世の外」にあるはずの真理を求めるワキに、遊女の変じた普賢菩薩は、それを授けるのであろうか。
 やがて江口の旧跡に着いたワキは、その地にゆかりの古歌を詠じる。

   世の中を厭ふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな

 かつて西行がこの地を訪れ、一夜の宿を求めたところ、江口の君は心ない人であったため(「主の心なかりしかば」)、それを断った、という。歌は。一夜の宿を断られた西行がその時詠んだものである。「この世を厭い捨てることは難しいとしても、たった一夜の宿さえ惜しむあなたなのですね」といった意味である。
 するとそこに、一人の女性が現れ、ワキに対して、江口の君がその時詠んだ返歌も思い起こしてほしい、といささか奇妙なことを求める。女は、江口の君の亡霊なのであった。その歌とは、

   世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に 心留むなと思ふばかりぞ

 というものである。「あなた(西行)は世を厭って出家した人なのだから、こんな仮の宿に心を留めてはいけない、という思いで申し上げたのです」といった意味であろう。
 江口の長の宿は、「名に負ふ色好みの家」である。そんな「女の宿りに、泊め参らせぬも理ならずや」とシテはいう。世俗を刷れた西行に、女の宿に〈心を留める〉ことを諫めるのは確かに理(ことわり)ではある。しかし、同時に、この江口の君が普賢菩薩と変じる一曲の趣旨を思えば、この歌における「仮の宿」とは、単に遊女の宿という意味だけではなく、私たちの生きているこの世のことでもあると思われる。それなら、普賢菩薩はここで、私たちがこの世に〈心を留める〉ことを諫めているのであろうか。」

(「終章 紛らわしではなく、痩せ我慢でなく、面白く。」〜「能『江口』の後場————空即是色」より)

「「世の外」に真理を求めるワキ僧に対して、江口の君ないし普賢菩薩は、何を語るのだろう。
 後場となり、ワキ僧の前に、川舟に乗った江口の君が現れる。二人のツレの女を伴い、「月澄みわたる水の面に、遊女のあまた歌ふ謡、色めきあへる人影」という華やかさで、「流れの女」である江口の君が、「波の上」に、「波」の上に舟を浮かべて「遊女の舟遊び」をする。シテは、「頃」が鮮やかに荒らされ、風雅を楽しむことのできる、私たちのこの世界に戻ってきたのである。」

「真理は「世の外」にあるのではない。真如の「波」として現れた、目もくらむような数々の波の、その連動する変化としての現象が、そのまま私たちの真理なのである。
 常に動き続ける「波」は、形であり、形でない。連動においてある変化の、その一瞬一瞬の姿は、二度と現れない、その瞬間における真理の現れであうる。あたかも北斎が描く「波」の如く、その一瞬の「波」の姿を留めて形として捉えるのは、生き物としての私たちが〈心を留める〉からである。
 〈心を留める〉その動きが固着してしまえば、「波」は動きから切断され、固定した物質として私たちに現れ、執着の対象となってしまうだろう。
 しかし一方で、〈心を留める〉ということがまったくなかったならば(「心留めずは」)、「波」のとる、二度と現れないその瞬間ごとの真理は見逃される。すなわち、木々や山々が、あるいは私たち一人一人がその連動のうちに作り出す一瞬の光景は見逃されるだろう。そこでは、季節ごとの花や紅葉に心を動かすことになく、誰かを慕うことも、誰かを待ってじれることも、誰かと別れるその辛さを嘆くこともない。人々の出会いや別れに心を動かすことも、吹く風に散る花や紅葉を思うことも、月雪を歌に歌う風雅もみな「つまらない」(「由な」い)ものになってしまう。
 「波」の動きを止めず、動きある「波」の一瞬の姿に〈心を留める〉からこそ、私たちの世界は面白い。誰かを慕い、じれて待ち、別れを悲しむことはこの世の面白さである。愛しい対象もあるいは自分自身もいつか「泡」のように空へと消える。その消えていく何かあるいは誰かは、いずれも愛しい(「あはれ」な)ものである。
 いずれあはれを逃るべき————。連動する変化の相においてある現れは、いずれも「あは」のようにいつか消える。にもかかわらず、だからこそ、「あはれ」である。それは「面白」いではないか。随縁真如の「波」の上に立つ普賢菩薩は、このように私たちに説くのである。
 互いに連想し合う、目もくらむような「波」の数々として現れる世界において、その時々の一瞬の姿に〈心を留め〉ながら、つまり、ちょっとだけ執着して、生きる。そこに、紛らわしという簡単な道ではなく、とはいえ白骨観のような痩せ我慢でもなく、それぞれの場所で見いだした難しさを面白く生きる、私たちの意気と張りがある。
 私たちの人生は、面白い。」

□出岡 宏
1964年、東京都生まれ。専修大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程単位取得退学。現在、専修大学文学部哲学科教授。専攻は日本倫理思想史。
著書に『小林秀雄と〈うた〉の倫理――『無常という事』を読む』ぺりかん社、『高校倫理からの哲学1 生きるとは』岩波書店(共著)など。

◎古今亭志ん朝「文七元結

 

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