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栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』/栗原康「サボる哲学リターンズ」

☆mediopos3424  2024.4.2

今の世の中は
破滅的なまでに面白い

ここでいう面白いというのは
顔が明るくなって
楽しいという意味ではない

顔面蒼白という意味であり
恐怖政治による支配が行使されているのが
あからさまであるにもかかわらず

私たちの多くはいまだに
ますます強まっている管理社会化のなかで
疑いもなく自発的服従をおこなっているから
それを見ていると顔面蒼白になるのだ

覚醒を促す声も次第に大きくなってきてはいるが
学校教育やマスメディア等による隠蔽もあり
自発的服従から目覚めることは
いまのところ難しそうだ

面白いというのには
もうひとつ意味がある

こうした切実なまでの諸現象を
現実に目の当たりにすることで
避けられない問いを持たざるをえないほどの
得がたい機会ともなっているということだ

哲学者のジル・ドゥルーズは
時間による支配のかたちが
「規律型権力」から「管理型権力」へと
転換してきているという

「規律型権力」というのは
模範的な囚人をつくっているともいえる権力だが
「管理型権力」はそれをさらにすすめて
「確たる主体もない。
いつも不安にさらされ」るようになるなかで
「それを煽り、抑圧し、操作する」ことで
「目の前に死を突きつけられて、
おのずと服従してしま」わざるをえない権力である

「二〇〇〇年代初頭から、
よくセルフマネジメントということばがつかわれ」
「汝、何者かであれ。この社会では、
たえずそうしなければならないと命じられ」
「これがわたしだと表現しなければならなくなっている」

「目標をたてて、成果をだしてレベルアップ。
いままでの自分を否定して、
よりよい自分へと自分を高める」ため「自己管理」をおこなう

「それがセルフマネジメントとむすびついた瞬間に、
統治のひとコマに変わってしまう。
自分の商品価値を自分であげる。なりたいわたし。
すべての行動がひとつのアイデンティティに収斂されていく」
という

昨今の自我病的なありようや過剰な承認欲求も
その自己管理+セルフマネジメントへの衝迫によって
それそのものが「管理型権力」へと回収されてしまうのである

「自分の評価につながるかどうか、
相手の利益になるかどうか、成果がだせるかどうか。
はじめから、そんなことばかりを意識させられる。」

そこからどのようにして抜け出せるか

無支配としてのアナーキズムをうたう栗原康は
「サボる哲学」で「労働の未来から逃散せよ」という

政治をふくめ「権力」はいわずと絶大である
しかもその「権力」に自発的服従する人のまえでは
なすすべもなかったりする
「みんなのためにワクチンを打とう」というのもそれ

そんな権力に絶望するのは容易いし
それなりに「声をあげる」というのもなくはない

しかしそれで権力がアップサイドダウンし得るかどうかは
自発的服従をふくめて考えるとお先は暗い

せめてというわけではないが
栗原康『サボる哲学』で紹介されている
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』による
「笑殺の論理」がどこか穿っている

「アメノウズメの意図はあきらかだ。友か敵かではない。」
「政治権力を笑い殺す。」

「その権力に真正面からたちむかっても、
より正しい思想の体系をつくりだしてしまうだけのことだ。
だが笑いはちがう。とつぜん権力に支離滅裂を突きつけて、
正しさの体系そのものをくずしてしまう。
笑いとともにズッコケて、なにと闘っているのか、
それすらもわからなくさせてしまう。別の局面へいざなわれる。
善も悪もない。友も敵もない。
権力の土俵がくだけちる。アメノウズメの笑殺だ。」

というのである

権力のアップサイドダウンでは
結局のところなにも変わらないかもしれない

ヒーローがでてきて悪を叩き潰す
というような勧善懲悪の結果
そこにまた新たな権力が別の課題を持ち込んでくる
という事態を招いてしまいかねない

重要なのは「別の局面」へとシフトすることではないか
その「別の局面」をどうイメージできるかが課題となる

今の世の中が「面白い」というのは
その問いにむかってだれもが
生死をかけてひらかれているからだ

顔面蒼白になりながら
とてもスリリングに生きられる時代である

■栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』
 (NHK出版新書 2021/7)
■栗原康「サボる哲学リターンズ」(NHK出版「本がひらく」連載)

**(栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』〜「第1章 笑殺の論理」より)

*「わたしがいま、だいじだと思っているのは笑いである。(・・・)友人にすすめられて鶴見俊輔『アメノウズメ伝』を読んでいたのだが、この本にでてくる笑いの思想がほんとにおもしろい。

(・・・)

 アマテラスは天の岩戸をスッとあけて、外の様子をのぞきみる。おもしろすぎて笑いころげる。ブヒャー、キャッキャ。そのスキをついてみんなでアマテラスをひきずりだし、踊って笑ってめでたし、めでたし。そんなはなしだ、むろん物語の主役はアメノウズメ。正しい神、アマテラスがスサノオを悪にみたてて、人類にカタストロフを突きつけた。敵を殲滅。そしたらアメノウズメが卑猥な躍りを披露して、全世界をズッコケさせた。敵がなければすなわち無敵。友か敵か、その政治を解体してしまったのだ。

(・・・)

 アメノウズメの意図はあきらかだ。友か敵かではない。友につぐ友、そしてさらなる友、友だけだ。政治権力を笑い殺す。鶴見はこういった。

  権力は、自分の思想を(その時その時に)ひとつのとざされた体系としてまとめてしまいたがる。これに対して、それをやわらげて、経験の場に近づけたいと思うものは、笑いをさそってその体系をくずし、支離滅裂な形にかえして、別の局面へとさそう。

 およそ権力というものは、これが正しいというひとつの体験をつくりあげ、悪をたたき、そしてさらなる悪をたたき、みずからの正しさを証明していく。その権力に真正面からたちむかっても、より正しい思想の体系をつくりだしてしまうだけのことだ。だが笑いはちがう。とつぜん権力に支離滅裂を突きつけて、正しさの体系そのものをくずしてしまう。笑いとともにズッコケて、なにと闘っているのか、それすらもわからなくさせてしまう。別の局面へいざなわれる。善も悪もない。友も敵もない。権力の土俵がくだけちる。アメノウズメの笑殺だ。」

**(栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』〜「第7章 懐かしい未来の革命を生きろ」より)

*「なぜ中動態がだいじなのか。わたしはそこに無支配(アナーキー)がある、アナキズムがあるとおもっている。これはアナキストのマレイ・ブクチンがいっていることなのだが、およそ古代国家が成立して以来、人類はその支配秩序を肯定することに躍起になってきた。そして、その土台となってきたのが能動態だ。能動態をベースにした、人間の認識枠組みそのものだ。あらゆる物事を主語中心で考えていく。あらゆる主体がみずからの意思に従って、身のまわりのものを対象として把握する、所有する、使用する。それができる、あたりまえだとおもいこんでいいく。

 ほんらい、人間は人間を所有などできないはずだ。たとえば、友だちを所有しているといったらちょっとおかしい。それは友だちじゃありません。だが、国家を前提にものごとを考えるとはなしは変わってくる。人間の思考様式が変わるのだ。」

*「なにがおこっているのか。時間だ。時間による支配のかたちが変わってきているのだ。フォーディズムからポストフォーディズムへ。一九九〇年代、哲学者のジル・ドゥルーズはこれを「規律型権力」から「管理型権力」への転換だといっている。規律型というのは、まえにはなしたミシェル・フーコーの規律訓練だ。監獄でも学校でも工場でも、人間を長期間おなじ場所に閉じこめて標準的な身体にしつけていく。監禁だ。逸脱すれば懲罰をくわえ、服従すれば報償をあたえる。その評価が高ければたかいほど、社会的にみとめられる。社会復帰もできる。出世もできる。

(・・・)

 模範的な囚人になれ、学生になれ、労働者になれ。あかるい未来を手にするために、みずからに意思ですすんで従う。自発的服従だ。しかし、それがいまあきらかに変化してきている。

(・・・)

 規律型権力の「監禁」は「鋳型」みたいなものだった。時間はかかるけど、いちどあなたはこういうひとですよと、主体の型をつくってしまえば、あとはおなじことをやっていればいい。だが、いまはそうはいかない。

(・・・)

 じゃあ、なにがあるのか、ノーフューチャー。(・・・)ノーフューチャーは利用される。国家や企業に都合のいいようにつかわれてしまうのだ。

 確たる主体もない。いつも不安にさらされる。いまの権力はそれを煽り、抑圧し、操作する。管理型権力だ。国家は社会保障費を削減するだけでいい。企業はかるくリストラするだけでいい。みんな意識していなくても、いやおうなく将来に不安をおぼえる。さらに関係ないはずなのに地球温暖化、原発爆発、コロナの大流行でアポカリプスを突きつける。絶対的恐怖だ。判断停止。明日などない。いましかない、現在主義だ。いま死ぬかもしれないと極度の緊張状態を強いられる。すると考える余地もなく、おのずと駆り立てられてしまうのだ。結果などどうでもいい。生きのびるためになんでもやれ、いまこの瞬間におまえの人生を凝縮しろ。

 ほんらい時間をかければあれもできたはずなのに、これもできたはずなのに、そうした可能性は破棄される。

(・・・)

 未来がないからこそ極度の未来志向になる。確たる主体がないからこそより強固な主体がたちあがる。これほど国家にとって、企業にとって、便利な人間たちはいないだろう。(・・・)明日などないのだから。いちど強烈な死の恐怖に囚われると、将来から自由になるのではない。過度に将来に囚われるのだ。時間による支配が徹底される。考える余地はない。無意識にそうしてしまう。これを「自発的服従」といってもいいかもしれないが、ここでいう「自発」は自分の意思ではない。自ずとだ。目の前に死を突きつけられて、おのずと服従してしまう。管理型権力ってなに。ノーフューチャーは利用される。」

**(栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』〜「第10章 機械を破壊し、機械になれ」より)

*「人間が商品世界で序列化される。だれだってまわりによくみられたいものだから、どんなに雇用主に酷使されても、がむしゃらにはたらいて、ブランドで着飾って、よい車にのって、高いレストランでお食事だ。エンジョイ。自分がなにをしたいかではない。なにがほしいかではない。カネがほしい。生の直接性が剥奪される。自律の力が根こそぎにされる。ほんとは暴力的にそうさせられているだけなのに、自分の意思でそうしているかのようにおもわされる。商品世界だ。みんな奴隷だよ。」

**(栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』〜「おわりに」より)

*「わたしは社会契約というのを交わしたおぼえがない。契約書でもあったのか。まえにそんなことを書いて、大人になれよと言われたことがあるのだが、じゃあ、大人になるとはどういうことなのか。(・・・)一六世紀からイギリスではジェントリとよばれる大地主たちが、羊牧でもうけるために農民の共同地を強奪し、それを自分のものだといって所有権を主張した。囲い込みだ、

 もちろん、そんなのおかしいと抵抗がやまない。羊を盗め、ジェントリの館を焼き討ちにしろ。ならばと、それを絶対的な権力でたたき潰す。社会契約だ。われわれの所有権を保護するために、われわれの政府を樹立しよう。そういう契約をみんなで交わしたことにする。公権力の名のもとに警察組織をたちあげて、財産の侵害者たちを血祭りにあげろ。とりしまりだ。窃盗罪は死刑。それが近代国家の本義である。

 しかもこれがきっかけで、賃労働の土台が築かれている。(・・・)カネがなければ生きていけない。カネをくれる雇用主に絶対服従。人間の人間による収奪だ。いちろ雇われたら奴隷のようにはたらかされる。

(・・・)

 しかし不思議なのは、あきらかにひどいことをやっているおに、いざ政治思想として社会契約論が語られると、無条件によいものだとみなされてしまうということだ。所有権は神聖なり。

(・・・)

 だから、その大前提を疑おうとすると嘲笑の的になる。おまえ、大人になれよ。」

******************

**(栗原康「サボる哲学リターンズ」〜「第1回 センチメンタルですがなにか~大杉栄の監獄体験」より)

*「いったいなんのはなしをしているのか。相互扶助だよ。アナキストが好んでもちいることばだ。支配関係のないひととのかかわり。上も下もない、右も左もない、ただまっすぐにたすけあって生きてゆきたい。それだけだ。
その根っこにあるのは無償性。自分のためでも、他人のためですらない。逆になにかの利益のために、損得にとらわれた瞬間に、かならずヒエラルキーがうまれてしまう。どれだけうまくできたのか。こいつはつかえるかどうか。自分のおこないが優劣のはかりにかけられるのだ。」

*「この文明社会では、なにをするにも主体と客体をわけて考えることになっている。自他の区別をはっきりとさせる。たとえば、わたしってなに? 自分をとらえるにしても、精神と肉体をわけて考える。

 わたしの本体である精神がただの物質である肉体をうごかしている。自分の体を客体とみなして、モノとして所有するのだ。わたしはわたしの体をいかようにでも処すことができる。セルフコントロール。自律した個人だ。

 所有というとまだあいまいさがのこるので、はっきりさせておこう。所有とは、自分の身のまわりのものを自分だけのものにすることだ。排他的に独占することだ。自分だけはなにをしてもかまわない。どんなに酷使しても、破壊してもかまわない。いいかえてみようか。支配だろ。

 この考えかたがあらゆるものに適用される。もともと自然界の一部でしかなかった人間が自然や動物をモノとみなして支配していく。精神の宿らぬ物質ならば、いくら所有してもよいのである。あげくのはてに、おなじ人間の肉体すらも所有していく。奴隷だ。いちど所有権を主張すると、なにをしてもかまわない。
 環境破壊でまわりがどうなろうとしったこっちゃない。動物を工場で製造するみたいに大量生産してもおかまいなし。奴隷たちがムチをうたれ、悲鳴をあげてもイッツオーライ。どれだけたくさん所有できるのか。それが優劣の尺度なのだ。

 こんなクソみたいなことを前提としているかぎり、いつまでたっても所有するのかされるのか、支配するのかされるのか、上か下か、どちらかでしかありえない。いまの資本主義もおなじことだ。労働者は会社に食わせてもらう代わりに、自分の肉体とそのはたらきをモノとみなしてはたらかされる。賃金奴隷だ。会社に所有されるのだ。資本家が労働者を一方的に支配している。
 だいたい、なんでもかんでも所有物とみなして、自分のため、だれかのために役にたつかどうかで判断するなんておかしいじゃないか。会社のために役にたつかどうか。人間が目的のための手段になる。道具になる。人間をなめるな。」

**(栗原康「サボる哲学リターンズ」〜「第2回 注文できない料理店」より)

*「資本主義の価値はそれ自体で力をもっているわけではない。もっとほしい。もっと稼ぎたい。それがのぞましいとおもって生きる。そうねがって、みんなで足並みをそろえて、おなじ道をあゆんでゆく。労働者としてのわたし。消費者としてのわたし。その主観を経由して、その行為をとおして、はじめて価値は力をもつのだ。

 注意しないといけないのは、がんばって資本主義を批判するひとほど、それがどえらい巨大な怪物のようにみなしてしまいがちということだ。その秩序からは逃れられない。その外側にでて思考することなどできないと。批判しているうちに、資本主義が絶対的なものになってしまう。いけない。
 だからグレーバーはこの点がだいじなのだという。人間は建物でも社会でも、なにかをつくろうとするとき、はじめから全体を想像することができる。想像上の全体性だ。その想像を生きることで、たえずあらたに社会の全体性がつくりだされていく。逆に、完成された全体性など存在しないのだ。

 ということは、ひとはつねに革命的な潜在力を手にしている。だれもが社会的想像力をもっているのだ。ふと足並みをみだし、横道に逸れた瞬間にその力はうまれている。どんなにちっぽけな力だったとしても、そこにはあらたな価値をつくりだす創造的なエネルギーが秘められている。

 だいじなのは、この創造的なエネルギーは個人の力でうみだせるものではないということだ。かりにそのひとが平等な社会をめざしていたとしても、あれかこれかと損得を考えて、よりよい社会を合理的に選択するというのであれば、そういう利己的な個人が再生産されてしまうだけだろう。

 こういうのを疑似資本主義的といってもいいだろうか。もじどおりカネをもうけるんじゃなくても、なんでもかんでも、どれだけ利益になるかで行動してしまう。すみません、しあわせはおいくらですか。
 あらたな価値がうまれるとき、かならずその「個人」が突破される。なにが自分でなにが利益なのかもわからなくなるような集団的な力がうまれている。」

**(栗原康「サボる哲学リターンズ」〜「第4回 己を打ちすて、たのしいをとりもどす」より)

*「強者が弱者を支配する。それが世界の絶対真理であり、普遍的な価値なのだ。弱いものはなにをどうあがいてもムダである。だったら、いちど現にあるものをすべて破壊するところからしかはじまらないのではないか。よし、絶滅だ。(・・・)
 ならば、いまここで全人類が絶滅する。そのつもりで生きるのだ。いましかない。いまがすべて。いまだけを永遠に繰り返していてもいい。そうおもえるような行動にうってでるのだ。」

*「能登半島地震のニュースをみていて、あらためて統治の過剰を感じたからだ。いや、政府はなにもしていないんだよ。いざ災害がおこっても、道がわるいからといってほぼなにもしなかった。やる気すらみせなかった。
 でも、ならばとボランティアが災害支援にはいろうとしたら、ムダにひとがおしかけたら避難民の迷惑になる、自粛しろという。はにゃ? そんなふざけた制止はふりきって被災地にはいり、炊きだしをした政治家もいたけれど、人気とりのパフォーマンスはやめろといわれて猛バッシング。もうめちゃくちゃだ。

 政府のいうことはなんでも正しい。上からの命令には従いましょう。自主性をおもんじるはずのボランティアまで、そうしなければならないとおもわされている。というか、ボランティア的な活動ほどそうさせられるというべきか。政府の顔色をうかがって、自主的にうごく。いまそういう隷属的な自主性というか、きなくさい自己統治の言説がとぐろをまいているんだとおもう。」

*「おもえば二〇〇〇年代初頭から、よくセルフマネジメントということばがつかわれてきた。匿名のアナキスト集団、不可視委員会いわくだ 。「I AM WHAT I AM」、それがいまの統治をものがたっている、と。「わたしはわたし」。汝、何者かであれ。この社会では、たえずそうしなければならないと命じられている。これがわたしだと表現しなければならなくなっている。
 毎日、SNSで発信して、自分のアイデンティティをかっちりとかためる。そのために適度な教養を身につける。リベラルな装い。ボランティア。SDGs。禁煙。筋トレ。目標をたてて、成果をだしてレベルアップ。いままでの自分を否定して、よりよい自分へと自分を高める。自己管理だ。
 その行為のひとつひとつがわるいわけじゃないよ。だけど、それがセルフマネジメントとむすびついた瞬間に、統治のひとコマに変わってしまう。自分の商品価値を自分であげる。なりたいわたし。すべての行動がひとつのアイデンティティに収斂されていく。「I AM WHAT I AM」。やればやるほど、自分の殻に閉じこもっていく。」

*「セルフマネジメントの自主性とはなにか。わたしはわたし。そういえばいうほど、国家や会社にへりくだるわたしになってしまう。上から命じられたことばかりが気になって、自分でものを考えられない。自主的にうごこうとすればするほど、権力者に都合のよいようにつかわれてしまう。
 どうしたらいいか。まずはたのしいをとりもどそう。だって、ずっと自分の将来をみすえて、そのためだけに生きるだなんてつまらないじゃないか。うまくいってよろこんで、失敗して怒ってかなしむ。ただ、それだけだ。(・・・)
 自分の評価につながるかどうか、相手の利益になるかどうか、成果がだせるかどうか。はじめから、そんなことばかりを意識させられる。そりゃ、なにもできなくなるよね。たぶん、ひとがほんとうにひとに手をさしのべるとき、そんな発想はヒョイと放り投げてしまうものなのだとおもう。」

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