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光岡英稔・名越康文『感情の向こうがわ/武術家と精神科医のダイアローグ』

☆mediopos2795  2022.7.13

韓氏意拳で知られる武術家・光岡英稔と
精神科医・名越康文の対話である

そこに尹雄大の確かな編集・構成力が加わって
ずしりと重い問いかけに満ちた一冊となっている

ある意味ではハナムラチカヒロ
『まなざしの革命/世界の見方は変えられる』の
武術をベースとした身体観革命のような一冊

「まなざし」よりもさらに深く
「物」の「因」である「事」の出来を
根底から問いなおす身体性に迫ろうとしている
「世界の見方」を生む「因」からのアプローチである

私たちはふつう物理的表面的な身体を
現実の身体としてとらえているが
身体にはそれ以外にもさまざまな「層位」が存在していて
知的な認識では捉え切れない深いところに
過去の身体と経験が存在している

私たちはみずからに「内蔵された空間から時が生じ、
時から時間が生じ、それらの結果として
認識できる時間軸を用いて」
「概念や観念で現実を捉えようと」するが

それらの「経験の源にある「因の因」としての空間は、
認識できないところにあり、そこで経験されることは
概念化や観念化できない真実、真理としてしか存在」しない

「その「因の因」の空間から
立ち上がってくる経験」が問題なのである

武術などで「型によってもたらされた経験」が重視されるのは
その「型」のなかには
「何年、何百年もの経験値と知恵が内包されている」からである

型などを変えてはならないというのは
その型を生み出した者の経験そのものが
型のなかに内包されているにもかかわらず
そこには意識は介在できずコントロールもできず
「自我や意識の経験ではわからない」からである

武術はそうした「型」を継承し
ときにそれを新たなものにする者によって
継承されてゆくことになるのだが

ここで重要なのは
現代のような「物質還元主義化した身体観」のもとでは
そうした「「因の因」の空間から立ち上がってくる経験」が
肉体としての身体としてしか「体認」できなくなることである

ほんらいは「無から事へ、事から物へ」というように
「〝もの〟と〝こと〟の関係性を精妙に」感じ観じられる世界を
物の世界としてとらえてしまうことで
逆に私たちの内面の観念や概念さえも物化してしまうことになる

どうしてこんな世の中になってしまったのだろう
というありきたりな表現さえしてしまいたくなるような
嘆息が漏れてしまうばかりの昨今だが

現代はほんらい物資的な物ではない身体を物質的なものとみなし
そうした「共同幻想」が浸透してゆくことで
それに応じた社会が出来してゆくことになる
「テクノロジーによる事の物化」によって
「自己情報機械ペット化」した人類へと向かっているのだ

対談の最初に光岡英稔氏が語っているように
「コロナ騒動における人々の反応や行動は、
人類の知性の劣化を物語っている」
さまざまな政治的なバイアスに対しても同様である

そのためにも「共同幻想に生きない」ことが重要になる
「共同幻想」をつくりだしているものに目を向けるためにも
みずからの身体のさまざまな「層位」を意識すること
「物質還元主義化した身体観」から自由になることが重要になる

■光岡英稔・名越康文
 『感情の向こうがわ/武術家と精神科医のダイアローグ』
 (国書刊行会 2022/6)

(「第一章 コロナが明かした時代の無力さ」より)

「光岡/本質を理解するにはベースとなる知性が必要です。でも、それを養う社会構造と社会形態がもう既にないでしょう。コロナ騒動における人々の反応や行動は、人類の知性の劣化を物語っている。
 でも、水面下にあったものが浮き彫りになっただけで実はそもそもそうだった。人間はナチスや大日本帝国、文化大革命の所業から何も学習しなかったし、できなかった。ただ、状況や形態を変えてホロコーストと同じことをしている。このようにして知性の劣化があからさまになったから、「本当に人間には知性があるのかな」って疑い始めました。

名越/まったくそう。甲野善紀先生はそのことについてめちゃめちゃ怒ってる。それはもうすごい。でもずっと怒っているから、甲野先生には何度か「大衆を信じていたんですね!」と言ったことがあります。甲野先生の怒りって「こんなはずじゃない」なんですよ。でも実はそうじゃなかった。「こんなはず」なんです。

光岡/「こんなはずじゃない」は、あくまで感情論ですね。「大衆はそういうものではないはず」というのは、ある意味、人類の知性への期待があったのでしょう。

名越/知性について言うならば、リベラルな知識人と呼ばれている人たちが壊れたAIのようで、その場その場の回答を出していますね。」

「光岡/いまの社会状況を見ながら思うのは、武術的に状況を語るなら、対処法としては「共同幻想に生きない」ということはできるかだと思います。死生観や生命観、知性観だけでなく結婚観とか恋愛観とかもそうで、コロナによってさまざまなマトリックスが崩壊しつつあります。大衆はテレビやメディアで見たこと聞いたことで幻想を膨らませて「こうでないといけない」とかルールを作って強要され、無自覚に共有していくわけです。ただ、武術家は本来ならそちらがわではない。」

(「第三章 原初を失った人間の前提を理解する」より)

「光岡/ひとつ言えることは、その個の身体から乖離した概念と精神の世界で作り出されているものの違いがあったり、身体観が異なる層位を持っていたりしても、私たちの影響するのは物質そのものではないこと。その感覚経験を左右しているのは個の体の異なる身体の層位や本能、意志、思想とか精神とか、そういったさまざまなファクターが影響している。そうした私たちの在り方や集注の置き所が外の世界とのコンタクトから何を経験するかを決定付けています。
 これは〝特定の物質による直接的な影響〟だけでは決して語れないし、同時にその事物との遭遇がなければ、そもそも〝その出来事〟は起こらなかった、そういった意味では「その物との遭遇」は〝わかりやすい一ファクター〟ではあります。従って、それも私たちの在り方、心身の状態、集注の向け方によって感覚される経験や結果的現象は変化していきます。
 私たちの頭が悪いのです。AだからBといったわかりやすく物事を解釈することが頭の良さだと勘違いしてしまう。そんな頭の悪さを兼ね備えてます。」

(「第六章 強さと弱さ」より)

「光岡/道具に関する人間の固有性は道具を多重構造化させたことにある。これを人間の特徴のひとつとすることはできます。
 たとえばお茶を飲もうとしたら、お茶を淹れるための急須、水を沸かす薬缶、お茶を栽培する農家が必要とか多重構造になっていく。また、急須ひとつ作るにも土、そして窯が必要で、さらには窯を作る道具と素材や、その窯を作る道具を作るための道具や土を掘り起こす道具とその道具を作るための道具などが必要となります。Aを作るためのBを作るためのCといったようにどんどん多重化させていく。この道具の展開が私なりの研究では、言語の多重構造化と関わっている。つまり道具と言語の関係には親和性がある。
 人類史で道具が多重構造化していくのと言語が複雑化していくのは相乗的で、というのはAを作るためのBを作るためのCという構造は、内面的な時間と空間の形成がなされて可能になった。それだけの時空の幅が許されたから経験と言語が多重構造化して行き、増えすぎて複雑化していったんだと思う。」

(「第七章 自我と個性と法則性」より)

「名越/日本人の自我が弱くて外国人が強いというのは嘘やね。自我の構えの問題。
 光岡/いや、私は「自我の流派」と考えるんですよ。(…)
 アメリカ流の自我の源流があり、しかもアメリカ流テキサス派がありカリフォルニア派がある。
 (…)
 まず自我という括りが粗いですよね。エゴというのもそう。文化性によってエゴの発露の仕方も違う。ただ発露する前の段階で共通しているところはあるけれど。」

「光岡/何かを習得するとなったときにまずは個性が大切。個性を通り越したところにその人の中の法則性、普遍性に近いものがある。でも、それもまだ中途段階です。
 というのはいろんな流派をやっていく中で、それでもこれが一番普遍性なのかなという次の層に潜っていけるわけです。けれども個性と普遍性は必ず相反する。かといって個性を排除して普遍性を求めると矛盾する。自我を踏まえてそれを通り抜けたところに普遍性を求める。
 いまの人は個性を捨てて普遍性か、あるいは普遍性を捨てて個性を求めるかになっている。個性を貫いて普遍性にいくところを観ないと。昔の人はそういう感性があったと思う。

(「第八章 感覚の向こうがわ」より)

「光岡/何かを学び、それを教え伝える際、リカージョン(再帰性)が欠かせません。ただし、私の教伝においては、通常とは違うリカージョン、いわば光岡式リカージョンが必要なので、それを定義したいと思います。
 一般的にリカージョンは時間軸で説明されています。私の考えではこうです。通常のリカージョンと同じく時間の存在は認めています。ただし、それを時間が生じた空間に還元していきます。いわば身体の経験の異なる層位へと向かう内面的な時空間のリカージョンです。
 身体の層位のより深いところ、知的な認識では捉え切れないところに過去の身体と経験が存在しており、それよりは浅い層位において物理的、表面的に捉えられるところを私たちは「現実性」と呼んでいる。そのような事例がほとんどでしょう。
 身体の規範を内面的な時空間に還元する必要があるのは、私たちの内面的な空間の層位から時が、さらにはそこから時間が生じ、その経験が私たちに内蔵されているからです。
 つまり人間に内蔵された空間から時が生じ、時から時間が生じ、それらの結果として認識できる時間軸を用いて、私たちは概念や観念で現実を捉えようとしています。
 一方で内蔵された空間、時、そして時間から生じた経験の源にある「因の因」としての空間は、認識できないところにあり、そこで経験されることは概念化や観念化できない真実、真理としてしか存在しません。その「因の因」の空間から立ち上がってくる経験があって初めて真実や真理を導き出そうとする働きも自発的に生じるのです。」

「光岡/型によってもたらされた経験というのは、これまで型を稽古してきた人の経験にも連なっています。その人たちの周りの経験もここにあるわけだし、ここから次の瞬間に生じる経験もある。この経験の中に身体性がある。
(…)
 気の世界や客体の世界は感覚できない世界です。型を通じて現象を導き出すことはできるけれど、「そこに意識が介在できないこと、コントロールできないこと」と「本能的な感覚機能でも理解できないこと、自我や意識の経験ではわからないこと」を受け入れておく必要があります。
 あと型、式に関しては何年、何百年もの経験値と知恵が内包されているので、その経験値に沿ってやると型、式は他力となり味方してくれます。」

(「おわりに 光岡英稔」より)

「 物は事の果なり
  事は物の因なり

人の世においての〝物〟とは、人の手が加えられ、人の行為が〝事〟として介在した物を〝もの〟と呼ぶ。
 また、自然界にも物はある。ただ、その物は事の因が常に物の内面に働き続けている物である。そして、人は、その〝物〟に形を観る。
 〝こと〟から〝もの〟へ、そして「物の果」として表れてきた形があり、それを形成した働きを遡り観ながら、その過程の〝こと〟と、結果として生じた〝物の形〟のつながりを知る。そこに有形無形の世界の意味は存在する。

人において、物や形から事を汲み取る術あり。それ、形と意の関係や内と外の関係における格物致知となるや否や。
 人の行いは物を作り出す。人の手が〝事〟として加わり〝物〟が其処に出来上がる。様々な人の気持ち、感情、感覚、心や意、思い、想い、考えがそこに介在し、行為となり、そこに物が出来上がる。

物には事の果あり
  事には物の因あり

その人の手の加え方に違いがある。つまり、それは事に違いであり、その事の違いにより如何なる〝物〟がそこに立ち上がってくるかが決定づけられる。」

「世の中には〝物は所詮は物〟と言う人もいるが、それは物質還元主義化した身体観を無自覚にも内包している人の言葉であり、そのような物の扱いをした人がした場合には確かに〝物はただの物〟になってしまう。そのような感覚の持ち主は「無から事へ、事から物へ」と至るまでの移ろいを大会、体認できないのかもしれない。
 それは、身体を肉体肉塊とし、私たちが自身を物化し初め肉の塊のように扱い始めたことにも通じてくる。本来なら〝もの〟と〝こと〟の関係性を精妙に誰もが感じ、観て撮れる世界があったにも関わらず、私たちの外の世界を物化するだけでなく自身の内面にも観念や概念による物を置くようになっていった。
(…)
 人間の自己家畜化の時代から自己機械化の時代へと進み、便利で安全な環境の中で自己ペット化し、さらには自分で思考する力と自分で生きようとする力も全て放棄し、現代は完全に人工化された環境に自分を委ねてしまっている〝自己機械ペット化〟した人類の世代になっている。そして更に最終段階としては「自己情報機械ペット化」と物理的な実態でなくアバターのみで存在する完全人工環境依存型の人の群れへと人類はなろうとしている。
 これも皮肉なことに人間は「事から物へ、また物から事へ」と移ろう〝事と物の関係性〟を人間が自らの感性で見出したからこそできてしまうことで、この近代文明化の中で生じた「テクノロジーによる事の物化」の問題点に人類の多くは気づいてないのかもしれない。」

【目 次】

はじめに 名越康文

第一章 コロナが明かした時代の無力さ
不都合な事実と現実世界
より巧妙なマトリックスの世界
最大多数の最大幸福とは?
リベラルな言論の衰退の果て
武術界と宗教界のダメさについて
共同幻想が破れてもなお続く暮らし

第二章 経験的身体と共同体
誰しもが備えている経験的身体
地球に落ちてきた生命体
同調を確かめるから苦しい
自我ではない自分のやりたいこと
ハワイで時間の拘束が解かれた
怒りをうまく凝縮させる
YouTube と武術の組み合わせ

第三章 原初を失った人間の前提を理解する
二十一世紀は場の心理学になるだろう
できないこともその人らしさなのか?
背骨のない身体観
ボディ・ビルディングという概念化
人間が生き延びていくためにすべきこと
「自然に還れ」というファシズム

第四章 死生観について
死は感覚の向こうがわ
抗えない死、感覚の向こうがわ
身体の左右観
経験的身体が観えない現代人
塵浄水の礼で知る勁道
信はどこで生じているか
死生観を前提にした生き方
死んだ先の仕事も意外と多い
死ねない身体

第五章 言語と身体、精神分析
アメリカでの原初体験
軸がなくても平気な日本
英語の話せる身体性
空手と不良の道のあいだで
人間とは恐ろしいもの
ラカンの逸話に戦慄する
殺しにくるのが当たり前

第六章 強さと弱さ
道具と言語の多重化
心と感情
感情の基盤となる性
仏教の身体性

第七章 自我と個性と法則性
プロレスを現実だと錯覚している
自我とは流派である
いまにいられず居着いてしまった
積み上げという努力の大したことなさ
内面で逃避の理由を作るのが人間
絶対的な答えがない、という絶対的答え

第八章 感覚の向こうがわ
型と経験的身体の関わりについて
感覚の向こうがわと型
生命はガチ

おわりに 光岡英稔
解説 畏友という存在 甲野善紀

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