見出し画像

町田樹「言語表現がアスリートの背骨になる」(インタビュー〈文學界〉)/アスリートが「感動を与えたい」という違和感 ──元フィギュアスケーター・町田樹がいま伝えたいこと

☆mediopos3429  2024.4.7

町田樹は元フィギュアスケート選手

ソチ冬季五輪では5位入賞
その一か月後の世界選手権では銀メダル
五輪後のグランプリシリーズ開幕戦で優勝
全日本選手権でも4位となっているが

いわば競技人生のピークである
その2014年の年末引退を発表し
引退後は研究者・スポーツ解説者・振付家として
特に言語表現の分野で活躍している

ちょうどフィギュアスケートの解説者として
テレビ出演していたときの解説が
ほかの解説者とはずいぶん異なり
演技内容について適切に解説されている言葉が
印象深いと感じていたところ

「文學界」2024年3月号に
「言語表現がアスリートの背骨になる」
というインタビューが掲載されていた

そのタイトルにある通り
そこで語られていたのは「言語表現」に関するもの

いずれとりあげてみたいと思っていたところ
ちょうど昨日(4月6日)のYahoo!ニュースで
「アスリートが「感動を与えたい」という違和感」
という町田樹に関する記事が掲載されていたこともあり
あわせて見ておくことにしたい

まず文學界でのインタビュー内容から

町田氏は「競技者としても、研究者としても、
言語表現」を重要視していて
「言語がすべての表現のベースになっている、
という意識」があるという

言語化ということに関しては
「言語に縛られる」と感じるアスリートも多いようだが
町田氏は「身体構造を学ぶと身体のことを
よりよく言語化できるように、
言語や表現の精度をターゲットに向けて絞っていく、
その弛まぬ努力によって、言語は自分の血肉となっていく」
という基本的な考えを語っている

言語化し得ないところも認めつつ
「理論と実践の絶え間ない往還が続く中で
初めて可能になるのが、
私にとっての言語表現なのかもしれ」ないと
あくまでも町田氏は言語表現にこだわる

その背景にはたとえば
「スポーツ観戦における、競技者の評価」に
「現象の本質というものをきちんと掴まえないまま、
ただ紋切り型の賞賛の言葉が濫用され」
「実体のない「空虚な言葉」」となってしまっている
ということなどもあるようだ

なんでも言語化できるというわけでも
そうしなければならないというのでもないだろうが
表現可能なものに関してはそれを実のある言葉として
表現していくことは重要だろう

「空疎な言葉」に関連したことについては
Yahoo!ニュースの記事にも見つけることができる

たとえば町田氏は
「現役時代、記者会見やインタビューの場において、
「頑張ります」というありふれた返答をすることが嫌い」で

「なるべく自分の心境を具体的に語るとか、
例えを使いながら目標を分かりやすく伝えるとか、
できるだけ実のある言葉を繰り出そうと心がけてい」た

さらには「観ている人に感動を与えたい」という言葉には
「違和感を通り越して、嫌悪感さえ」あり

「『与える』という上から目線」
そして「ベストなパフォーマンスを発揮すれば、
誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけ」
「スポーツは無批判に『良いもの』とされ、
皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなもの」を
現役時代から感じていたという

「カメラを向けられたアスリートが自らの意思で、
自らの考えや心情を語」るような意識を
というのが言語表現にこだわる町田氏の願いのようだ

言葉のない身体表現と言語表現の関係を
単純にとらえることはできないが
両者は「必ずしも相反するものではな」く
身体表現においても
「言語化」というプロセスへの意識が
重要な働きをしているのは確かだろう

語り得ないものについては
沈黙しなければならない
としても
語り得るものについては
その表現の可能性に意識的でありたい

■町田樹「言語表現がアスリートの背骨になる」(インタビュー)
 (特集 身体がいちばんわからない 聞き手・構成:辻本力
  「文學界」2024年3月号)
■アスリートが「感動を与えたい」という違和感
 ──元フィギュアスケーター・町田樹がいま伝えたいこと
 (取材・文:山口大介/撮影:近藤俊哉/
  Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部 4/6(土) 10:11配信)

**(町田樹「言語表現がアスリートの背骨になる」より)

*「フィギュアスケート競技者を引退後、研究者をはじめとして言語表現の分野で広く活躍する町田氏が語る「競技する身体」を支える言葉の力。」

**(町田樹「言語表現がアスリートの背骨になる」〜「言語なくして魂なし」より)

*「————町田さんにとって氷上での表現と言語表現は、必ずしも相反するものではなかったんですね。

 町田/表現を論理的に理解するには、言語の介在が不可欠です。フィギュアスケートにせよ、今私が関わっているバレエなどの舞踏にせよ、表現そのものは身体運動なので、そこに言葉はありません。しかし、例えばある場面で演者が「右手を上げる」という動作をするとします。その動作には、必ずそれを支えている根拠や背景があるはず。登場人物がこういう心情だから、その運動は生じる————つまり、必然性の問題ですね。私は、言葉として実際にアウトプットはせずとも、演じる時も、あるいは振付をする時も、必ず「言語化」というプロセスを踏むようにしています。

————すべての動作に対して、そこに「どんな意味があるのか」を、「言語」で考えた上で表現する、ということですね。

 町田/はい。結局のところ、自分は、言語で表現できないものは表現できないと思っているフシがあるようです。なぜそこで右手を上げるのか、しかもなぜ「力強く」「優しく」とその上げ方が異なるのか————こうしたことを言語的に説明できなかったら、その表現は空疎なものとなってしまうでしょう。言語はなくとも、演じ手・作り手の中で言語的説明がなされてないままアウトプットしてしまうと、魂が込もらないと思うのです。

————競技者引退後、フィギュアスケートの解説者としてもご活躍されています。またご自身の「セルフライナーノーツ」を掲載されていますね。

 町田/音楽と身体のみで、何も騙らずして伝えるのが競技者やダンサーの力量————と言われたらそのままなのですが、じゃあフィギュアをまだ見たことがないという人に、初めからそのパフォーマンスを「見て、感じろ」と言っても、実際のところ、かなり難易度が高いですよね。これからの時代、そうやってお高くとまって鑑賞者教育を怠っていては、文化というものは廃れていってしまうのではないかと思ったのも、言語活動に力を入れるようになったきっかけの一つです。自分は何を訴えたくて、その芸術作品を作っているのか。そして、長い芸術史、あるいはフィギュアスケート史の中で、それはどういう意義があることなのか。こうしたことは、やはりきちんと言語化しなければ伝わらない。」

**(町田樹「言語表現がアスリートの背骨になる」〜「理論と実践の往還の中で」より)

*「町田/私は、競技者としても、研究者としても、言語表現が至上・・・・・・と言うとやや語弊がありますが、少なくとも、言語がすべての表現のベースになっている、という意識があります。ですが時折、そうした字論を揺るがされる事例に出くわすことがあります。例えば、私が教えている國學院大學の健康体育学科の学生たちの中には、現役のアスリートがたくさんいるのですが、彼ら・彼女らからリアクションペーパーを取ってみると、私の考えに概ね納得してくれるものも、「言語で理解する」ということに対して「言語に縛られてしまう」という感覚を抱く人も決して少なくないことが判明したんです。私は、間違ったコンテンツを言語化することでパフォーマンスが低下する、という可能性は考えていましたが、言語によって自身の身体が固定化してしまうという発想はまったくなかった。なるほど、そういう考えもあるのだなと目から鱗な体験でした。

————それは、「言語を信用し切れない」ということなのでしょうか? 最終的に使うのは自身の身体名わけで、そちらの方への信頼が大きい、というような。

 町田/日本ではよく、何かを体得することを「身体で覚える」「身体に叩き込む」と表現するので、やはりそうした感覚が優位なのかもしれません。また、そもそも言語表現に親しみがあるか否かでも、だいぶ変わってくるでしょう。いずれにせよ、私としては、だからこそ言語との深い信頼関係を取り結ぶための努力をよりすべきなのでは、と考えます。身体構造を学ぶと身体のことをよりよく言語化できるように、言語や表現の精度をターゲットに向けて絞っていく、その弛まぬ努力によって、言語は自分の血肉となっていくと思うのです。
 とはいえ、これまで身体やその運動を言語化するということに注力してきた私ですらも、フィギュアやバレエの振付をする中で、動きのニュアンスやタイミングを他者に伝えることは至難と感じているのも、また事実です。自分が動けるのであれば、実際にお手本を見せて、それをコピーさせる方が早い場合もある。

(・・・)

 町田/「伝わらない」ことを受け入れて、それを一種の「余白」「余地」として演者に手渡すことも、作品を作る上では大事なことなのではないか、そんなことも考えるようになってきました。そうやって、理論と実践の絶え間ない往還が続く中で初めて可能になるのが、私にとっての言語表現なのかもしれませんね。」

**(町田樹「言語表現がアスリートの背骨になる」〜「「経験した身体」の言葉」より)

*「————町田さんが持つ「言語」をまとめると、大きく三つに分けられるように思います。競技経験者/作り手としての言語、解説者としての言語、そして研究者としての言語です。これらの違いについて、意識されていることがあれば教えてください。

 町田/一番大きなポイントは、「主観」「客観」という視点かもしれません。あるいは、そのバランス感覚と言いますか。競技者/作り手としての言語表現には、おそたく多分に主観が入ってくるでしょう。というか、入らざるを得ない。その作品を解釈するのも、実際に演じてみせるのも「自分」ですから。言うなれば、自分が理解できるように言語化し、それでもって自分自身に語りかけるわけですね。
 解説者は、目の前で怒っているパフォーマンスという現象を観客という他者に向けて語るわけですが、出発点は「自分がどう感じたか」なので、やはり主観です。ですが、伝える相手がいる以上、常に自分の主観が正しいかどうかを客観視する視点が不可欠になります。
 研究者としては————これはTPOや題材によっても変わってきますね。近年私は比較文学的なアプローチをとることが多くなっているのですが、そのような料理機で作品分析をする時は、客観的に論じることに気を配りつつ、少なからず主観や、自身の思想のようなものも入ってくる。でも、それらは単なる主観ではありません。背景に、私がこれまで学んできた学術的知見があり、研究に裏付けられた客観性がある。そうでなければ、批評は批評たり得ませんからね。これは解説の仕事などにも通底するものがあり、いわば、主観を入れるからには、入れる根拠を示すための準備をすべし、ということでしょうか。」

*「私個人の場合には。やはり経験した身体を書いている、という強い意識があります。経験していない身体を書くと、そこにはズレや齟齬が生じてしまい、それこそ「言語からこぼれ落ちてしまうような身体性」が発生してしまいそうです。あくまで「自分音場合は」というエクスキューズ付きですが、言語によって描出された身体が正しいのか、それとも誤っているのか、その答え合わせをするための拠り所となるのが「経験」であるという認識です。でも、この考えが「絶対」だとは言いません。身体の表現方法や、それに対する考え方は千差万別ですからね。」

**(町田樹「言語表現がアスリートの背骨になる」〜「空疎な言葉を実のある言葉へ」より)

*「————「第三者による身体の言語化」といえば、スポーツ観戦における、競技者の評価について気になることがあります。例えば、それが球技であったならば、「ボールがよく取れる」「得点ゴールが多い」といった、いわゆる技術の部分が着目され、「評価=言語化」されます。これがフィギュアのようなアーティスティックスポーツである場合、ジャンプのクオリティのような部分は「技術」の領域ですが、素人目にはなかなか出来/不出来はなかなか判断つきづらいのに加えて、いわゆる「芸術性」に関する領域になると、さらにその評価が難しくなってくるように思うのです。鑑賞者と競技者という視点に立った時、両者はどのような言葉の関係性を結び得るのか、町田さんのお考えになる理想像があれば窺えますか。

 町田/例えばフィギュアでは、「美しい演技」「きれいなジャンプ」のような言葉で評することがよくありますよね。そう感じたから、そう言葉にしたのだろうとは思うのですが、私が気になるのは、じゃあそれは何故に美しく、何故にきれいなのか、ということです。その「美しい」「きれい」と思わせている現象の本質というものをきちんと掴まえないまま、ただ紋切り型の賞賛の言葉が濫用されているように感じてしまうのです。これは、観客の問題である以上に、評価をない割としている人間の問題でしょう。その演技がなぜ美しいのか、なぜきれいなのか、その「理由」を解きほぐすことこそが解説者の本来の仕事なのですから。「美しい」「きれい」ということ自体は本当なので、深掘りせずに流してしまうことができる。でも、その結果として、美しさの本質がどんどん分からなくなってきているように感じます。似た話として、フィギュアの解説で頻出する「●●選手/●●の音楽の世界観が出てますね」「表現力が素晴らしいですね」というような言い回しもあります。これもまた、本質は何も語っていません。「じゃあ、その世界観とは何?」「表現力って?」と聞かれた時、その解説者はおそらく、具体的なことは何も応えられないのではないでしょうか。こうした実体のない「空虚な言葉」が蔓延しているのが、スポーツの世界なのです。」

*「————空虚な言葉が生まれる背景には、どんな事情があるのでしょうか。

 町田/解説者のそうした言葉は、テレビ中継などから流れてくるわけですが。あの世界はものすごく尺に縛られているので、何を言うにも「五秒でお願いします」というような指示が伴います。常にカウントが入っている状態で作品を、演者を評さなければならないわけです。さらに言えば、ちょっとした失言で袋叩きにされるようなこの世の中にあって、自身を守るために当たり障りのない言葉を選ばざるをえなくなるんも致し方ないのかもしれません。

 しかし、言語を信奉する研究者・表現者である私は、こうした流れに「NO]と言いたいのです。これは、「空虚な言葉」を「実のある言葉」に変えていくという挑戦、と言い換えてもいいでしょう。もしここで手をこまねいていては、空虚な言葉が延々と輪廻・再生産されていくという、ものすごくむなしい言論情況を生んでしまうことは必至です。そしてそれは、ともすれば観客をもその主体にしてしまうという危険性も孕んでいます。

(・・・)

 深い洞察力のある言語表現は、業界を活性化させ、次世代のパフォーマーを育むうえで非常に重要だと思います。自分のこれからの仕事も、そうしたポジティブな言葉の循環を作る一助となれば。これに勝る喜びはありません。」

**(「町田樹がいま伝えたいこと」より)

*「競技者を引退して今年で10年が経とうとしている。五輪、世界選手権でも活躍した元フィギュアスケーターの町田樹さん(34)。
現在、振付家や解説者としてフィギュアと関わり続ける一方、国学院大学准教授の肩書を持つ研究者として第2の人生を歩んでいる。
「アスリートが『感動を与えたい』と言うのはおかしい」。独特の世界観とワードセンスで「氷上の哲学者」ともいわれた元人気スケーターが繰り出す言葉は、研究者となった今なお、強めの刺激と深い洞察に満ちていた。(取材・文:山口大介/撮影:近藤俊哉/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)」

**(「町田樹がいま伝えたいこと」〜「競技人生のピークに引退した理由」より)

*「ただそこに立つだけで往時の姿を思い起こさせる。背筋のぴんと伸びた美しい姿勢、落ち着きと気品を感じさせる表情は、現役時代と変わらぬままだ。プロスケーターも6年前に引退した。もうリンクに立つことはないが、4月27、28日には上野の東京文化会館でバレエ公演に出演する。

「そういう意味では、創作活動や実演活動は続いています」。表現者としての町田樹はまだまだ健在のようだ。

町田さんが引退を発表したのは2014年の年末に長野で行われた全日本選手権、24歳のときだった。その10カ月前にはソチ冬季五輪で5位入賞、1カ月後に埼玉で行われた世界選手権では銀メダルに輝いていた。五輪後の新シーズンでもグランプリシリーズ開幕戦で優勝し、この全日本選手権でも4位。世界選手権代表に選出されるなど、競技人生のピークにある中での決断は、多くのフィギュア関係者やファンを驚かせた。

町田さんは意外な言葉で当時の自分をこう振り返る。

「競技者・町田樹は、いわば泥船でした。このまま競技者を続けていったとしても、体力の衰えなどによって沈んでいくだけ。新しい船に乗り換えなければ、私の人生はじきに立ちゆかなくなることが目に見えていたわけです」

フィギュアの選手寿命は20代半ばから後半で、30歳を過ぎて競技を続けられる選手はほとんどいない。仮にプロに転向したとしても、40歳が限界だ。その後は指導者に転身する道もあるが、そのイスは決して多くない。当時、関西大学の“7年生”だった町田さんの周りは、既に社会人として新たな人生を踏み出していた。氷上の華々しい活躍の裏で焦りを感じたのも無理はない。

10代の頃から「自分にはフィギュアスケートがある」と思うことができた安心感が、いつしか「町田樹-フィギュアスケート≒(ニアリーイコール)ゼロ」という劣等感や不安に変わっていった。

「ところが、どんな船に乗り換えればいいか、すぐには分からなかったです」。脇目も振らずに競技に打ち込んだアスリートに共通した悩みといえるかもしれない。

町田さんが幸運だったのは、大学のある教授からフィギュアとは全く別の世界、研究者の道を勧められたことだ。大学在学5年目のときだったという。

「私の性格、学業に対する姿勢と(レポートなどの)成果物を総合的に見て、研究者に向いているのではないかと言ってくださったんです。博士号の学位を取り、わずかなポストしかない大学教員のポジションを狙うのは、本当にチャレンジングなことですが、先生の力強いご指導で迷いなく次のキャリアに飛び込むことができました」

**(「町田樹がいま伝えたいこと」〜「研究者として国学院大で教鞭を執る現在」より)

*「ソチ冬季五輪を目指す傍ら、人知れず大学の単位取得と大学院進学の勉強に励んだ。奮闘のかいあって、14年秋に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科の試験に合格。プロスケーターとして生計を立てながら、修士課程、博士課程と5年間学んだ。そして、20年から国学院大で教鞭を執っている。スポーツメディア論の講義を持つほか、体育の授業でダンスの実技指導もしているという。

研究者となっても、フィギュアで培った知見や問題意識は町田さんの背骨である。その視線は今、スポーツと芸術性の両面を併せ持つアーティスティックスポーツの特殊性に向けられている。例えば、フィギュアをはじめとするアーティスティックスポーツを著作権の観点から考える研究もその一つだ。

「フィギュアスケートはスポーツとアートの間にある『身体運動文化』といわれます。振付家がいて、演者がいて、鑑賞者がいる。この三者関係によって、相対的に価値が決まっていく。つまり、勝ち負けのあるスポーツではあるけれども、一方で芸術作品という性質も備えている。芸術作品は、客観的で統一的な価値基準で評価できるものではありません。このようにスポーツとアートの両義的性質を持っているがゆえに、アーティスティックスポーツにはさまざまな問題が起こりえます」

現役時代から町田さんは他のスケーターとはひと味違う雰囲気をまとっていた。遠征にはいつも書籍を持ち歩き、哲学書やエッセー、小説など何でも読んだ。町田さんの口から発せられる数々のユニークな言葉に、メディアは飛びついた。いつしか「氷上の哲学者」という異名が定着した。

「後になって違う感情が湧いたのですが、正直、当初は『これはおいしい』と思いました。やっぱりメディアバリューはアスリートにとって大事。特に私はソチ五輪候補『第6の男』と言われていて、下馬評ではオッズが一番低かったですから。このオッズをひっくり返すためにはどうしたらいいのかっていうことは、すごく考えました」

羽生結弦を筆頭に、高橋大輔、小塚崇彦、織田信成、無良崇人ら当時の男子フィギュア界は史上屈指の強豪ぞろいだった。当初、町田さんは五輪代表争いでその最後尾にいたのだが、熾烈な代表争いを勝ち抜き、ついには羽生、高橋とともに14年のソチ冬季五輪代表の座を射止めた。

**(「町田樹がいま伝えたいこと」〜「メディアにつくられた「氷上の哲学者」のイメージ」より)

*「「しかし、いつしか『氷上の哲学者』というメディアにつくられたイメージが独り歩きし、違和感を覚えるようになったのも事実です。一度ついたイメージはデジタルタトゥーのごとく、なかなか消えませんから」

メディアの前で語った多くの言葉が「町田語録」としてひとくくりにされたことも、本意ではなかったのかもしれない。しかし、町田さんの口から出る一言一言がファンやメディアを楽しませたのは間違いない。あの言葉の数々はどのようにして生まれたのだろうか。

「インタビューでの応答に工夫を凝らしていたことは確かです。というのも正直に申し上げて、昔から今に至るまで、私という人間はひねくれ者なのです」

現役時代、記者会見やインタビューの場において、「頑張ります」というありふれた返答をすることが嫌いだった。

「頑張るのは当たり前でしょう。私ももちろん『頑張ります』と言うこともあるけど、なるべく自分の心境を具体的に語るとか、例えを使いながら目標を分かりやすく伝えるとか、できるだけ実のある言葉を繰り出そうと心がけていました」

**(「町田樹がいま伝えたいこと」〜「嫌悪感さえある「感動を与えたい」という言葉」より)

*「もう一つ、当時から「頑張ります」と並んで町田さんが首をかしげてきたアスリートの言葉があるのだという。違和感を通り越して、嫌悪感さえあるという言葉。それが「観ている人に感動を与えたい」である。

「私が現役だった十数年前くらいから『感動を与えられるように頑張ります』ということを語るアスリート、もしくはスポーツ界関係者や政治家が増えたように感じています。東京五輪の招致活動も関係していたかもしれません」

長引くデフレで活力を失い、東日本大震災にも見舞われた日本。そこに「復興五輪」「オールジャパン」を旗印にした東京五輪招致が持ち上がったのが震災のあった11年のことだ。「スポーツの力」といった言葉が多く使われるようになり、アスリートやメディアから「感動を与えたい」「勇気をもらった」というフレーズが頻繁に飛び交うようになった。

これらの言葉を、町田さんが受け入れられなかった理由はどこにあるのか。

「アスリートがいなければスポーツ文化は成り立ちません。これは確かですが、その一方でアスリートのほかにも、競技団体で働く人、用具を製造する人、施設整備に関わる人、さらに観戦してくれる人たちがいて、初めて競技が振興できているわけですから、そういう人たちに対して『与える』という上から目線での発言には違和感を抱いていました」

「そして本来、感動するか否かは受け手に委ねられているものです。Aさんは感動しても、Bさんは感動しないことだって普通にあり得ます。それはフィギュアでも同じです。『感動を与える』という表現は、あたかもアスリートがベストなパフォーマンスを発揮すれば、誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけている印象を受けます。スポーツは無批判に『良いもの』とされ、皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなものを、現役時代から感じていました」

「感動」は送り手の創造力と受け手の感受性があって初めて生まれるもの。それなのにスポーツの力という錦の御旗の下、「感動」が氾濫している──。フィギュアという勝負論の枠に収まらない、多様な評価軸や価値観も共存するアーティスティックスポーツの担い手ならではの視座といえるかもしれない。

加えて、町田さんがもう一つ危惧することがある。それはアスリートに「感動を与えたい」と言わせるような世の中の空気だという。それを如実に感じたのが、スポーツが“不要不急”といわれたコロナ禍だった、と町田さんは語る。

「コロナ禍においては残念ながら、アートやスポーツが『不要不急なもの』としてくくられる中で、アスリートも自らの存在意義、あるいはスポーツの価値といったことを、すごく考えたと思います。そういう空気に触れると、アスリートも競技だけでなく、何かプラスアルファを社会に還元しなければならないのではないかと考えるのは当然かもしれません。自分のパフォーマンスで経済波及効果をもたらさなければいけない、会場や日本を一つにしなければいけないと、責任を感じてしまうのは無理もないでしょう」

**(「町田樹がいま伝えたいこと」〜「アスリートにいま伝えたいこと」より)

*「「『スポーツの力』や『感動を与える』という言葉には、時として社会をも動かす大きな力が宿ります。しかし、そもそもスポーツは、たとえ経済発展や平和の創造や感動を与えることに貢献しなかったとしても、この人間社会において、古代から脈々と継承されてきた、かけがえのない『文化』なのです。ですから、アスリートとして誇りを持つべきです。アスリートは競技を行うだけで、すでに十分に役割を果たしていると私は思います」

スポーツ文化の一端を担ってきた者としての自負と、アスリートへのリスペクトがにじむ言葉だ。

この夏、パリに100年ぶりの五輪が戻る。最近はメンタルヘルスの問題を告白したり、LGBTQなどの多様性を自ら発信するアスリートも増えている。五輪などのスポーツイベントも地球温暖化や脱炭素を意識した運営が求められる時代になり、Z世代のアスリートたちはこうした問題にも敏感だ。アスリートの言葉に、今まで以上に注目が集まっていると町田さんは感じている。

「これからの時代を担うアスリートは、スポーツのメディアバリューをしっかりと自覚したうえで、いかに自分の言葉で語ることができるかどうかが、大事だと思います。『スポーツで感動を与えたい』というような安易な気遣い発言は一切いりません。もちろん、私を含めて、スポーツを観る側、語る側の人たちも、アスリートからそのような言葉を引き出そうとすることを自制する必要があるでしょう。パリ五輪ではいつも以上にアスリートの発言に注目が集まることと思います。そのとき、カメラを向けられたアスリートが自らの意思で、自らの考えや心情を語ってくれることを期待しています」」


○町田樹(まちだ・たつき)
1990年3月9日生まれ。現在、国学院大学人間開発学部准教授。スポーツ解説者、振付家。元フィギュアスケート選手。2014年のソチ冬季五輪で5位、世界選手権で銀メダルを獲得。著書『若きアスリートへの手紙――〈競技する身体〉の哲学』(山と溪谷社)は、2022年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?