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荒畑靖宏・吉川孝 (編著)『あらわれを哲学する―存在から政治まで』

☆mediopos3325  2023.12.25

『あらわれを哲学する―存在から政治まで』は
荒畑靖宏・吉川孝を編者として
現象学的な観点から
「あらわれ」をキーワードに
第1部「ある」 第2部「あらわれる」
第3部「かんがえる」 第4部「よくいきる」
第5部「ともにある」 で構成され
さまざまなテーマで16の論考が収められている

論じられているテーマの根底には
「あるひとつの直観」があり

「それは、私たちがそのなかで生きている現実、
これを哲学者は「世界」と呼ぶことを好むが、
この世界はその根本のところで、
あらわれるというあり方をしているのではないか
という直観」であり

「世界はその根本において、
AがBに対してCとして現象する
という形式をもっている」と表すことができる

第4部は「よくいきる」とあるように
「人」がテーマであり
「あらわれにかかわる主体の生き方や
世界の見え方をめぐる倫理」が問われている

そのなかから
中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」
をとりあげる

「私は「私」から出られるのか」という問いは
「「私が「私」に閉じ込められている」
という実感からくる問いである

中村佑子は幼少期から「私が「私」に
閉じ込められていることに」「絶望してい」て
「死」を「解放の場所」であり憧れとさえしてきたが
ある体験から「「私」のありようを含めた世界は、
「別様でありえる」と希望」をもつようになった

そうした思考のプロセスに加え
興味の対象であり当事者でもある
「ケア的主体」の問題を考えることで

「「私」が一様ではなく、ゆらぎ、ゆさぶられ、
二重化し、攪乱され、主体を侵犯しあいながら
往還し続ける変容体であること、
そこにこそ希望を感じる」ことになったという

近代的自我は「私は私である」として「あらわれ」
世界もそれにたいして「あらわれ」るが
それはいわゆる主客二元論的な観方である

「私は私である」というありかたは
「私が「私」に閉じ込められている」ことでもあり
「私」が静的で固着化した主体であるならば
「私」は世界に対して開かれてはいない
そのばあい「私」の外といえば「死」でしかなくなる

そんな死は憧れにもなるだろうし
絶望のあまり自死を選ぶことにさえなってしまう

中村佑子は「ケア的主体」の視点から
「私」を多様な変容体としてとらえ
そこに「希望」を感じているというが

それはすべてを関係性のもとでとらえた
仏教的な縁起の世界観や
福岡伸一の示唆している動的平衡に近しいだろう

「私」は「世界」に対して
あるいは「私」自身に対しても
「私」としてあらわれているが
その「私」は「「私」に閉じ込められている」のではない

中村佑子は言う
「私のなかに死があり、私のなかに外部性が開いている。
そうして、私は固まることなく、無防備に、変容し続ける。」

さらにいえば個人の責任ということが問題となるばあい
ひらかれた「ケア的主体」という意味でも
「中動態」的な視点でとらえる必要がある
ということでもあるだろう

■荒畑靖宏・吉川孝 (編著)『あらわれを哲学する―存在から政治まで』
 (晃洋書房 2023/3)

(編者「はじめに」より)

本書で論じられるテーマはじつにさまざまであるが、その根底にはあるひとつの直観がある。それは、私たちがそのなかで生きている現実、これを哲学者は「世界」と呼ぶことを好むが、この世界はその根本のところで、あらわれるというあり方をしているのではないかという直観である。この直観はまた、次のような直観によって支えられている。すなわち、私たちの生きる世界と、そこに私たちが見いだすものやことば、その世界に生きる私たちのような主体にとって、いろいろな姿であらわれてくることができるが、しかし場合によっては、そのうちのどれが本当の姿なのかを決めようとすることが意味をなさない場合もある、という直観である。
(・・・)
 この直観は、いまこの場でももうすこし明確化することができるかもしれない。というのも、私たちはみな、「あらわれる」のロジックとでも呼ぶべきものをよく知っているからである。それによれば、あらわれるということは、なにかが、なにかに対して、なにかとしてあらわれる、という形式をもつ。とすれば、世界はその根本において、AがBに対してCとして現象するという形式をもっていることになる。こうしてこの直観は、さらなる哲学的探求へと開かれていく、」

「第4部の主題は「よくいきる」である。AがBに対してCとして現象するということがあらわれることの基本形式を形成しているが、ここでのAやCというのは、「もの」や「こと」だけではなく「人」でもあり、つまり「誰か」が「誰か」としてあらわれることがある。誰がどのような人としてあらわれるのか、あらわれた人に対してどのように応じるのか。このような誰かがあらわれることをめぐる問いは、この誰かがあらわれることを主体がどのように受け止めるのかという問いでもあり、あらわれにかかわる主体の生き方や世界の見え方をめぐる倫理の問いという意味を持っている。この第4部にまとめられた4つの章は、主体が人とかかわりながら生きることに伴わざるをえない諸々の現象————差別、偏見、悪、苦痛、ケア————を、あくまで主体の体験から離れることなく丹念に分析することを目指す。」

「「私は「私」から出られるのか」(中村佑子)は、筆者自身が幼少期から抱きつづけている「私が「私」に閉じ込められている」ことへの絶望と「私」のありようを含めた世界が別様でもありうるという希望とを、哲学的分析の俎上に載せようとする希有な試みである。そこで重要な役割を果たすのは、筆者自身がヤングケアラーとして、次いで母親として担ってきた「ケア的主体」としての体験である。このありふれていると同時に特異でもある主体性の体験をつうじて、筆者は、自分が閉じ込められていると思っていた「私」が、ふつは一様ではなく、ゆらぎ、ゆさぶられ、二重化し、攪乱され、主客を侵犯しあいながら往還しつづける変容体であることを見いだす。そしてそれこそが、筆者が幼少期から追い求めてきた希望のありかであることが示唆されるのである。」

(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「はじめに」より)

「幼いころから、私が「私」に閉じ込められていることに失望、もっと言えば絶望していた私は、自然に自分が「無」になることに惹かれていった。それは容易に死への憧れとして育っていったが、そのとき「死」は恐ろしいものではなく、私に生命を与える存在の暗がりに還っていくような解放の場所としてあった。また私が「私」から一瞬でも脱出できた、ある特異な体験から、「私」のありようを含めた世界は、「別様でありえる」と希望をもっていた。この一連の思考プロセスと、近年興味をもってずっと負い続け、また私自身が当事者でもある「ケア的主体」に至る自分の問題系を整理し、「私」が一様ではなく、ゆらぎ、ゆさぶられ、二重化し、攪乱され、主体を侵犯しあいながら往還し続ける変容体であること、そこにこそ希望を感じることを指し示したい。」

(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「1 「私」という閉じ込め a ある雪の日」より)

「なぜ私は「私」に閉じ込められているのかという問いは、驚きや発見ではなく、私にとっては苦しみだった。それがなぜニュートラルな驚きなどではなく、絶望なのか。きっけかになる体験が、一つだけある。
 大学受験勉強をしていたある冬の寒い日、窓の外では小雪がちらついていた。私は自分の部屋で机に向かっていた目をあけて、ふと窓の外を見た。すると自然に私の意識は外に出て、窓の外から私を見たのだ。このとき私は机に向かって勉強をしている数分前の自分だった。
 (・・・)
 このときの浮遊感、軽妙さ、解放と自由はなかなか筆舌に尽くしがたいものがあり、私は人間の身体という容れ物を介さなくても、私でいられるのではないか。というよりも、あれも私、これも私。私はそこら中に遍在できるのではないかという希望のようなものを受けとった。」

(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「1 「私」という閉じ込め b 「私」と物質」より)

「自分というものも、世界も、何か安定的に固まったものではなく、とんでもない変容を続けるなかで、ただ現状静止しているように見えているに過ぎない。そう考えることで、私は「私」という壁に囲まれた塊からの脱出を夢見ていたのだと思う。自分と世界とに共に働いている膨大なエネルギーに身をうつすことで、「私」を超え出る起原のようなものを志向し、そこい解放を見ていた。」

(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「1 「私」という閉じ込め c 死とは何か」より)

「死は、「私」の世界を閉じさせるだけであり、別の閉じ込めが待っているかもしてない。私という意識を、他の主体に感じることもありえるからだ。「この世界にいる」という感覚を、感覚の主体となる座標軸をとおして感じることを、意識と呼ぶとすれば、その意識が私であろうが、他の誰かの移植されようが、意識というものに閉じ込められていることは終わっていない。つまり「世界にいる」「ここにある」という感覚こそ、私が逃げ出したいと感じる所以なのだろう。」

「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「1 「私」という閉じ込め d 論理実証主義に抗して」より)

「ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言明は、誰しもこの一言を聞けば、それを知る前には戻れなくなる魔術的な響きがある。いったん「語りえぬもの」という視線をもったあとは、有意味な文を語らねばいけないという強い抑圧がはたらく。しかし有意味を求める論理全体に、私は違和感をぬぐえなかった。

「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「1 「私」という閉じ込め e 世界の限界」より)

「  哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、形而上学的主体であり、世界の(一部ではなく)限界なのである。(ウィトゲンシュタイン『草稿』(一九六一年))

 私が感じていた、「私」のなかに閉じ込められているという苦しみは、ウィトゲンシュタインの言う哲学的自我の一種と推察される。哲学的自我とは、本質的には問うことのできない形而上学的な問いを抱えている者のことを指す。だとしたら苦しむ我代謝、ウィトゲンシュタインによれば人間ではない。人間の体をもつのでも、人間の心をもつのでもなく、世界の限界であるという。存在への問いをもつ形而上学的主体は、世界内部にはいないのだと。
 このメッセージは、当時の私にはとても強烈だった。」

「今回あらためて『ウィトゲンシュタイン入門』を読み直し、ウィトゲンシュタインの兄弟の多くが自殺で死んでいること、ウィトゲンシュタインが希死念慮をたびたび抱えていることが、あの頃より人生が進んだいまの私には、重く響いた。自らがつくった論理の伽藍を眺めたのちに、登ってきた梯子をはずし、自分の目の前に見えている世界に「言語ゲーム」という、生きていきやすい名前を宛てるウィトゲンシュタインは、言語の中で自殺をしているようなものだ。言語ゲームと言えば、仮の死うぃなんども経験できる。私が私であることを、もう考えないように、通り過ぎることができる。言語的に自分を死に至らしめ、最後に本当に自殺をしてしまったウィトゲンシュタインは、少しは楽になったのだろうか。よりクリーンで綺麗になった世界に、息つける場所は果たしてあったのか、」

「私はやがて、あんなに哲学の研究を続けたいと思っていたのにやめ、もっと自由に自分の問いを語りたいと思うようになる。別に、論理的に厳密に語れと先生方に説得されたわけではない。ウィトゲンシュタインの呪縛に自らはまってしまった。事実と価値をわけるのではなく、実証できないからこそ言葉には可能性がある。もっと言葉の果てを、言葉のなかで探っていきたかった。学部でウィトゲンシュタインに出会ってしまった私は。ウィトゲンシュタインの犠牲者ともいえるのではないかと、いまでは思う。」
   
「(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「2 私からの脱出としてのケア的主体 a 母とは器である」より)

「私は妊娠出産をとおして主体の揺らぎに驚いたわけだが、それは救いでもあったのだといまはわかる。「私」が解体し、自己の壁が揺らぐ経験は苦しく、迷子になったけれども、あれだけ願っていた「私」からの脱出可能性、世界の別様のありかたとして映った。自分は固まっていない、世界も固まっていない、ゆらめく変容体の特異点に過ぎないという実感は、胎児を抱えた母、新生児と溶け合うような「場」に身を浸す母の主体そのものであった。こうして考えてみると、母であることを直視する前提条件が、私の深いところで存立していたのだということがわかる。」

「(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「2 私からの脱出としてのケア的主体 b 主体が溶け合う世界」より)

「本当は大人の私たちの前にも、いつでも世界は動的で可変的であり、混乱した姿を見せていて、そのなかで主体は遊泳しているはずだ。哲学の考える静的で固着化した自我イメージには、ダイナミズムがないと感じていた私にとって、「母」を考えることは私なりの「主体の哲学」批判だったのだろう。さらに言えば、固まった自己を前提として社会が回っている、現システムへの批判でもあった。」

「(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「2 私からの脱出としてのケア的主体 c ヤングケアラーの宙吊り感」より)

「いま私はまた新たな主体のゆらぎと解体を、関心の対象としている。子どものころから、病気の家族のケアを担ってきた子ども、いわゆるヤングケアラー問題だ。何を隠そう、私自身がそうだったのだと思う。」

「ヤングケアラーらしい自分の特性だと自覚していることがあって、それは他の人より自分の欲求や、意思が立ちあがりにくいということだ。母の病に身をうつすように感覚を研ぎ澄まし、物事を決定している私の意思は、本当に私のものなのか。母の痛みを取りのぞきたいから自分が望んでいるのか、よくわからなかった。」

「もっと人は、見えない依存の糸が絡まる、網の目のなかに存在している。依存は決して悪ではない。そもそも生まれて数年間、人間の赤ちゃんは自分で移動することも、自分からご飯を得ることもできない。人の手に守られた状況のなかにしか、「安全」がない。」

「泣く泣くケアに従事しているヤングケアラーの子どもの意思はどこに介在するのか。苦しみをぶぐいとってあげたいと思って親に手をかけたとして、そこで行われる行為の責任はどこに存するのか? そのときぬぐい去ろうとした苦しみは、親にとっても自分にとっても苦しみなのだ。この問いに、これまでの自己モデルによって答えられるだろうか。」

「(「第4部 よくいきる」〜中村佑子「第13章 私は「私」から出られるのか」〜「2 私からの脱出としてのケア的主体 d 病の人間の言葉」より)

「確固とした自己が、すべての行為の前に、意思を働かせて待機しているというイメージはきらびやかで頼もしいが、それは近代社会が仮設した幻想であるだろう。確固とした自己を社会に輩出するために学校教育があり、人間は自分の意図を説明せよと、つねに社会から抑圧を受ける。
 人間存在はもっと無防備に外に開かれ、応答せよという他者からの呼び声のただなかで、わけがわからない情報にもみくちゃにされ、溺れながら、行為を遂行している。それは、圧倒的に無防備であるということを耐えぬくことでもある、そして私はそんな主体にこそ、解放と悦楽を見る。
 絡み合って網の目のなかにある自己、病者に身をうつし、胎児に場を与え、他者との境界をなくし、迷子になりながらも日々のケアを行う自己がケア的主体ならば、ケア的主体には自己責任という名前で他者を糾弾するという発想は生まれない。
 依存しあい、溶け出しあい、一人一人がやがて消滅へと向かう運命を共有しているという意味においてのみ、運命共同体である私たちは、確固とした自己をもつ以前に、もっと溶けない依存しあっていた。それを起原ととらえるならば、「私」から脱出したいという願いは、ある種の起原への回帰だったのだろう。
 私が「私」でしかいられないことから解放されようとすること、それはこのがんじがらめの世界から解放されたい、近代的自我から逃れ去りたいという欲望とイコールだった。もし死が、起原への回帰なのだとしたら、なんと安らかなのだろう。その死を、一人一人の人間が平等に抱えていると考えることはなんと甘美なほど剥き出しの事実だろうか。ケア的主体は、死に隣接する主体でもあった。
 私のなかに死があり、私のなかに外部性が開いている。そうして、私は固まることなく、無防備に、変容し続ける。」

□目次

はじめに   編者

第1部 ある
第1章 存在と真理  荒畑 靖宏
はじめに
1 「ある」と「真」
2 「ある」の真実的用法
3 ハイデガー真理論の眼目?
4 論理学(真)と存在論(有)の同一性
5 『存在と時間』第四四節の真相―哲学的論理学の可能性

第2章 存在と真理における「多と一」  秋葉 剛史
 はじめに—存在に関する一元論と多元論
1 多元主義のいくつかのモデル
2 真理の多元主義
3 単一の存在概念にもとづく多元主義
4 二つの多元主義の相違点

第3章 無と存続 メルロ=ポンティによるベルクソン批判を巡って  岡嶋 隆佑
 はじめに
1 疑似観念としての無
2 肯定主義としてのベルクソン哲学
3 時間意識:メルロ=ポンティによる批判
4 無と想像力:絶対的な働きとしての持続
5 持続と行為
結びに代えて

第2部 あらわれる
第4章 意識を意識する 「意識」概念への媒介論的アプローチ  田口 茂
はじめに
1 「意識」概念は「否定」によって媒介されている
2 媒介現象としての意識―実体から媒介へ
3 志向性―対象と世界による媒介
4 身体による媒介
5 身体と世界の捻れたループ
結語

第5章  体験の一回性について  村田 憲郎
はじめに
1 風船の箱
2 志向的体験
3 「過程」としての体験
4 永劫回帰

第6章 像はどのようにあらわれるのか フッサールの像意識論を解釈して擁護する  植村玄輝
はじめに
1 物的な像・像主題・像客体―フッサールの基本的発想
2 像意識の分析に像客体は必要なのか
3 像客体に向けられた疑念を取り除く
4 本章の解釈をさらに擁護する
おわりに

第7章 魔術とは何か 自然主義的アプローチ     武内 大
はじめに
1 魔術とアストラル界
1.1 不思議の国、アストラル界/1.2 アストラル界へのアクセス技法
2 魔術の自然化
2.1 クロウリーの科学的イルミリズム/2.2 自然主義的オカルティズム
3 魔術の自然主義的解釈
3.1 アストラル界とは何か/3.2 魔術的技法の自然主義的解明/3.3 魔術儀式の役割/3.4 魔術の効果
おわりに

第3部 かんがえる
第8章 デカルトと合理主義の臨界   秋保 亘
はじめに
1 「科学革命」と合理主義
2 永遠真理創造説と自然学の関連
3 数学的真理と私たちの精神の構成
4 自然学と数学的真理
5 思考の枠組みの摘出と合理主義の臨界

第9章 哲学は遅れて メルロ=ポンティと構造の問い  小林 徹
はじめに
1 世界の揺らぎ
2 哲学の遅延
3 構造の哲学
4 視覚の謎
5 最後の言葉

第10章 認識と倫理 水俣から問われる哲学  吉川 孝
はじめに
1 マードックと現象学
2 市井三郎の挫折
3 中立性への批判
4 認識の正義から倫理へ
おわりに

第4部 よくいきる
第11章 現れを迎え入れるという倫理  小手川正二郎
はじめに
1 「何かが私に現れる」とは?
2 「あるがままに現れる」とは?
3 私の見え方が問い直される
4 「あるがまま」に対して「透明」になる
5 <他者とともに>見る
結び

第12章 レヴィナスにおける悪と責任   村上暁子
はじめに
1 悪の因果的責任追及における困難
2 <苦痛を被ること>における悪のあらわれ
3 他者の被る苦痛=悪に対する応答責任
4 「間人間的秩序」としての「倫理」

第13章 私は「私」から出られるのか   中村 佑子
はじめに
1 「私」という閉じ込め
a ある雪の日/b「私」と物質/c 死とは何か/d 論理実証主義に抗して/e 世界の限界
2 私からの脱出としてのケア的主体
a 母とは器である/b 主体が溶け合う世界/c ヤングケアラーの宙吊り感/d 病の人間の言葉

第5部 ともにある
第14章 喪失という攪乱 死別を中心に  中 真生 はじめに
1 あるとないから考える
1.1 あるからないへ/1.2 あるとないのあいだの不均衡/1.3 あるをはみ出していくない
2 世界へのかかわりに与える影響
2.1 世界へのかかわりの前提としての故人/2.2 死別と身体の喪失――共通性と相違
/2.3 馴染みの世界と現実のずれ/2.4 世界へのかかわり方の再構成/2.5 故人
との絆

第15章 不可視性と共同体の倫理 アウグスティヌス「説教」九九における聖書解釈佐藤 真基子
はじめに
1 倫理的正しさを自負する人の盲目性
1.1 自己の存在についての理解の欠如/1.2 目に見えないものを信じる心の欠如
2 共同体と倫理
2.1 規範にしたがって人を排除する分断的思考/2.2 見えない愛、見えない共同体
おわりに、に代えて

第16章 自由と政治 <ただ共にある>ことを護る  斎藤慶典
はじめに
1 根源自由
2 積極的=応答的自由
3 自由の拮抗と共存
4 法の下での消極的=限定的自由
5 法の支配への異義申し立て
6 もう一つの、別の共同体

あとがきにかえて  斎藤慶典

人名索引

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