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吉川浩満「特別な一冊」(群像)/加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』

☆mediopos3428  2024.4.6

三・一一の原発事故は
加藤典洋の「何かを変えた」
その「変化に言葉を与え」た著作(二〇一四年刊)
『人類が永遠に続くのではないとしたら』が
講談社文芸文庫に収められた

その吉川浩満による解説が
「群像 2024年3月号」に転載されている

吉川氏のよればこの本は
加藤典洋の著作のなかでも
「特別な位置を占める一冊」である

代表作としてというよりも
「我々がそこから加藤典洋という
稀有な書き手のスタイルと方法論を学ぶことができる
格好の教材でもあるという意味で、特別な一冊」

加藤典洋の方法論は
「自身の論考において引用した
ふたつのアフォリズムによって
定式化することができる」という

「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ。」

そして
「きみは悪から善をつくるべきだ、
 それ以外には方法がないのだから。」

「まず悪の側につき、その悪を支える理路を
できるかぎり正確に解明したうえで、
それを、善を支える理路へと組み替える作業が必要」
だということである

三・一一の原発事故は
「責任」と「責任をとること」の関係において
「一対一対応の関節がはずれている」

私たちは「リスク社会」という
「新しい局面に入ったかもしれない」

それは加藤氏がこれまで想定外であった
「人類が永遠に続くのではない」という視点に立つことで
「私たちがまるきり考え方を変えなければならない」
ということでもある

加藤氏は「有限性の否認・否定・克服」を行ったのではなく
「もし有限性を肯定したうえで生まれる
新たな価値があるとすれば、それはどのようなものか」
そのことを問いかけた

「有限性の露呈という危機的事態(悪)の成立条件を
できるだけ正確に解明し、そこから、それをもとにして
未来の価値観(善)をつくりだそうとした」のである

以上のように簡略に加藤氏の考察をまとめてみたが
こうしてみると加藤氏自身が
「一見したところ、目新しいことはいわれていないようだが、
しっかり受け止めれば、違う」とも言っているように
重要なのは加藤氏とともにたしかに考えるということなのだ

三・一一を機に行われたこうした加藤氏の考察方法は
いままさに全世界において問題となっている
ワクチン接種による薬害という「危機的事態(悪)」や
ウクライナやイスラエルにおける戦争状態において

それらの「成立条件をできるだけ正確に解明し、
そこから、それをもとにして未来の価値観(善)」を
つくりだすことにおいても有効だろう

まさに私たちは原発事故に匹敵する
あるいはそれ以上の
「新しい局面に入ったかもしれない」からである

■吉川浩満「特別な一冊」(群像 2024年3月号)
 (講談社文芸文庫
  加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』解説を転載)
■加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社 2014/6)

**(吉川浩満「特別な一冊」より)

*「『人類が永遠に続くのではないとしたら』が再刊されることを嬉しく思う。この本は加藤さんの数多い著作の中でも特別な位置を占める一冊であるからだ。

 特別といっても、代表作という意味ではない。代表作ということなら、『テクストから遠く離れて』『小説の未来』などの文藝評論、そして『敗戦後論』『戦後的思考』などの戦後日本論がまず挙げられるはずだ。本書を代表作に推す人は多くないだろう。

 この本が特別であるのは、加藤作品ができあがる過程がここまであからさまに示された著作はほかにないからである。ここには、加藤さんが取り組むべき問題に出会い、学び、考え、書いた軌跡が生々しく記録されている。本書はその内容が意義深いだけでなく、我々がそこから加藤典洋という稀有な書き手のスタイルと方法論を学ぶことができる格好の教材でもあるという意味で、特別な一冊なのである。」

**(吉川浩満「特別な一冊」〜「加藤さんのスタイル」より)

*「「三・一一の原発事故は、私の中の何かを変えた。私はその変化に言葉を与えたいと思っている」————本書は、二〇一一年三月一一日の東日本大震災にともなう福島第一原子力発電所事故をきっかけに描き始められた。もとになった連載は早稲田大学の『加藤ゼミノート』で開始され、その後『新潮』に場所を移し、あいだに二か月の休載を挟んで(・・・)、二〇一四年一月号で完結、六月に単行本として刊行されている。

 大震災と原発事故は誰の目にも明らかな巨大な厄災であるが、加藤さんが目をつけたのは、それからしばらくたって二〇一一年一一月の小さな新聞記事である。損害保険会社でつくる日本原子力保険プールが、福島原発との損害保険契約を打ち切ることに決めたというニュースだ。ここでは、近代社会が長いこと頼りにしてきた「過失と責任という一対一対応の関係の関節が、はずれている」、いま我々は「新しい局面に入ったのかもしれない」、そう加藤さんは直観するのである。

 ここから本書が足を踏み入れるのは、これまでの加藤作品ではお目にかかったことのないようなテーマ群である。」

*「注目すべきは、本書が如実に示す、加藤さんがものを学び、書く際のスタイル(・・・)である。

 加藤さんは『言語表現法講義』(岩波書店、一九九六年)で、次のように述べている。

  (前略)考えることは、書くこと同様、まず感じる、それをなぜ自分は感じたか、と吟味する仕方で、自分を基礎づけることでしか、自分の基礎————疑いえないもの————をもてないからです。しかし、それは、その起点に置かれた「感じ」、いわゆる「実感」が間違いのないものだよいうことではありません。実感は大いに間違うことがあり得る。しかし、にもかかわらず、人はそこからしか正当にははじめられない。そしてそこからはじめることで、一歩一歩、その正しさを確認する仕方で、また、誤りがあればそれを修正することで、ゴールの正しさに到達できる、そう僕は考えます。これは僕個人の考えですが、でもこの僕の考えは、文章を書くという経験から割り出されています。書くことは、こういう場所で、こういう形で、考えることと出会っているのです。(一三七−一三八頁)

 本書において特筆すべきは、ここで述べられていることを加藤さん自身が実践するさまが生々しいまでの示された貴重なドキュメントになっているという点である。

**(吉川浩満「特別な一冊」〜「加藤さんの方法論」より)

*「私の考えでは、加藤さんの方法論は、かつて加藤さんが自身の論考において引用したふたつのアフォリズムによって定式化することができる(・・・)。ひとつめはこうだ。

  君と世界の戦いでは、世界に支援せよ。

 フランツ・カフカが残した断章のひとつである。(・・・)

 謎めいた言葉ではある。常識とは正反対のことを述べているようにも見える。

 加藤さんは、それまで長いあいだ自分の心に住まわせてきたというカフカのアフォリズムの意義を得心する。そしてカフカとともに、こう問いかけるのだ。ときにニンゲンには、自分の世界が自分とは異質なものによって浸食されて、ついには自分が当の異物そのものになりかけている。そのようなかたちで世界が立ち現れることがあるのではないか。もし事態がそのようなものであるとしたら、その事態をしかるべく描くためには、自分の味方ではなく世界の味方をしなければならないのではないか、と。

 これが加藤さんの批評を導く基本方針である。しかしいったいどのようにしたら「世界に支援」することが果たされるのだろうか。これに答えを与えるのが、ふたつめのアフォリズムである、

  きみは悪から善をつくるべきだ、それ以外には方法がないのだから。

 「敗戦後論」(・・・)の冒頭に掲げられたロバート・P・ウォーレンの言葉である。この論考で加藤さんは、先の大戦で死んだ日本の兵士や市民たちをまず悼むこと、それなしには戦後日本が抱えてきた「ねじれ」は解消されないと主張した。戦後日本において、まさしく「悪」の側に位置づけられてきた侵略国家。大日本帝国の死者を悼むことを通じて、「善」すなわちアジアの二千万の死者への謝罪にいたる道は可能かと問うたのである。戦後日本の知識層の常識とは逆方向の進み行きに、左右両派から激しい批判を浴びたのは周知の通りである。

 なぜ、「悪から善をつくる」ことが「世界に支援」することにつながるのか。そもそも「悪から善をつくる」とはどういうことなのか。

(・・・)

 まず、善であれ悪であれ、我々がなにかをつくりだそうとするとき、そのための材料は世界のどこかからもってこなくてはならない。なにか事をなすとき、その主語は私であるにせよ、活動の材料は世界から調達する必要がある。料理するには食材が、油絵を描くには絵具が記事を書くには題材が要るように。

 さて。世界が変化するとき、すなわち君の世界がこれまでの自分とは異質なものによって浸食されるとき、君と世界とは戦闘状態に入る。その際、世界は必ず悪として君の前に現れるだろう。世界が悪として現れるといっても、それは世界が本来的に悪であるからでも、君が本来的に善であるからでもない。理由はただ、世界が君と対立するかたちで現れることによる。世界がどのようであろうとも、また君がどのようであろうとも、君の前で世界は悪として現れるほかない。

 そうなると必然的に、善をつくりだそうとするにしても、君はそれを悪のほうから出発してつくりだすしかなくなる。もし、君があくまでも自分を善の側に於いて悪を糾弾することに固執するならば、それは世界と向きあうことからの逃避となり、戦いはポーズだけの詐術へと堕すことになる。そうではなく、まず悪の側につき、その悪を支える理路をできるかぎり正確に解明したうえで、それを、善を支える理路へと組み替える作業が必要なのだ。このように考えると、悪から善をつくりだすべきだという言明は、そのじつ謎めいた逆接でもなんでもない。むしろ当然のようになすべき事柄なのである。」

*「それでは、加藤さんは本書においてどのような戦いを展開したのだろうか。此の天についても本書は模範的である。三・一一をきっかけとして加藤さんは、我々の社会が産業リスクを制御できなくなる、すなわち世界の有限性が露呈するという危機的事態を重く受け止めた。しかし加藤さんが行ったのは有限性の否認・否定・克服ではない。逆に、もし有限性を肯定したうえで生まれる新たな価値があるとすれば、それはどのようなものかと問うたのである。有限性の露呈という危機的事態(悪)の成立条件をできるだけ正確に解明し、そこから、それをもとにして未来の価値観(善)をつくりだそうとしたわけだ。本書において加藤さっは、そのような仕方で「世界に支援」したのだった。」

**(吉川浩満「特別な一冊」〜「君たちはどう生きるか」より)

*「「もし人類は永遠に続くのではないとしたら・・・・・・/私たちはどのように生きるべきか、どのような新しい価値観によって生きるべきか?」————戦後日本論でキャリアをスタートさせた加藤さんは、本書において加藤典洋史上最大の、「類比するものがない」ような問題に取り組み、それに一定の答えを与えた。

 無粋を承知でその答えを一四〇字程度にまとめるなら、次のようにでもなるだろうか。環境危機と産業リスクの時代、我々は世界の有限性に直面している。この有限性を肯定するとき、近代社会を駆動してきた我々の欲望もその意味を変える。欲望は「したい」だけでなく「しないのもいいな」も吹くんで薄まりつつ広がるだろう。この薄まった欲望こそ、希望の別名なのではないか————。」

*「本書をしっかり受けとるには、加藤さんがどのように戦ったのかを、加藤さんとともに並走して確かめてみるしかない。つまり、この本を最初から最後まで加藤さんとともに考え、ときには疑念や逡巡を表明しながら、実際に読んでみることだ。そうすると、おぴにほんにもエビデンスにも還元できない。読者それぞれの「君と世界の戦い」がはじまることになる。加藤さんの批評はつねにそういうものであったし、本書もまたそのように書かれている。」

**(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』〜「序 モンスターと穴ぼこ」より)

*「三・一一の原発事故は、私の中の何かを変えた。私はその変化に言葉を与えたいと思っている。」

「このたびの原発事故はこれまでにない新しい正確があるというのが、この事故が起こり、事態の推移を見ているうちに私にやってきた直観だ。」

「なぜ私は未来のことをそれほど考えないですんでいたのだろう。
 それは誰かが未来のことは考えてくれていると頭の隅で感じていたからだろうか。
 だとすれば、誰がそのことを引き受けてくれていたのか。
 その誰かは、どこにいるのか。」

*「保険とは何か、リスクとは何か、産業社会のシステムがどのように作られているいのか、などということが私のなかに疑問として浮かびあがってきたのは、このときからである。」

「保険の打ち切りとは、何だろうか。
 ここでも話は、先に少しだけ見たあの「責任」と「責任をとれない」をめぐる問題に関係している。」

「何が起こったのか。何が予想外だったのか。
 ここでは、「責任」と「責任をとること」という連関の間で、一対一対応の関節がはずれている。
 ここでは、責任をとる、果たすとは、人が何か過失を犯したとき、それに「見合う」代償=負債を何らかの仕方で「弁済」することだ。そのとき、人は「代価を支払った」、つまり「責任をとった」と見なされる。「責任を果たす」とは。人々に、これをもって「責任を果たした」と見なされること、承認を受けることなのだ。

(・・・)

 そうだとしたら、この間接のはずれは、システムの保全にとって容易ならぬ事態、危機的な事態だということになるだろう。」
*「産業と技術、それが約束する無限の人間の可能性、そうしたものへの信頼こそが、共産主義思想の次の未来お引き受け手だった・産業社会への信頼が私たちを支えてきたのだが。福島第一は、いち早く、その産業社会から外に出た。
 どこに行ったのか。
 ウルリヒ・ベックの概念を用いれば「リスク社会」という、もうひとつの領域に入ったのだ。」

**(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』〜「1 ポトモダンとエコロジー」より)

*「いま自分たちが新しい局面に入ったかもしれないという私の判断は、正しいだろうか。
 根拠があるとしたらそれは、どのようなことだろう。」

**(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』〜「9 技術から人間へ」より)

*「私たちはじつは、一九六二年、環境の汚染の可能性が指摘され、三〇年後、「成長の限界」が超えられていると知らされた一九二二年までのあいだに、すでにどこかの時点で、「有限性の時代」に入っていたのかもしれない。そして知らないのは、私たちだけだったのかもしれない。」

**(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』〜「10 しないことができrことの彼方」より)

*「私は当初、技術革新とは、産業社会の無限性信仰の中核に位置し、無限性の淵源をなすと考えていた。そのことは間違っていないのだが、無限性がそれ自体として有限性の方向に向かうこと、向かううることを、想定していなかった。しかし、事実が示していることは何かといえば、技術革新は、有限性を前にしてやみくもにこれを克服しようとするだけの一方向なものではなかった。」

*「ここからやってくるのは、ある力能の変容の感触である。私たちを駆動してきた力の変容の予兆であり、また、人の生き方、感じ方の広がりの予感ともいうべきものである。」

*「自由とは何か。人が自由を感じるのは、欲望をかなえることによってでもあるが、またときに、欲望をかなえることから自由であることによってでもある。このばあい、欲望にとらわれないとは、何にも欲望を感じないということでも、欲望を否定するということでもない。欲望と、してもよいがしなくてもよい、することもできるがしないこともできる、コンティンジェント(偶発的契機)な関係を保ということである。ここからわかるように、コンティンジェントであることのうちには、人がコンティンジェントであろうとすると、そこに「リスク」が入ってくるという本質がある。そしてそれがいま、通信情報革命の第二世代が、インターネットの関係想像力に促され、新しい公共性を創出しながら私たちに示唆していることでもあるだろう。それは、欲望からの離隔ではない。欲望にとらわれるよりもより強い、欲望との関係の創出である。欲望をかなえることから得られる自由の先には、欲望に対してコンティンジェントになることでえられる自由がある。というより、ほんらいなら「欲望に対するコンティンジェントな自由」、イエスのいう、自由な欲望があって、その先に、この「欲望をかなえること」があるべきなのである。」

**(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』〜「11 人間といきもの」より)

*「人類が有限だとしたら。
 そして永遠に続くのではないとしたら。
 そのこともまた、そのことじたいで、人間について、私たちがまるきり考え方を変えなければならないことを、示唆しているのではないだろうか。」

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