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森岡正博+古田徹也「生きる意味を問うとき、私たちは何を考えているのか」・鈴木生郎「人生の意味と物語」(『現代思想 2024年3月号』)/『人生の意味の哲学入門』

☆mediopos3393  2024.3.2

現代思想 2024年3月号の特集は
「人生の意味の哲学」

「人生の意味」を論じるということは
道徳の教科書のテーマのようでもあり
違和感を持たざるを得ない
そしてさらにそれが「哲学」となると
はたしてそれが論じられることに
どんな「意味」があるのだろうと思えたりもする

編集後記にも
「「人生の意味の哲学」という言葉は
どことなくつかみどころがなく聞こえる」とあり
「しかし人間が反省的意識をもつ生きものであるかぎり、
誰であろうと生きていることの意味への問いから
逃れることはできない」とある

巻頭に置かれている
森岡正博と古田徹也の討議
「生きる意味を問うとき、私たちは何を考えているのか」では

一八世紀後期以降の近代化によって
宗教的権威によって「人生の意味」を与えることが難しくなり
「人間を超える大きな存在に頼る形で解決できないのだとしたら」
「自分で意味を作るか、
意味なんかないという開き直りで生きるか、どちらしても
根本的な不安にぶつかってしまう」ことになったという

そんななかで「人生の意味」への問いが
さまざまに問われるようになったというわけだが

論考のひとつ
鈴木生郎「人生の意味と物語」では

「『人生の意味の哲学入門』の第一章で村山達也は、
人生の意味の問いを「呪われた問い」と評したが、
これはまさに言い得て妙である」とし

さらに「私は、現在の人生の意味の哲学において
しばしば見られる傾向、特に「人生の意味」についての
もっとも基本的な理解の仕方を特定し、
その理解に基づいて人生の意味についての
体系的な理論を構築しようとする傾向(・・・)に
懐疑的である」としている

そうすることで「人生がもちうる価値の種類を
「減らす」ことに繋がりかねない」からだというが

たしかに「意味」は「価値」に結びつけられやすく
それらが特定されてしまうと
「人生の意味の哲学」は悪くすると
まさにあらかじめ与えられた価値に基づいた
道徳の教科書のようになってしまう

たしかに人生の意味への問いは
「呪われた問い」となってしまうから

そこでまず問われねばならないのは
おそらく「意味とはなにか」ということだろう

意味があるのか
意味がないのか
というときの「意味」とはなにか

意味があるかないかを判断するとき
それはある価値付けされた目的に対して
有効かそうでないかということでもあるが

意味があるかないかを超えた視点では
特定の意味付けから自由な営為がそこには見出され得る

そのとき「意味」をどのようにとらえればいいのか
意味は言葉と結びつき
それぞれの言葉は意味を規定するが
反面その意味から逃れようともする

例えば「生きがい」という言葉があり
それをもつことが
人生の意味付けに重要となることも多いだろうが
むしろそこに「生きがいがなければ生きられないのか」
「生きがいから離れた生はないのか」
といった問いも生まれる

上記論考で鈴木生郎は
「人生がもちうる重要な価値の種類を
「増やす」ことを目指すべきではないだろうか。」
と示唆しているが

さらにいえばやはり
「意味」が多様性へ
さらには「意味そのものへの問い」へと開かれること
そしてそれがそれぞれの「生」を
スポイルするものとはならないようにすることだろう

■森岡正博+古田徹也
 「生きる意味を問うとき、私たちは何を考えているのか」
 鈴木生郎「人生の意味と物語」
(『現代思想 2024年3月号 特集=人生の意味の哲学』青土社 2024/2)
■森岡正博・蔵田伸雄 編『人生の意味の哲学入門』(春秋社 2023/12)

*(『現代思想 2024年3月号 特集=人生の意味の哲学』〜Sn「編集後記」より)

「「人生の意味の哲学」という言葉はどことなくつかみどころがなく聞こえる。その理由はさまざまに考えられるだろう。この問いに徹底的に取り組んだニーチェのような思想家が歴史的・文献学的研究の対象となって久しく、もはたそれほど新鮮味が感じられないことや、こおような問いがあまりに初学者的な問題意識に思われ、なるべく早くそのような段階を脱して、より専門的な研究に移行するべきだなどと考える風潮がもしかしたらあるのかもしれない。しかし人間が反省的意識をもつ生きものであるかぎり、誰であろうと生きていることの意味への問いから逃れることはできない。」

*(『現代思想 2024年3月号 特集=人生の意味の哲学』〜
  森岡正博+古田徹也「生きる意味を問うとき、私たちは何を考えているのか」より)

「古田/森岡さんの場合、人の生の意味とは何かを、人一般というよりも「自分にとっての」あるいは「自分込みの」意味を考えるというのが一貫していると思います。人生の意味に関しては、主観的な満足といったたぐいの価値によって決まるとする主観説、客観的に人生の意味を捉えようとする客観説、あるいは両者のハイブリッド説が今の分析系の議論のベースにあります。森岡さんの場合は、このハイブリッドのところに独在性を置く。この自分の人生の意味は何かという問いを手放さない形で、しかも哲学という場で議論することはどういう形で可能なのかという関心です。
 僕自身の場合は、どちらかというと無意味————しかも人間ではなく存在の無意味性————から関心を持ちました。存在の無意味性というと堅苦しいですが、それこそ思春期ぐらいのときに少なからぬ人が抱えるような、なぜ世界が————宇宙でも地球でもいいのですが————存在するのだろうという問いです。しかもこの問いは、意味なんてないのではないかという思いと裏腹です。つまり、本当に何か意味があるのではないかと思って問うているのではなく、どうやら意味はないようだという認識のもとに問うている。例えば学校では、これからの夢や目的、進路といったものがずっと話題になるけれど、そもそもこの世界が存在することに意味なんてないのではないか、という思いが最初です。そして、そういう問いを持つことは、人が生きていることにそもそも意味はないのではないかという問いに波及していく。人生の意味というテーマは、そういう問いを思い出させるところがあり、僕自身の関心の基本はそこなのだと思います。

 森岡/「なぜ世界があるのか」という大きな問いと、「世界があることに意味がないのであれば人生の意味もないのでないか」という漠然とした問いがベースにあるからこそ、人生の意味についての深い問いが初めて成りたつのでしょうね・

 古田/村山達也さんが「人生の意味の短い歴史」(『中央公論』二〇二一年一一月号)で指摘されていたのは、「人生の意味」という言葉を用いた哲学的問いは、一八世紀末から一九世紀にかけて生まれた比較的新しいものだということです。村山さんによれば、ある種の宗教的権威がどんどん崩れていき、それまで神によって問うまでもなく保障されていたはずの意味が不安定になり、また近代の産業社会が発達し、自分の仕事や労働、生活に意味付けすることが難しくなった。時代の変化により意味を支える土台が崩れていき、虚無的な感覚にとらわれる中で、自分の人生の意味に対して懐疑も吹くんだ問いがより表立って出てきた。村山さんの議論をふまえると、なぜ「人生の意味」という言葉が哲学のテーマとして特に明確な形でせり出してきたのかに関しては、さしあたりそういうことは言えそうです。

 森岡/一八世紀後期以降の近代化の一つの帰結として、人間が自分の生きる意味を考えないといけなくなったというのは大きなことです。それは西洋だけではなく、明治時代から西洋化・近代化した日本も同じ問いを抱えました。ここ一五〇年から二〇〇年ぐらいの間、近代化していくあらゆる社会の中でそういう問いが一気に浮上してきて、今に至るという感じになっているのでしょうね。だから人生の意味の問いは洋の東西を問わず、近代的な原理で動く社会が必然的に抱えてしまうものだと言えます。

 古田/自分で人生の意味を創り出さないといけないという時点ですでにちょっと嘘臭さが入り込んでしまうのが、この問題の非常に厄介なところだと思います。

 森岡/人間を超える大きな存在に頼る形で解決できないのだとしたら難しいですよね。自分で意味を作るか、意味なんかないという開き直りで生きるか、どちらしても根本的な不安にぶつかってしまうのではないでしょうか。」

「————「先ほど社会学や文化人類学にも言及されましたが、「人生の意味の人類学」や「人生の意味の社会学」、「人生の意味の学問」ではなくて、とりわけ「人生の意味の哲学」であるところの意味はどこにあるのでしょうか。

 森岡/一つ目は、古田さんがおっしゃったうように、参与観察にせよ、世界に向かって何かの働きかけをすることによって、それに主体的に関わっているわたしがどう変容してしまうのか、そういう面に着目するのが本来の意味で哲学らしいことだと私は思います。私が何ものなのかが分かるというか、研究しているこの私に何がフィードバックされてきて、それによって私がどうなるのか、そしてさらに私を取り囲む関係性がどう変わるのか。「汝自身を知れ」というところに戻っていくのは哲学らしいですね。

(・・・)

 古田/哲学は、観察しに行かないと見えてこないもの以外のものも扱う。あるいは、そういうものを進んで扱う。例えば、たんに「歩く」ことや「読む」こと、「話す」ことなどです。それから、哲学は臆面もなくいろいろな領域を横断しながら問題を多面的に見るということがあります。人類学だろうが社会学だろうが、あるいは言語学だろうが、法学だろうが、様々なディシプリンの間にあるというのも一つのあり方かもしれません。

 森岡/私からの二つ目は現象学的な人生の意味の哲学のあり方があると思っています。個別のある独特な状況に置かれたときに、人はどのような身心の構えでもってその状況や他人に向かうのか、そういうことを明らかにする。
(・・・)
 三つ目は概念分析だと思います。例えば人生の意味についての調査研究の際に、人々が使っている生(なま)の言葉の意味を概念的な次元で捉えなおしてみる。そのうえで、研究者たちが使っている概念はそれでいいのか、別の概念と比べたらどう違うのか、もっといい概念はないのかというふうに概念の取り扱うを考えていく。

(・・・)

 古田/加えて言うと、人生の意味やそれに関連する幸福など諸々の概念をめぐって言葉を紡いできた哲学書それ自体も、まさに主要な題材でしょう。人生の意味の哲学という名で呼ばれていなくても、それに関連する探求は古くから始まっており、そこには大変な蓄積があります。それらをじっくり読むことも当然、哲学の活動にほかなりません。」

*(『現代思想 2024年3月号 特集=人生の意味の哲学』〜
   鈴木生郎「人生の意味と物語」より)

*「『人生の意味の哲学入門』の第一章で村山達也は、人生の意味の問いを「呪われた問い」と評したが、これはまさに言い得て妙である。少なくない人々が、人生のさまざまな場面でこうした問いに「呪われる」。つまり、否応なく「自分)(ないし特定の個人)の人生に意味があるのか」という問いに引きずり込まれ、答えることを強いられる。こうした問題に答えられなければ、行き続けることが難しいと感じることさえあるかもしれない。もちろん、この呪いと無縁のまま生を終える人もいるだろう。しかし、その幸運に恵まれない馬合には、私たちはこの呪いに向きあわざるをえない。
 他方で、村山も含めこれまで多くの論者が————人生の意味を問うことは有益だと考える論者も無益だと考える論者のどちらも————指摘してきたように、この問いはひどく曖昧で、捉えどころのないものでもある。この曖昧さは、人生の意味について悩む多くの人々にも、さらには、人生の意味について論じる哲学者にもさまざまな問題を惹き起こす。ここでは、ごく典型的な問題だと私が考えるものを指摘しておこう。

 第一に、この問いの曖昧さは、この問いによって問われていることが実際には多様であることを覆い隠してしまう。
(・・・)
 第二に、人生の意味の問いが曖昧であるために、人はときに自分が問いたい/問うべく問いを誤認し、間違った方向へと考えを進めてしまうことがある。(・・・)
 さらに言えば、これと同じ問題は、人生の意味について探求する哲学者同士の間にもしばしば生じている————少なくとも私にはそう思われる。

(・・・)

 ではこうした問題に対処するために私たちはどうすればよいのだろうか。私が適切だと考える対処法は以下のものである。
 まず、私たちは、人生の意味の問いを単一の問いとみなさないほうがよい。
(・・・)
 次に、私たちが人生の意味の問いを考えるときには、(1)自分が「人生に意味があること」をどのように理解しているのか、(2)自分がそうした理解に基づいて、人生の意味の問いを検討することの目的が何か————こうした目的は、(自分の理解に基づく)意味ある人生を生きたいという実践的なものでもありうるし、(自分の理解に基づく)人生の意味についてさらに深く理解したいという理論的なものでもありうる————といったことを、可能なかぎり明確にするべきである。」

*「私は、現在の人生の意味の哲学においてしばしば見られる傾向、特に「人生の意味」についてのもっとも基本的な理解の仕方を特定し、その理解に基づいて人生の意味についての体系的な理論を構築しようとする傾向(・・・)に懐疑的である。
 その理由の一つは、人々が人生の意味について考えているときには、もっと多様なことが問題になっているように思われることである。それにもかかわらず特定の理解の仕方のみに注目することは、こうした多様な問題に向きあうことを妨げる。(・・・)
 もう一つの理由は、「人生の意味」についての特定の理解にのみ注目することは、人生がもちうる価値の種類を「減らす」ことに繋がりかねないことである。「人生の意味」に単一の理解の仕方しかないならば、私たちの人生は、その理解においてのみ「意味がある」か「意味がない」と判断されることにならざるをえない。さらに、もしそこで人生に意味がないと判断されてしまうならば、その人生は、————幸福のような別の価値をもちうるにせよ————人生の意味に関わる価値をもたないことになる。しかし、私にはこうした自体がやや奇妙なものに感じられる。私たちにとって人生に価値があることが重要であるならば、むしろ、私たちの人生がもちうる重要な価値の種類を「増やす」ことを目指すべきではないだろうか。」

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