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ロイ・リチャード・グリンカー『誰も正常ではない――スティグマは作られ、作り変えられる』

☆mediopos2749  2022.5.28

「正常」がつくられると
そのことではじめて
「異常」が生まれてくる

「正しさ」が教えられると
そのことではじめて
「間違い」が生まれてくるように

「病名」がつけられると
そのことではじめて
「病気」が生まれてくるように

「正常」は
だれがつくりだしているのだろう
それは「専門家」たちだ
「権威」といってもいい

多くのひとは
「権威」のいうことを疑わないから
「異常」であること
「普通でないこと」を恐れ
それを排除しようとする

「病気」だとされると
どうにかしてじぶんを
「健康」にしようとする

あるいは心身を問わず
「異常」とされたひとたちを
「普通」の人たちから隔離しようとする

「正しいこと」を教えこまれると
「正しくないこと」をするひとを糾弾しようとする

専門家の決める「正常」は
専門家たちの文脈のなかで決められるが
そこに絶対的な根拠があるわけではない

科学や医学はつねにその権威で
「異常」とすべきもののカテゴリーを作り
社会的・文化的に教育してきている
そしてそれを刷り込んでいくのが学校であり
政治でありその顔色をうかがうマスメディアである

必ずしも権威が不要だというのではないが
権威を問いなおす眼を持てないとき
そのときどきの「空気」を生きるだけになる
そしてじぶんがなにをしているのかわからない

じぶんでじぶんを真面目だと
そう思っているひとほどそうなりがちだ
真面目は不真面目なものを排することで成立する
善が悪を排することで成立するように
「差別(意識)」もそこから生まれる

なんらかの「正しさ」が無意味だというのではない
じぶんがその基準をどこに置いていて
それがどこからやってきているのかを
意識しておく必要があるということだ
そのとき「正しさ」は常に多視点的にならざるを得ず
そこにある歴史や文化のことを知らないではいられなくなる

「普通」などということはどこにもない
じぶんを「正常」で「普通」だと思いこむところから
いろんな錯誤や差別ははじまっていく

■ロイ・リチャード・グリンカー(高橋洋 訳)
 『誰も正常ではない――スティグマは作られ、作り変えられる』
 ( みすず書房 2022/5)

(「はじめに」より)

「スティグマは、身体にではなく文化に刻まれており、社会の内部で学習されていくプロセスなのである。」

「学問の世界においてさえ、スティグマはさまざまな恐れ、偏見、汚辱を濃縮して一語にした、あいまいな規定概念と化している。」

「「スティグマ」という言葉は、実のところ営利な道具で身体に刻まれたしるしや烙印を意味する古代ギリシャ語に由来し、またその複数形 [stigmata] は、十字架にかけられたキリストの身体の傷に、これまで長いあいだ結びつけられてきた。しかし現代では、スティグマはそれとは別の意味を持つようになった。精神病のスティグマは、次のような場合に生じる。精神状態が自己のアイデンティティを規定する場合、人々が誰かを欠陥があり無能と見なす場合、誰かが他者にとって不可視になる場合、人々が誰かの苦境を見て本人の責任ととらえる場合などである。それは、社会が人間の差異に特殊な光を投げかけるときに生み出される、望まれない影法師である。」

「スティグマ形成の根幹をなす歴史的経緯や文化的力について、深く掘り下げて研究した学者はきわめて少ない。スティグマはすでに、そして研究の焦点を、「レッテル貼りやステレオタイプ化がいかに患者を疎外するのか」「精神病者がいかに差別され地位を失っているのか」「いかに個人が必要に迫られて、可能な限り規範に同化し、苦痛を表に出さないようにする、あるいは引き籠もるなどして、スティグマをもたらしうる自分の特徴を覆い隠すことで、自己の差異性を管理しているのか」に置いてきたのだ。ところが、なぜ特定の種類のスティグマが生じたのか、あるいはいかなる形態の力がスティグマを継続させているのかという点になると、私たちはあまり理解していない。」

「顕微鏡を覗き込んで精神病を発見したり、実験室で検証したりすることなどできない。それはおそらく未来永劫変わらないだろう。精神病とは、遺伝子、養育、富、貧困、友人関係、教育など、私たちの想像を超えるほど多数の要因によって形成された経験なのだ。だが、NIMHの元所長のような著名なメンタルヘルスの専門家は、いつの日か精神病の正確な生物学的要因を発見して、より効果的な治療を考案し、その結果としてスティグマを緩和することができると考えている。」

「科学者は、ほとんどの精神病に関して、その原因をわずかしか知らないばかりでなく、精神病はその定義からして既知の原因を欠く疾病なのである。それは本人の生活における多大な苦痛や障害に結びついた一連の行動パターンとしてとらえられる。

(…)

もう一つ指摘しておきたいのは、がんやエイズとは異なり。いかなるものであれ生物学的説明が、神経障害や精神障害のスティグマの緩和に寄与したという証拠はまったく得られていない点だ。」

「読者は、私が精神医学の専門用語「精神障害(mental disorder)」等ではなく、「精神病(mental illness)」という用語を使ってきたことに気づいたのではないか。その理由は次のとおりである。第一に「障害(disorder)」という言い方は、「秩序だった(ordered)」心などというものが存在することを示唆する。秩序だった心がいかなるものかは、まったくもって判然としないにもかかわらず、また障害という言葉は、精神病者を無秩序な、あるいは崩壊した心を持つ人としてとらえる古色蒼然たる特徴づけを思い出させ、精神疾患をめぐって数々の軽蔑的な一般用語の使用を促す。(…)第二に、「障害」は身体や心の系統的な正常機能を阻害する疾患を意味するのに対し、「病(illness)」は病気や障害の経験を含意する。

(…)

 つまるところ精神病は、私たちが科学や医学に期待するような合理的で客観的で非個人的な疾患モデルには決して還元できないだろう。これは精神医学が失敗したからではなく、私たちが医学のいかなる分野にも存在しない何かを求めているからだ。数世紀前には技芸(アート)と見なされていた医学も、いまでは数字や画像を、あたかもそれが真理だと言わんばかりにまとまっている。これは間違っている。小児科医は、何が成長や発達を「正常な」ものにするかを見積もり、心臓専門家は血圧値が高いか、正常か、低いかを判断し、内科医は「アルコール飲料は週にどの程度飲めば適量なのか」「『健康』のためには一日何時間運動すればよいのか」などといった生活様式に関する助言をしている。たとえあ二〇二〇年の時点で高血圧として診断される血圧値は、低血圧、正常、高血圧を示す絶対的な数値が存在するからではなく、その年に医師たちがたまたま「正常」と見なすことで同意している数値と比較されることによってのみ客観的指標として考慮される。実のところ高血圧は疾患ですらなく、何らかの疾患かかるリスクを示す尺度にすぎない。(…)

 このように精神医学は、実際には存在しない偶像をモデルにしている。」

(「結論——スペクトラムについて」より)

「二〇世紀中、メンタルヘルスの専門家、患者、活動家、社会科学者は、スティグマの基盤をなすさまざまな過程に繰り返し挑戦してきた。そして、精神病を想像上のものと現実のものに分ける必要はないこと、精神の病いと身体の病いを区別する根拠はないこと、精神病が必ずしも本人の能力奪う「異常」ではないことを示した。

 もちろん、スティグマを根絶することは不可能である。どんな社会も、侮辱や周縁化の対象には事欠かないだろう。それでも私たちは、それに抗い、名前をつけ、それを無効化し、作り直すことができる。スティグマはモノではなくプロセスであり、したがって私たちは、その流れを変えることができるのだ。」

「私たちは疾患と文化を分けて考えようとする何世紀にもわたる無益な格闘に結びついている「故障した脳」モデルを捨て去るべきだ。私は、精神病の理解や治療に向けられた神経科学的アプローチが、疾病の経験の複雑さや私たちの人格を脳に還元することでスティグマを恒久化してしまうのではないかと懸念している。能研究がいつの日か新たな治療を可能にすることを疑っているのではない。そうではなく、脳研究がケアに対する障害を実際に取り除き、スティグマによって引き起こされる苦痛を軽減することができるか否かを問うているのである。」

【目次】
はじめに──ベドラムから戻る道

第I部 資本主義
第1章 「自立」のイデオロギー
第2章 精神病の発明
第3章 分裂した身体──性と分類
第4章 分裂した心

第II部 戦争
第5章 戦争のさまざまな帰結
第6章 祖父がフロイトから得たもの
第7章 戦争はやさし
第8章 ノーマとノーマン
第9章 忘れられた戦争からベトナム戦争へ
第10章 心的外傷後ストレス障害
第11章 病気の予期

第III部 身体と心
第12章 病気の可視化
第13章 他のどんな病気とも変わらない病気?
第14章 ECTという魔法の杖
第15章 心について話す身体
第16章 ネパールで身体と心の橋渡しをする
第17章 リスクを負うことの尊厳

結論──スペクトラムについて

謝辞
訳者あとがき
原注
索引

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