見出し画像

松樟太郎『語尾砂漠第1回 だョ』((2022年4月21日) (「みんなのミシマガジン」より)

☆mediopos2720 2022.4.28

日本語の魅力は
「語尾」にこそ詰め込まれているということで
「語尾砂漠」(ごびさばく)の連載がはじまる
はたしてその砂漠に
どんな魅力が埋もれているのか

日本語は文の最後で
意味が逆転することさえある
「○○は□□」のあとに
「である」も来れば
「ではない」も来る

曖昧といえば曖昧だが
最後に意味ががらっと変わるというのも
大どんでん返しのようで面白くもある

語尾しだいで
話し言葉にも書き言葉にもなる

文章になると「だ・である」はよく使われるが
「だ・である」で話す人はいない

個人的にも書き言葉にするとき
「です・ます」にするか「だ・である」にするか
迷うことも多いけれど
少し硬めに書こうとすれば
どこか不自然であるにもかかわらず
「だ・である」という語尾になることも多い

文末に「ね」をつけるだけで
全体のイメージが変わってくることもある

英語では語尾のことを「フレクション」と言うそうだが
直訳すると「屈曲」
まさに意味を「屈曲」させる力を
この「語尾」はもっている

松樟太郎は
「犬だワン」「ネコだニャー」「象だゾウ」
といったこの「ワン」「ニャー」「ゾウ」といった語尾を
「魔改造系語尾」と名付けている
日本語では違和感はなくふつうに遊びで使ったりもするが
こういう表現は日本語以外にできるのだろうか

連載の1回目ということで
「だョ」がとりあげられている

たしかにこの「ョ」は「よ」でも「ょ」でもない
カタカナ表記の「ョ」

こうしたカタカナ表記は
ほかにも「・・・だゼ」「・・・だモン」
といった表現が
90年代くらいまでは使われていたようだが
おそらく携帯・スマホメールの普及もあって
たしかに使われなくなってきているようだ

こうした「語尾」の数々は
おそらく日本語からほかの言語に翻訳することは
若干のニュアンスを伝える以外にはむずかしそうだ
しかも文の最後に「意味を「屈曲」させる」というのは
日本語ならではの表現のようなので
せっかく日本語を使って生きているので
この際いろんな「語尾」のことを再認識しながら遊んでみたい

「語尾砂漠」はとてもユニークで楽しい
いろんな発見に満ちた場所らしい

ちなみに日本語で面白いのは
語尾(ごび)もそうだが
ルビも面白い
ルビさえふればなんとでも読ませられる

それと音訓読みがある
養老孟司さんがそのことをフランス人に言ったら
「日本語は悪魔の言葉です」と言われたそうだ
ダブルスタンダードのようなものでもあるが
平気でちっぽけな論理なんか吹き飛ばすようなところがある

その意味でいえば
語尾もルビも音訓読みも
悪魔の言葉の世界のものなのかもしれない
でもそんな悪魔がいるから日本語は豊かなのだ
天使だけの言葉など面白くもない

■松樟太郎『語尾砂漠第1回 だョ』((2022年4月21日)
 (「みんなのミシマガジン」より)

(「「だ・である」口調で話す人はいない」より)

「文章を扱う仕事をしていると、どうしても意識するのが「語尾」です。
 たとえば、ある文章の語尾を「です」とするか、「ですね」とするかで、ニュアンスはかなり変わってきます。
 「ダメです」というと、かなりきっぱりと否定された感じになりますが、「ダメですね」というと、やんわりと否定されている感じになります。どんなニュアンスをつけたいかで、語尾を微調整する必要があります。
 そもそも語尾を「だ・である」にするか、「です・ます」にするかで、印象は全然違ってきます。
 例えばインタビュー記事を作る時、インタビュー相手が「だ・である」口調で話すことなどまずありません。そんな人がいたら結構な変人です。
 でも、大御所系と呼ばれる人のインタビューほどつい、「だ・である」でまとめたくなるのがインタビュアーの性。その結果、本当はとても丁寧に話す方なのに、世間的にこわもてだと思われている方を何人か知っています。語尾は人のイメージを左右するのです。」

(「日本語の魅力は語尾にあり」より)

「それだけでなく、語尾をいじることで意味そのものが変わってくることもあります。
 私が愛読する『斉木楠雄のψ難』というマンガがあるのですが、ここに出てくるちょっと痛い女の子が合コンで、
「彼氏は、いま......せん!」
 みたいな自己紹介をしていてドン引きされるシーンがあります。読んでいるこちらもちょっとイラっとする秀逸なシーンなのですが、これこそまさに、語尾にて意味をがらっと変えられる日本語だからこそできる芸当。」

「語尾のことを英語では「フレクション」と言います。直訳すると「屈曲」で、英文法ではいわゆる語尾変化(wantがwantedになったりするもの)を指しますが、まさに意味を「屈曲」させることができるのが、語尾の魔力なのです。
 日本語の魅力はまさにこの「語尾」にこそ詰め込まれている。
 半ば本気でそう思っています。」

(「魔改造系語尾」より)

「ですが、この連載で追求したいと思っているのは、そういうまじめな語尾ではなく、なんというか「なんでそうなった」系の語尾です。
 たとえば、「ザマス」。スネ夫のお母さんを始め、お金持ちマダムが使いがちなことで知られるこの語尾ですが、残念ながら私はこれまで、一回も実際に聞いたことがありません。
 あるいは、下っ端が親分に対して使いがちな「ヤンス」。これもまた、現実に聞いたことがないというか、実際に親分に対して「ヤンス」などという語尾を使ったら、「バカにしてんのか」と思われるでしょう。」

「さらに、日本では動物すら語尾を活用します。
 絵本やマンガの中で、犬は自分のことを「犬だワン」と言い、ネコは「ネコだニャー」と言う。なぜ日本語を流暢に話せているのに、あえて語尾に「ワン」とか「ニャー」をつけるのか。「犬だ」「ネコだ」で十分意味は通じているのに。自分の中の野生がそうさせるのでしょうか。
 犬やネコは鳴き声だからまだいいとして、「象だゾウ」などに至っては、鳴き声ですらありません。人間が「人間だヒト」と言っているようなもので、アイデンティティを主張し過ぎの感が否めません。」

「こうした語尾を「魔改造系語尾」と名付けたいと思います。
 なぜ日本人は語尾を魔改造したがるのか。
 そして、それは日本人だけなのか。
 世界の言語では語尾はどうなっているのか。」

(「突っ込みたくなる語尾」より)

「第一回で取り上げたい語尾はこちらです。

「だョ」

 往年の名作お笑い番組『八時だョ!全員集合』で使われたこの語尾ですが、今でもしばしば小ネタとして使われているのを見かけます。
 この語尾が秀逸なのは、「だよ」でも「だょ」でもなく、なぜか最後の文字を小さな「ョ」にしたこと。
 これにより、なんというかそこはかとないユーモアと、人を小バカにした感じが出るから不思議です。
 どんなにシリアスな話も、この語尾に変えるだけでニュアンスがガラッと変わります。」

「そもそもこの「最後だけカタカナにする」という表現方法は、以前はそこそこ使われていたような気がします。たとえば、「・・・だゼ」「・・・だモン」といった表現は、90年代くらいまでは若者向け雑誌等でよく使われていた記憶があります。
 なぜ、最近は見なくなってしまったのかと言えば、おそらくは携帯メールの普及と関係があると思います。
 かつては自分の語尾にちょっとした変化をつけたくても、「漢字」「ひらがな」「カタカナ」の3種類しか使い分けができなかった。だからカタカナをうまく使ってニュアンスを表現していたのだと思います。
 しかし、その後携帯メールの普及により、絵文字など表現方法が増えたことで、カタカナを使わなくてもいくらでも変化をつけることが可能になった。
 そんな中、しぶとく生き残っている語尾「だョ」。ぜひ、使ってみてください。
 そもそも、どうやって発音すればいいのかよくわかりませんが。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?