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アルボムッレ・スマナサーラ×藤田一照 『テーラワーダと禅 「悟り」への新時代のアプローチ』

☆mediopos3307  2023.12.7

曹洞宗僧侶の藤田一照と
テーラワーダ仏教(スリランカ上座仏教)長老である
アルボムッレ・スマナサーラの対談だが
主に藤田氏がスマナサーラに
ブッダの「悟り」とそれを実践するプロセスについて
話を聞く内容となっている

スマナサーラは一貫して極めてクールである
ブッダの教えにもとづいた忠実な実践を
現代的において可能な仕方で行うことで
「目覚める」ことが可能だという

そしてその「目覚め」は
「宗教」にも「宗派」とも無縁である

マントラなども方便というより
それを超えて迷信であって
「マントラは人をだますだけ」

「仏教は迷信を否定」しているがゆえに
「信仰」さえも不要であるからだという

道元のいう只管打坐にしても
かたちにとらわれた
坐蒲の上での坐禅である必要はなく
「食事も勤行も作務も日常の行い」も含め
只管打坐を広義にとらえることが必要だとする

必要なのは学問的な「月を指さす仏教」ではなく
実際に「月へ行かせる仏教」なのである

錯誤しがちなのは
自らが実践を通じて目覚めることが
「修行し続けると、大日如来が
向こう側からやって来て目覚めさせてくれる」
というような依存的に変わってしまうことで
「本来、宗教ではないブッダの教えが、
宗教に変身」してしまう

それはスマナサーラ自身が依拠している
テーラワーダ仏教でさえそうだという

そのように
ただの知識でも信仰でもなく
宗教でさえないブッダの実践を
スマナサーラはクールに語る

仏教的な「八正道」にしても
その「正見」は「邪見」と相対的であって
「邪見が正見を支えていて、
正見が邪見を支えている」がゆえに
その「相対性を乗り越え」
「「見」そのものを捨ててみる」ことが求められる

正しく○○する
というのは
その相対を超えてはじめて
目覚めにつながるということだろう
このことはきわめて重要なことだと思われる

正しさにとらわれることは
邪見にとらわれることでもあるからだ

そうした実践のはじめにあるのが
「観察する」ことだという
「毎日やっていること」を
「〝私が〟というところを超え」るところまで
観察してゆく

そしてさらに進んで
「生きることは尊いものである」といったことさえ
迷信としてとらえるほどに
「生きることそのものを観察」してゆく

そうすることで
「俗世間的な限りのない欲」から自由になり
「存在欲も成り立たない」と発見するにいたる

しかもそれらの実践は
「出家」してしか行えないようなものではなく
「在家」つまりは「世間」のなかにありながら
可能なのだという
決して脱世間による逃避であってはならない

ほんとうにクールな実践だが
さまざまなとらわれから自由になるための
「目覚め」へと向かう実践というのは
そうした仕方ではじめて可能となるのだろう

■アルボムッレ・スマナサーラ×藤田一照
 『テーラワーダと禅――「悟り」への新時代のアプローチ』
 (サンガ 2018/7)

(「第1章 テーラワーダから見た禅」〜「正しく伝えるべき仏法とは?」より)

「スマナサーラ/「ブッダの教えは、研究対象にしたり、議論のテーマにしたり、哲学的に一つの学派にしたりすべきではない」というのが、お釈迦様の立場です。ブッダの教えは、それを実践して、生きることの役に立てなくてはいけないのです。そこで私は、優れた仏教学者の管轄外だった「実践」ということを、日本に紹介しようとしたのです。」

「藤田/スマナサーラ長老にぜひ伺いたいことがあります。長老は駒澤大学で道元について論文を書かれていますが、その道元が大事にしていた「正伝の仏法」についてです。
(・・・)
スマナサーラ/「正伝の仏法」というのは、道元さんがすごく大事に使った単語で、完全たる悟りの智慧のことです。それは悟った人かた指導を受けて継がれていくもので、マハーカッサパ尊者から代々、現象の世界を乗り越えた悟りの世界を、ずっと伝えていかなくてはならないという話です。道元禅師も、素直に、真面目に、それこそが真髄だと思っていました。(・・・)
 しかし、日本の曹洞宗は、本来の意味を見事に取り違えて、「お釈迦様は、菩提樹の下で脚を組んでいたから、その形をやる」「形をとれ」と言っていたりするので驚きます。形にこだわっていたら、「リウマチの人は、坐れないので、悟れない」となってしまいます。道元禅師自身、『正法眼蔵』を見ても、どこにも「坐る」ということは言っていません。『正法眼蔵』の膨大な注釈書、詮慧の書いた『正法眼蔵抄』が勘違いをしているのですね。」

(「第1章 テーラワーダから見た禅」〜「月を指さす仏教と、月へ行かせる仏教」より)

「スマナサーラ/道元禅師が説いた「只管打坐」とは、もちろん形をとって坐ることではなく、達するべき境地なのです。日本人がよく言う「空(くう)」であり、悟りを意味しているのです。」

「スマナサーラ/初期仏教の「空」の思想は、実践を中心にして語られているもので、哲学思想ではありません。要するに、現象の世界は相対的なので、真理として成り立たないということになります。現象が事実だと勘違いしている「私」が、相対性を発見して何一つ概念が成り立たない「空」の境地に達しなくてはいめないでしょう。

藤田/その、現象が実は成り立たないのだということを悟ることと、「只管打坐そのもの」とさっきおっしゃったことは同じなのですね。だからこそ、只管打坐を現象のレベルでとらえていたのではいけないのですね。

スマナサーラ/そうです。駒澤大学で私が学生のとき、ある教授が「ちまたの仏教の修行は、師匠が弟子に『月はあちらだ』と指で指し示すけれど、弟子は指を見ているにすぎない」と言っていましたが、私はその教授に「あなたもそうですよね」と言いたくてしかたりませんでした。
 テーラワーダは違います。月を指差すのではなく、ロケットを造って、宇宙船も造って、弟子たちに訓練させて、宇宙まで飛ばしてしまうんどえす。

藤田/なるほど、指で指すことで満足しないで、必ず実際の月に行かせる。そのための理論も、その筋道としての修行体系も、ちゃんとできているということですね。」

(「第1章 テーラワーダから見た禅」〜「無為法と有為法の正しい理解」より)

「藤田/仏教では、「無為法」と「有為法」という分け方がありますよね。涅槃・ニルヴァーナは無為法であり、僕らが生きているのは有為法の世界であるといいます。(・・・)

スマナサーラ/(・・・)有為法の幻覚から目が覚めた正覚者こそがブッダですね。」

「スマナサーラ/お釈迦様は、「今ここで解脱に達しなさい」と強調しています。そして、有為法の世界しか知らない一般の人間は、「涅槃がある」と推測しなくてはいけないのです。そちらに達する道が「八正道」です。悟りに達していない一般人にとって、八正道は唯一の修行方法になります。」

「スマナサーラ/禅の坊さんたちも、学問的に仏教をちゃんと勉強しますよ。しかし、学恩が仏教だとは言わないのです。ブッダの真の教えは別であることを強調します。それは坐禅という世界です。真言宗はマントラを唱えます。チベット仏教でも、ブッダになるマントラ、独覚者になるマントラ、阿羅漢に悟るマントラなどなどがあります。音に神秘的な力があって、真理を表しているのだ、というのはヒンドゥー教の信仰です。お釈迦様は呪文を否定していますけれど。

藤田/それも一つの方便とは言えませんか?

 スマナサーラ/方便でも何でもない。迷信は迷信です。人の迷信を応援するのが悪行為そのものです。人を助けるには、ほかの方法がたくさんあります。
(・・・)
 マントラは人をだますだけです。
(・・・)
 仏教は迷信を否定しています。」

(「第1章 テーラワーダから見た禅」〜「悟りは言葉を超えた世界」より)

「スマナサーラ/お釈迦様と仏弟子たちは、確かに真理を語りました。しかし、「言葉が真理ではない」と理解しなくてはいけないのです。師匠たちは、言葉を超えた安穏の境地を体験したのです。弟子たちはその言葉に惹かれたとしても、自分たちもその境地を体験しなくてはいけないのです。
 聖者たちの言葉を、知識欲を刺激するために学ぶべきではありません。仏教学者になって自分の名を世に売り込むことは、仏道ではないのです。」

(「第1章 テーラワーダから見た禅」〜「ブッダの完璧な言葉と教え」より)

「スマナサーラ/道元禅師は「身心脱落」というフレーズで真理を体験しました。しかし、師匠の如浄禅師は「仏道は『脱落脱落』だ」とアドバイスしたのです。要するに、脱落脱落に達したら終了、という意味です。

藤田/はい。無執着という一つの単語で仏教の全部をカバーしているということですね。そのような非常に豊かな内容を持った言葉だということは、修行によって体得しなければ、文字の詮索だけでは思い至らないということは、禅のほうでも言われることです。

スマナサーラ/そうです。「邪見」という言葉も見事です。まず、邪見を超えて、「正見」に達します。その正見は、世にある邪見に相対的な単語です。要するに、邪見が正見を支えていて、正見が邪見を支えているのです。次に、この相対性を乗り越えます。「見」そのものを捨ててみるのです。解脱とは、一切の見が成り立たない境地です。」

「スマナサーラ/言葉にとらわれたら、さようならです。言葉に引っかからないで、純粋に釈尊の説かれた修行法をやればいいのです。それを変えてはいけません。変えたら改良にならず、改悪になります。悟りが消えてしまうのです・

藤田/その点で言えば、大乗仏教などは、そもそもの前提からして改悪している、ということになりますか?

スマナサーラ/大乗だけでなくて、テーラワーダもそうです。宗派仏教というものは、一般的に言えば、改悪のプロセスだとみなしても構わないと思っています。解脱に達する目的でお釈迦様が説かれた修行方法は今、ヴィパッサナー実践と名づけられています。ありのままに物事を観察する修行方法です。しかし、現代人は解脱に達する目的を持っていません。ただ、仕事の巣取れるをなくしたいとか、人間関係で起こるトラブルをなくしたい、仕事の能率を上げたいとか思っているだけです。マインドルフネル・トレーニングをその目的に集中させると、心を清らかにすること、煩悩をなくすこと、智慧を開発すること、解脱に達することなどなどは消えてしまいます。たくさんの人々が幸せになってほしいと思って、マインドフルネスの一般向けバージョンを造ったら、それが仏教の改良ではなく改悪になってしまうのは避けられないことです。

藤田/彼らはお坊さんだけでなく、一般人もできるようにとの善意から、そういうアレンジをしているのではないですか?

スマナサーラ/それは一般的な考えです。しかし、正しくはありません。もし、マインドフルネス・トレーニングが一般人に実践できない、普通の生き方からかけ離れた修行方法であったならば、現代人に適するようにアレンジしても構わないでしょう。しかし、そもそも仏道は排他的な道ではなかったのです。出家・在家の誰にでも実践できる方法でした。ヴィパッサナー実践は、出家にも在家にも同じです。区別はありません・お釈迦様の時代から。出家も在家も悟りに達していました。(・・・)
仏教は出家が行う別世界である。と思ったところに問題があります。出家は、解脱に達するために欠かせない条件ではないのです。(・・・)
出家が行う厳しいしきたりや週刊・戒律などを、現代に生きる一般人にそのまま背負わせることは、現実的ではありません。出家も在家も、実践しやすいところからスタートして、解脱に達するまで進むべきです。」

(「第1章 テーラワーダから見た禅」〜「自我こそ最難関」より)

「藤田/出世間のために、一番コアな部分はどこになりますか?

スマナサーラ/(・・・)まず、自我。私がいるんだという気持ちを破らなくてはいけない。私たちは、「我はいる」ということを破ったところを預流果(よるか)と読んでいます。そこに行くのが一番難しい。「私がいるんだ」という大きな壁を破ったら、そこからはスモールステップで順に進みます。残りは、「気に入ったら、やってください」という程度でも十分。(・・・)

藤田/よく我々は「自我を破る」という言い方をしますが、別に破るべき自我がコロッとあるわけではなく。あると思っている自我は錯覚だったということですよね。あったら、どけられますけれど、でも錯覚だからといって。そういうことを頭で理解したところで、何も解決できません。錯覚から目覚めなければ、その錯覚がリアリティを持ったものとして実現してしまいます。

スマナサーラ/そう、錯覚だから質(たち)が悪いのです。自我というものは、もともとないのだから、「自我をなくす」という言葉は成り立ちません。なくすべき。避けるべき「自我」という実体があるわけではないのです。そうではなくて、自我があるという「錯覚」を破るのです。要するに、目を覚ますのです。(・・・)私たちは、六根に入るデータを捏造して現実であるという錯覚を引き起こして、楽しく生活しています。認識は捏造であると発見したら、「自分がいる」という錯覚が跡形もなく消えてしまうのです。これを知識で理解しても、自我の錯覚を破ったことにはなりません。知識でわかった、理解したとは、新たな捏造概念をつくったこと以外の何ものでもありません。(・・・)
 預流果という解脱の境地に達するために、必ず瞑想しなくてはならないわけではありません。哲学的なアプローチでも、預流果に達することはできます。自我の錯覚が破れたらOKです。正しい学術的な研究である、という立場で議論しても、預流果に達したことにはなりません。学術的に「無我」という結論に達しても、自分の実存と研究が別々なものになるのです。自分自身を研究課題にして、調べなくてはいけないのです。その結果、「自分自身が無我である」と発見します。それが預流果に達したということです。発見の結果として、自分が変わらなくてはいけないのです。」

「スマナサーラ/只管打坐だけで十分だと、気楽に思わないほうがいいでしょう。形と中身の組み合わせが肝心なのです。形にとらわれることは極端です。中身だけ気にすることも翼端です。形を駆使して、精神の安定という中身に達していかなくてはいけないのです。

藤田/その通りです。坐蒲の上の狭義の只管打坐だけではなく、食事も勤行も作務も日常の行いもまた、「坐蒲の外での只管打坐」という形で、只管打坐を広義に理解するべきだと思います。」

(「第2章 差異と同質」〜「悟りは自身で発見するもの」より)

「スマナサーラ/仏教徒である私たちが、「ブッダの教えに従えば悟りますよ」と強調して語ると、仏教ももう一つの宗教だと勘違いする恐れもあります。ですから、「ブッダが説かれた道は精密に科学的で、現実的である」ということも言わなくてはいけない。ブッダとは、「目覚めた人」という意味でしょう。ということは、輪廻転生している生命は睡眠中で、夢の世界に閉じ込められているのです。その人が目覚めたら、夢の世界は直ちに消えます。今まで現実だと思っていた世界は単なる夢であった、と発見します。寝ている人が目覚めるためには、何かしらのショックが必要です。たとえば、誰かが冷たい水をかけてもらって目覚めるまで待つことは、宗教的な立場です。自分自身で頑張って目覚めることは、仏教的な立場です。目覚めた先駆者であるブッダの指導を実践して、修行者が自分自身で目覚めるために精進します。
 ここが、仏教が宗教に変身してしまう脆いところです。如来の教えに素直に従って実践すれば目覚めるのに、「如来に従えば目覚めるのだ」と考えが微妙に変わってしまう。大乗仏教の世界では、「修行し続けると、大日如来が向こう側からやって来て目覚めさせてくれる」というところまで、話が飛躍するのです。もしかすると、自我中心に、自我主義で修行するのは邪道だと教えたかったのかもしれません。(・・・)しかし、「如来は悟らせてくれる」と考えを変えると、信仰主義の宗教に陥ってしまうのです。(・・・)それは、本来、宗教ではないブッダの教えが、宗教に変身してしまった結果なのです。」

(「第3章 人の道と真理の道」〜「自我を超える観察のスタート」より)

「藤田/夫婦げんかをしている人に真理の道を説くときは、「観察しなさい」というふうに教えると言われましたけど、僕らが普通、観察すると、「〝私が〟何かを観察する」というところから始まります。でも、きっちり観察を深めていくと、〝私が〟というところを超えられるということですよね。

スマナサーラ/毎日やっていることでなければ、スタートできません。「成長したければ、空を飛んでみろ」と言っても、あり得ないでしょう。だから毎日、誰だってやっていることから始まるのです。(・・・)
より多くのものを観察すればするほど、能力は上がります。」

「スマナサーラ/仏教はさらに進んでください、と言います。俗世間にはリミットがあるとわかっても、そこで観察能力を終わりにはしません。(・・・)誰だって基本的に生きているでしょう。それだったら生きることを観察しましょうよ、と言うのです。

藤田/生きることそのものを観察するんですね。自分以外のものを観察して知るのとは違って、自分が生きていることそれ自体を観察するというのは、話がまったく違ってきますね。

スマナサーラ/そうなってくると、一切生命が観察しなくてはいけないことを観察したことになるのです。一切の生命は、誰だって生きていますから。
「生きることは何か」を知らないで生きようとすれば、失敗するに決まっています。(・・・)
ですから、仏教はこう言います。「世間が問題だらけになっているのは、あなた方が『生きるとは何か』という教習所に行ってないからでしょう。(・・・)だから、生きることを先に観察しましょう」。これが、仏教が提案する観察なのです。
(・・・)
まず先入観を捨てる。「生きることは尊いものである。不可思議なものである」というような、くだらない迷信をやめなさいと言います。

藤田/「命は大切だ」とか、そういうことは迷信だとして、とりあえず横に置いてみるんですか。そうですね、そうしないと観察する目がゆがむことになりますね。

スマナサーラ/証拠がないでしょ。「生きるとは何か」と見れば、肉体Gある。歩いたり、座ったりする。呼吸したりする。水を飲んだり、ごはんを食べたりする。そこだと。観察してみなさいと。それでそういうことをやらせている感情が見えてくるし、我々を生かしている衝動が見えてくるし、それは貪瞋痴であるともわかるし、壊れるものを維持しようと無駄に頑張っていることも見えてくるし、最終的に、「なんだこれば? 無意味だ」ということを発見したところで終了です。」

(「第3章 人の道と真理の道」〜「どこからが修行か」より)

「スマナサーラ/誰もがやっていることは修行ではありませんね。リミットを知ることが、まず必要です。それで、欲を捨てることの最初の訓練になります。
(・・・)
俗世間的な限りのない欲を捨てた人は、落ち着いて気楽に生きられます。あれもやってみたいこれもやってみたい。という気持ちはないからです。その人には、精神的に余裕が生まれます。そこで、「生きるとは何か」と観察し始めるのです。
世間ではやっているマインドフルネスには、問題があります。仕事で成功する、精神的な悩みをなくす、病気を治す、などの目的でやっているからです。それらは、無理・不可能な欲を捨てるだけで、簡単に達することのできる結果なのです。
(・・・)
存在欲も、満たすことは無理・不可能な欲です。また、余計な欲。余計な怒り、嫉妬、憎しみ、不安。落ち込みなどが表れてしまうのです。高いレベルの観察で、「存在欲も成り立たない」と発見するのです。そkどえ、心は完全に解放されて、自由になります。」

◇目次

第1章 テーラワーダから見た禅

正しく伝えるべき仏法とは?
月を指さす仏教と、月へ行かせる仏教
無為法と有為法の正しい理解
山水経の真理
オープン・マインドはOK、自慢はNG
悟りは言葉を超えた世界
ブッダの完璧な言葉と教え
自我こそ最難関

第2章 差異と同質

顚倒の世界を乗り越える
見事なブッダの捨てる勇気
悟りは自身で発見するもの
幻覚に引っかかるな
修行して脳を変えるメカニズム
どう生きるのかという命題
ブッダは完璧
自由なテーラワーダ
「生きる」ことに役立つことを

第3章 人の道と真理の道

悟りの境地への行き方は
〝役立つ〟というポイント
真理に達したら宗派はいらない
ブッダの一言を実践すれば、それだけで
ブッダは父親
仏教色排除という宗教
修行よ革新の悟り
修行と人格向上
アビダルマの成り立ち
自我を超える観察のスタート
どこからが修行か

終章 対談を振り返って

一致と不一致のあわい(藤田一照)
口に合う料理を選びましょう(アルボムッレ・スマナサーラ)

□アルボムッレ・スマナサーラ
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、NHKテレビ「こころの時代」などにも出演

□藤田/一照
1954年、愛媛県生まれ。2018年3月まで、曹洞宗国際センター所長。東京大学大学院教育心理学専攻博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。1987年よりアメリカのパイオニア・ヴァレー禅堂で禅の指導をし、近隣の大学や瞑想センターでも講義やワークショップを行う。2005年に帰国。神奈川県の葉山で実験的坐禅会を主宰。オンライン禅コミュニティ磨〓(せん)寺主宰(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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