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田中克彦『名前と人間』/野矢茂樹『言語哲学がはじまる』

☆mediopos3313  2023.12.13

ひとがこどものとき
ことばを身につけていくときは
目の前で示されたモノの名前を
おぼえることからはじめる

目の前に猫がいて
それをニャンニャンだと繰り返しいわれて
「その猫」が「ニャンニャン」だとおぼえる

おそらくその後いずれかの時点で
その「ニャンニャン」を含む「猫」一般が
「猫」としてとらえられるようになる

最初の個別の「ニャンニャン」は
いわゆる「固有名詞」で
猫一般である「猫」は普通名詞である
そこには「個別性と一般性のギャップ」がある

個別の「ニャンニャン」は
どのようにして普通名詞の「猫」になるのだろう

そこには言語および言語習得に関する
根源的ともいえる謎が潜んでいるようだ

アダム・スミスは
「すべての普通名詞の起原は固有名詞であった」
としているが
それに対してその後
ベッカーというドイツの文法家はそれを逆転させ
「あらゆる固有名詞はもとは普通名詞である」
と述べている
じっさいはどうなのだろう

ジョン・ロックは
「猫」という語の指示対象は
心の中に形成された猫の一般観念であるという
一般観念説をとったが
それに対して心の外にも中にも
「猫」の指示対象は見つからないという批判がだされ
やがてフレーゲは
語の意味に先立って文の意味へと向かうことで
その指示対象への議論を進めるのだが

そもそも最初におぼえることばは
固有名詞と普通名詞以前のものかもしれないし
語であれ文であれ
そこで「意味」とされているものが
こどもの言語習得の最初期において
どのように生まれていくのかよくわからない

人間と異なり
イヌやネコにとってはおそらく
普通名詞的な観念は存在していないだろうが
人間は比較的短期間のあいだに
そうした観念を内的に
しかも対象のない語においてさえ形成するようになる

いうまでもなくある程度成長した段階では
固有名詞的な個別の存在を表す語と
一般的な存在及び意味を表す語は
ある程度無理なく識別できるようになる

とはいえ抽象度の高い語
たとえば対象をもたず
内在平面的な思考のなかにある対象を表す語を
把握する能力を得るためには
それなりの内的訓練が必要であり
その思考能力には個人差がでてくるが

固有名詞と一般名詞を区別する能力を得る
いちばん最初期の段階における習得を
どのように行うかについては
シュタイナーが示唆しているように
「言語感覚」という生得の力があると考えるのが
妥当ではないかと思われる

しかしあらためて「意味」とはなんだろうか

目の前にあるものを示されて
それが○○であるとされるとき
それはそのときどきの一回性の体験であり
そこにはまだ明確な「意味」は形成されていないが
(しかしそれゆえにその○○の拘束性は強く働く)

それが一般名詞として理解されるとき
そこには明らかに「意味」が生まれる
「意味」が必要となるといってもいい
それは直接それを目にしていないときにも
「語」とともに表象され
さまざまな「意味」として生成されていく・・・

■田中克彦『名前と人間』(岩波新書 1996/11)
■野矢茂樹『言語哲学がはじまる』(岩波新書 2023/10)

(田中克彦『名前と人間』〜「第一部 言語学と名前学/一 名前の支配」より)

「私たちはこどものときに、どのようにしてことばを身につけたかを覚えていない。しかしきっと、まずモノの名前をおぼえるこよからはじめたにちがいない————すくなくともそういう信念を抱いている。(・・・)
 そのばあいのおぼえさせ方はどんな方法をとるかと言えば、何か目の前に。現実に見えるものを指さして教える。意味論学者や記号学者たちは、ことば(オト)が直接結びつくのはモノではなくて、そのモノから生じた概念であると言うが、この説明は実感からはむしろ遠い。具体的にコトバを身につける現場では、指さすという方法で、オトとモノとを結びつけるのである。
 この指さすということ————よりくわしく言えば、指さした指の先と、その指のさした方向の先にあるモノとを————いわば目に見えない点線で————結びつけるという能力が、いかに高度な精神化集うであるかは、たとえば、イヌやネコのばあいと比較してみるとよくわかる。イヌやネコに、ほら!あそこにエサがあるよと言って、五十センチ先のエサを指さして見せても、五十センチ先は見ないで指だけを見ているという経験は多くの人がして知っているだろう。
 だからモノの名をおぼえる作業は、指さして実際に見えるモノからはじめるのであって、かくれて見えないモノや、はじめから全く見えないこと、すなわち「愛」だの「友情」だの————日本語ではたいてい漢字で書かれる————からはじめる人はいない。」

「家の中だけで育てられているこどもは、見るモノの数にも限りがあるから、たくさんの名をおぼえる機会に恵まれていない。かれらが通常与えられる名は一般(普通)名詞であって、固有名詞ではない————とこう書いていて少し不安になってきた。この問題ではいろいろと議論がたたかわされてきたからである。もしかしてこどもは、まず一つ一つのモノの名を、それだけがもっている固有名詞としておぼえ、次いで、似たようなワンワンをいくつも見ることによって、一つの類の名であるという認識に到達するというふうに考えれば、最初のワンワンは固有名詞、次いで多くのワンワンと接し、すべてのワンワンがワンワンであると知れば、はじめのワンワンは一般(普通)名詞へと発展するのである。
 このようなこどもの例を、人類全般におしひろげて、すべての普通名詞の起原は固有名詞であったという議論を展開したのはアダム・スミスであった。」

「スミスのこの論文のおもしろさを再発見して、その最初のテキストを複写して世に送ったのは、E・コセリウだが(一九七〇年)、かれはこの冊子に、同時に、スミスに反対したイタリア人ロズミーニの反論(一八三〇年)をも収録している。ロズミーニはスミスとは逆に、固有名詞は普通名詞よりもずっとあとになって生まれる。なぜなた、「数多くの洞穴、泉、樹木をみたのちに、その中から特定の個を個別する必要が生じた」ときにその区別のために固有名詞が生まれたのだ、とした。
 しかしスミスとロズミーニが話題にしているのは、いずれも成人した人間のことであり、こどもではない。」

「こどもにとってエミコは固有名詞であって普通名詞である。もしも、そもそも固有名詞という概念は、普通名詞を前提としている————ロズミーニをはじめ、正統の言語学者たちはこうした立場をとる————という考えにたてば、エミコが固有名詞か普通名詞かという議論はあまり意味がないこyになるだろう。」

「いずれにせよ、固有名詞が、その固有の意味においてはっきりと姿をあらわすのは、かれ/彼女が、父と母だけでなく(父も母も、そのこどもにとっては一つしかないものだから、太陽や月が固有名詞かどうかという、文法学者の古典的な議論と同様に、純粋に普通名詞でもなければ固有名詞でもない)、きょうだいや遊び仲間をもち、あるいは保育園や学校のようなところに通って社会生活をはじめたときである。かれ/彼女は、自分だけでなく、他者も。それぞれが名をもつことを知る。
 逆説的なようだが、固有名詞があるということそのことが、言語が本来的に社会的なものであるということの証拠になるのである。」

「まことに固有名詞こそは、人類は決して一つではなく、さまざまな名前————固有名詞をもって分かれ、それぞれが自分あるいは自分たちに対立するものであるということを思い知らせ、相互のちがいをいやが上にもきわ立たせ、それを固定させる道具である。名前、固有名詞こそは、ことばの中でも抜きん出た地位を占めていて、これこそことばの中のことば、名詞の中の名詞だと言ってもいいくらいである。人間は生きている間のほとんどの時間を、名前とともに生き、苦しみ。争ってきたと言えるのである。そのために、どれだけ多くの人が、名前から逃れたいと思わなかっただろうか。————自分自身とその家族の名前から、国家や民族の名前、出身地の名前等々から。」

(田中克彦『名前と人間』〜「第一部 言語学と名前学/二 ことばと名前」より)

「固有名詞は言語に属するものでありながら、他の分類のしかたとは大きなちがいをもっていることに気づく。つまり、文法の問題としてだけではかたづけるわけにはいかない何か深い意味論的背景はあることがわかる。」

(田中克彦『名前と人間』〜「第一部 言語学と名前学/三 名前と意味」より)

「固有名詞の意味について————具体的に言うとその無意味性について————はっきりと、古典的な形で指摘したのはJ・ミルであった。かれは一八四三年の『論理学の大系』の中で、

  固有名詞は内包的ではない。それは、それによって呼ばれる個体を指し示し(denote)はするが、これらの個体に属するどのような属性を述べ(indicate)もせず含意(imply)もしない。」

「ミルの議論の核心は、普通名詞と固有名詞のちがいは、前者が意味をもっているのに————当然のことだ、意味をもっているからこそのことばなのだ————それが意味を失うことによって固有名詞になるというところにある。」

「アダム・スミスが、言語起源論の展望の中で、すべての普通名詞はもと固有名詞として発生したとする論は、個から類への、個別から普遍への概念の発展図式を念頭に置いていたのであろう。
 ところが、それから八十年たった一八四一年の、ベッカーというドイツの文法家が著した『言語の有機体』では、スミスを逆転させて、「あらゆる固有名詞はもとは普通名詞である」と述べている。」

「今まで文法の中で「ものの名前」とされてきた「名詞」とは、いわゆる普通名詞のことである。ところが、特定のモノや人間を表す固有名詞は、普通名詞に比べて、より体系化しにくい。一時的、臨時的に現れるものであって、永遠性がなく、あくまでも付加的である。
(・・・)
 しかし、現実には固有名詞が人々の生活に介入し、それを支配している。ときには、固有名詞のために死を要求されることさえある。それに対して、普通名詞が人間に服従を強いることはめったにないのである。
 くり返し述べたように、固有名詞には意味がない。あるいは、普通名詞が限りなく脱意味化の極に向かったなれの果てである。シェパードさんやカーペンターさんは、それぞれ「羊飼い」や「大工さん」を捨てて、宇宙飛行士となった。「お茶の水」は、「お茶」も「水」もかなぐり捨てて大学の名になったのである。それは今や、ことばたることをやめて、ただの目じるしに転落してしまった。」

(野矢茂樹『言語哲学がはじまる』〜「第1章 一般観念という袋小路」より)

「お父さんは太郎君と散歩して、現物のネコを示すことで「猫」という一般名の意味を教えようとします。しかし、そうやって出会う猫は個々の猫にすぎません。「猫」という語の意味は特定の猫ではなく、また、特定の猫のグループにつけられた名前でもなく、あらゆる猫、これから生まれてくるだろう猫も含めた猫一般を意味しています。問題は、お父さんがどれほど太郎君を連れまわそうと、猫一般なんかには出会えないということなのです。寝ているのは特定の一匹の猫、つまり猫個体です。猫一般が寝ているなんてことはありません。また、猫の無限集合を持ち出そうとしても、猫の無限集合が寝ているなんてこともありません。
 とすれば、「猫」という語はこの世界の中に指示対象をもたないように思えてきます。一般名の指示対象は一般性をもっていなければなりません。だけど、実際にこの世界で私たちが出会えるのは個体です。じゃあ、一般名の意味をどう理解すればよいのか。
(・・・)
 一般名や動詞の意味は一般性をもっている。だけどこの世界の中で出会えるのは個別のものでしかない。ならば、どうやって私たちは一般名や動詞の意味を理解しているのでしょうか。」

「一般観念説 個別の猫たちから一般観念を抽象する。「猫」という語の指示対象はこうして心の中に形成された猫の一般観念である。」(ジョン・ロック)

「固有名の意味はその語の指示対象だと言ってよさそうです。そこで、この考え方を一般名にまで進めます。「指示対象説」という考え方です。「富士山」という固有名の意味はその語の指示対象であるあの山です。同様に「猫」という一般名の意味もその語の指示対象ではないか。ならば、」猫」という語の指示対象は何か。
 しかし、道路や公園といった環境の中で出会うのはすべて個別の猫たちでしかないように思われます。他方、「猫」という語は猫一般を意味しているでしょう。そう考えると、「猫」という語の指示対象は世界の中には存在しないように思われてきます。これが「個別性と一般性のギャップ」と私が呼んだ問題です。
 一般観念説はここで出てきます。心の中の世界で出会うのは個別の猫たちでしかない。だから、そうした猫たちから個別性を抽象して猫の一般観念を心の中に形成する。その猫の一般観念こそが、「猫」という語の指示対象だ、というわけです。
 ところが、一般観念説は批判に晒されます。」

「では、一般観念以外の指示対象を考えるべきなのでしょうか。いや、心の外にも中にも「猫」という語の指示対象は見つかりそうもありません。じゃあ、指示対象説がおかしいのでしょうか。そうかもしれません。でも、フレーゲはもっと溯ります。文の意味に先立ってまず語の意味を捉えようという方針、これこそが誤った道の分岐点だとするのです。」

(野矢茂樹『言語哲学がはじまる』〜「第2章 文の意味の優位性」より)

「最初は語の発話から始まるでしょうが、ほどなくいくつかの文の意味を漠然とながら理解するようになります。それをもとにその文で使われている語の意味を漠然とながら理解する。こうして語の理解と文の理解が相互に助け合いながら語や文の意味理解が進んでいく。やがて語の意味がある程度しっかりと理解できるようになると、その後を用いて、いまままで聞いたことがなかった新しい文を作り始めるし、初めて聞く文も即座に理解できるようになる。」

(野矢茂樹『言語哲学がはじまる』〜「第5章 『論理哲学論考』の言語論」より)

「忘れてはならないのは、言語実践はそうした理論化を超えていく可能性をつねに秘めているということです。最後に、その思いをこめて。ウィトゲンシュタインの手稿から引用しておきましょう。

  言葉はただ生の流れの中でのみ意味をもつ。」

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