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武田梵声『野生の声音/人はなぜ歌い、踊るのか』

☆mediopos2660 2022.2.27

野生の力が
失われつづけている

わたしたちの声・言葉・歌・踊り
そうしたものがほんらい持ちえていた原初の力は
とくに近代以降急速に失われてきている

なぜ人は歌い踊るのか

本書は歌謡・芸能の起源に関する
すぐれた探求の書となっているが
その探求によって原初の力をとりもどそうとしている

歌いそして踊ることは
その原初においては
「瞑想し、意識変容すること」であり
「宇宙律動や神の律動と感応するという、
生命やあらゆる物質に刻まれた
根源的な記憶とフォルス(力)にほかならない」のだという

その意味において
冬至や夏至の芸能などにも見られるように
芸能は宇宙的律動と呼応する運動であり
宇宙的な律動と感応しながら展開してきたのだ

しかし現代の芸能の多くは
そうした根源的な力を失いつづけている

かつて「歌」の力は神の声でもあった

神の声とは「脳内に鳴り響くいわゆる内部音性」であり
シャーマンなどもその内的体験によって
精霊から与えられた歌ともなっていたのだが

分節言語と文字の発明によって
「喉」の持っている可能性の一部だけが使われるようになり
それまでは内部音響的なものからくる歌唱能力と
倍音を豊かに含んだ声や歌唱によって
当たり前のように享受されていた
「歌」の力が喪失しはじめたのだという

まるで失楽園のような話だが
精製され純粋化されすぎたものが
ほんらいの生きた力をスポイルしてしまうように
たしかに歌や踊りから
かつて持ちえていただろう根源にある力の多くは
すでに失われてしまっているのかもしれない

本書のようにかつて持ちえていただろう
歌や踊りの力を取り戻そうとする試みは重要で
その視点の重要性は言うまでもないが
しかしながらそれらの問いかけが
単に過去への回帰になってしまったとき
そこに新たな問いは生まれ難くなってしまう

失われたものを取り戻すためには
「子どもになる」(帰る)のではなく
「子どものようになる」(むしろ進む)ことが重要ではないか

なぜ失われてしまったのか
失われることで得るものとはなんだろうか
失われたものを取り戻していこうとするとき
そのプロセスにおいてどのようなことが起こるのか

そうした問いのなかで
歌と踊りの根源にあるものが
あらたな在りようのなかで
見いだされることもあるのではないか

■武田梵声『野生の声音/人はなぜ歌い、踊るのか』
 (夜間飛行 2021/4)

(「第一章 原始、人類はみな「野生の芸能者」であった」より)

「歌や舞踊、演劇を学び、研究する際、現代人は無意識のうちに、西洋近代のファインアートを基軸にしている。音楽であれば12平均律に基づいたクラシック、演劇であればアントワーヌやスタニスラフスキーによる近代的リアリズム演劇が、無意識のうちに基準となっているのだ。しかし、こうしたファインアートを基軸にした視点からは、芸能の全体像は決して見えてはこない。
 なぜなら、西洋近代的ファインアートは、人類の芸能の中でも、旧石器時代から続く原初の芸能から最も乖離した領域にあるものだからだ。
 誤解のないように申し添えておくと、筆者はここで、ファインアートの価値そのものを否定しているわけではない。ファインアートをやりたい者はやれば良い。しかし、これを芸能全体の基礎に据えるのは誤りだと言っている。」

(「第三章 弾圧される放浪芸能者、失われる芸能の本質」より)

「放浪芸能者たちの消失とともに、前近代までは当たり前のようにあった芸能技法も失われていくことになった。メリスマ、あるいはグレイスノート(日本では演歌の「こぶし」と言ったほうがイメージしやすいだろう)の消失は、その代表的な事例と言える。

 たとえば、伝説の歌手というべき存在であるバサンタコキラムやマハラジャプラム、チェンバイ、T・ムクタ、パッタマルなどはその微分音性とメリスマ力を保っていた(すなわち絶妙なガマカを持っていた)が、1960年代頃から活躍し始める歌い手や芸能からは、こうした芸能力が消失し始める。(・・・)

 芸能者からメリスマが消失したのは、一般的に1960年代ごろだと言われるが、実際にはもう少し早い時期から、徐々にメリスマの消失が起きていた。(・・・)

 日本においては明治20年代(1880年代)が重要な転機である。サンカが犯罪集団として弾圧され始めたのもこれに重なり、あらゆる前近代性がこの辺りから解体されはじめ、あらゆるモノの近代化がここに始まる。折口信夫が明治20年生まれと言うこともまた注目すべきだろう。厳密には、折口信夫が活躍した時代には、すでに芸能の解体は始まっていたのだ
 さて、1960年代の世界のポップミュージックシーンに目を向けるなら、ザ・ビートルズの存在を無視することはできないだろう。ビートルズは、近代性と前近代性を兼ね備えた、かなりアンビバレントな存在であったと筆者は捉えている。」

「近代に入って、放浪芸的な節回しや身体性が消失してゆく過程を表したエピソードがある。20世紀初頭に活動した自由劇場において、歌舞伎あがりの俳優達に西洋近代演劇の指導をしていた小山内薫が、しばしばこんな「ダメ出し」を口にした。それは「歌うな!語れ!」「踊るな!歩け」であった。」

「マレビトの信仰を身体化していた放浪芸能者たちが絶滅したことは、一般に考えられているより、遙かに大きな問題だと筆者は考えている。なぜなら、古代〜近世まで、地下水脈のように長らく私たちの芸能を支えるように機能してきた「力」が失われた、ということだからだ。

(・・・)

 民謡復興運動の研究者の中には「口頭伝承が失われてしまうと、音色のように楽譜に書けない要素は忘れさられ、ファインアート的なモダンメソード発声法に平均化されてしまう」と嘆くものがいる。しかし、これは問題の本質を見誤っている。というのも、仮に口頭伝承を失わずに守ることができたとしても、世の中全体の倍音構成がファインアート的なモダンメソード発声法に平均化されてしまったら、やはり、「モダンメソード発声法に平均化されてしまう」事態は避けられないからだ。

 (・・・)日本の古典芸能も寄席演芸も口頭伝承であるが、実際には、かつての倍音構成は消え失せてしまっている。」

(「第四章 原初の歌唱芸能の姿を探る」より)

「「文字」の発生が人の声や芸能に、多大な影響を与えたことは間違いない。しかし、ここではさらに過去にさかのぼり、分節言語の発生が原初の歌や芸能に与えた影響を考えてみたい。「分節言語」とは、名詞や動詞、さらに細かく分けるなら「形態素」といった意味を持つ細かな単位が組み合わさることによって構成される言語のことを言う。」

「この分節言語発生以前には何があったか。それは「歌」である。(・・・)少なくとも分節言語と文字の発明の中で、徐々に「歌の喪失」が起きたことは間違いないだろう。「言葉」を得ることにとよって、それまで人類が当たり前のように享受していた「歌」の力=神の声の喪失が始まったということだ。

 発生の技法という点でも、分節言語は我々の「喉」が持つ可能性の、ほんの一部しか使わないことは明確となっている。その後、さらに文字言語が発生することによって、それまで当たり前のように行われていた口承伝承も減少し、脳における声の原初的なネットワークの発達が抑圧されていったと考えられる。

(・・・)

 ここでいう「神の声」というのは、あくまでも脳内に鳴り響くいわゆる内部音性であり、いわゆる狭義の歌、狭義の原初の歌とは別のものである。しかし、内部音や神の声は原書の歌と感応しあるものと考えられる。

 シャーマンが内的体験による精霊から習うとされるパワーソングなどの例から考えても、この内部音と原初の歌唱の能力との関係は極めて密接なものと考えられる。この内部音、もしくは内部音的なもののイメージが人類の歌唱能力を高め、倍音をたっぷりと含んだ声の語りや歌唱がまた内的音響を増強するという感応しあう相互関係であったのだ。」

(「第六章 籠りとタマフリ−−−−芸能とは瞑想である」より)

「古代人達は冬至と夏至に祝祭を行った。それは、宇宙のバランスを取り戻す試みであった。特に、日本においては冬至の芸能が重要視された。木々が枯れ、動物たちが冬籠もりする冬至は、古代人とっては世界の終末のように感じられる季節であった。芸能は、彼らにとって、太陽の力を再生させ、宇宙のバランスを回復させる役割を担っていたのだ。

 世界の終末である冬至に異界から訪れる者。それがマレビトであり、マレビトは「タマフリ」と総称されるスタイルで儀式を行った。

 タマフリとは、現代風に言えば瞑想=籠りの儀式である。神聖舞踏や祝詞、咒言を唱え、歌う。その中で意識変容が起こり、幻視や霊的な身体感覚を得る。それによって太陽の力が再生される。つまり、タマフリとは(・・・)意識変容、トランス、ASCとほぼ同義のものと考えることができるだろう。

 狭義のタマフリには、物部系のタマフリと猿女系のタマフリとがある。タマフリの語源についても、古くは伴信友の「振る」と解釈する論、鈴木重胤の「触る」と解釈するものがあり、折口信夫は鈴木重胤の説にヴント、フレイザーのマジックキング論、ゴムのライフインデキス論、コドリントンによるマナイズム、ムスヒの理論を重ね、タマフリを捉えようと試みた。

 古神道において、タマフリを鎮魂帰神法としてリバイバルしたのは本田親徳であり、本田の継承者であった長沢雄楯から大本教に伝わり、さらに友清歓真により宮地神仙道、太古神法と並ぶ奥義として体系化されてゆくことになる。また、川面凡児、白川神道の流れである鬼倉足日公にも、こうした鎮魂術は伝承されている。」

「タマフリの根幹にあるのは「籠り」を経て再生する思想である。この神話類型は、世界各地に見いだすことができる。冥界訪問や脱皮型神話、容器からの出現神話などがこれにあたるが、本邦では洞窟から出現するアマテラスや、壺に入って三輪川を流れてくら秦河勝、桃太郎や竹から出現するかぐや姫なども、籠りからの再生の神話類型とみることができるだろう。」

「数学者の岡潔は「論理も計算もない数学をやりたい」と語っていたが、学問の本質もまた、かつては瞑想や籠りと一つであった。岡潔は、和歌や神代思想と数学をほとんど即で捉えていたのだ。」

(「おわりに」より)

「歌い、踊ることは、とてつもない古い記憶により突き動かされているフォルス(力)そのものである。確かに、コロナ禍は、社会や経済に大変な危機をもたらしたかもしれない。しかしながら、芸能の本質は、そんなものでは微塵も揺るがない。ライブやイベントの中止などといった事象は表面的な、あるいは芸能ビジネスの危機に過ぎない。芸能全体をみればむしろ、コロナ禍前の生ぬるい、平和ボケした芸能を一掃し、新しい芸能が再び、大衆の内より立ち上がってくる転機が訪れようとしていると筆者は捉えている。」

「本書は、よくある芸能起源論のように、「人間のみが芸能を生み出すことができた=人間は特別なのだ」という立場には立たない。むしろ、三木成夫の発生学と同様、芸能を、生命そのものに組み込まれたものとして捉える立場に立つ。

 あらゆる生命は回遊のように宇宙的律動(太陽系の律動の記憶、生命記憶)と呼応する運動(=芸能)をしており、人の芸能もまたそれらと同じように、冬至や夏至の芸能、インドのラーガのように、宇宙的な律動と感応しながら展開してきた。

 歌い、踊ることは、瞑想し、意識変容することである。瞑想し、意識変容することは、宇宙律動や神の律動と感応するという、生命やあらゆる物質に刻まれた根源的な記憶とフォルスにほかならないのだ・・・・・・。

 芸能とは、この自然の本性へと回帰する態にほかならない。それゆえにあらゆるモノゴトはこの芸能の領域、瞑想の領域に成りうる。たとえば、苔や黴、粘菌、メタン菌のような存在からも、芸能を学ぶことができる。むしろ、このような存在にこそ、死のシステムの発生やシステム以前の芸能が残されているからだ。芸能とは本質的にメメントモリであり、タナトロジー的な存在であるのだから・・・・・・。」

《目次》

はじめに 人はなぜ歌い、踊るのか
第1章 原始、人類はみな「野生の芸能者」であった
第2章 先住民の芸能にみる意識変容
第3章 弾圧される放浪芸能者、失われる芸能の本質
第4章 原初の歌唱芸能の姿を探る
第5章 古代と現代をつなぐ存在
第6章 籠りとタマフリ
第7章 「声」を蘇らせるーーフースラーメソード
第8章 ラバンのエフォート理論
第9章 アルトーの未来的祝祭演劇
第10章 ラスコーの鳥人間変容術
補講1 芸能の聖典
補講2 ルーツ芸能
補講3 世界の放浪芸と大衆芸能

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