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山本圭『嫉妬論/民主社会に渦巻く情念を解剖する』/三木清『人生論ノート』

☆mediopos3384  2024.2.22

山本圭の『嫉妬論』は
副題に「民主社会に渦巻く情念を解剖する」
とあるように
ふつう論じられるような個人的な側面だけではなく
社会的な側面についても考察されている

程度の差はあれ
嫉妬からまったく自由になることは難しい
嫉妬は他者との比較から生まれるからだ

ひとは生まれると鏡像段階という
他者認識のプロセスを経ることで人格を形成していく

そのことからもわかるように
「私が私であること」には
他者との比較が避けられない

「私たちは他人と比較することではじめて、
自分のアイデンティティを形成したり、
社会における自らの立ち位置を
確認することができる」

嫉妬が生まれるのは
自分を他者と比較し
そこにじぶんの劣勢の感覚が関係するときであって
比較できないあるいは比較しても意味のない
そんな他者に嫉妬を感じることはない

「比較が成立するためには、
一定の類似と接近が不可欠」なのである
まったく似ていない者や遠くに位置する者に
嫉妬を感じることは稀である

嫉妬には「上方比較」と「下方比較」があるが
「自分が苦労して手に入れたものを、
ほかの誰かが簡単に手に入れたとき」などのように
自分より劣位にある者(下方)へも嫉妬することがあり
なかなか手に負えない感情である

しかも「自分が感じる満足の絶対量の多寡ではなく、
他人と比較することで生じる不満や欠乏感」である
「相対的剥奪」という嫉妬の感情も生まれがちである

嫉妬と似た感情としては
ジェラシーやルサンチマン
シャーデンフロイデなどがあるが
重なるところはあるとしても少しばかり異なっているので
確認しておくことにしたい

ジェラシーのばあい「ライバルが自分のものを
奪おうとしていると考えるのに対し、
嫉妬者の場合、自分が欲しているものを
ライバルが持っていると考える」
ジェラシーが防御的であるのに対し
嫉妬はむしろ攻撃的である

ルサンチマンは嫉妬というよりも
嫉妬の感情がルサンチマンを起こさせる燃料となる

またシャーデンフロイデ(害+喜び)では
「妬みの対象が不幸のどん底にあるのを目の当たりにすると、
妬みはシャーデンフロイデに転生する」
嫉妬の対象となるひとの不幸を喜んでしまうのである

そんな嫉妬という感情は
最初にふれたように他者との比較
そしてそこになにがしかの劣等感がある場合に生まれるが

「自分が嫉妬していると他人に思われる」ことは
道徳的に恥ずかしさを伴うので知られたくないと思い
また「嫉妬していることを自分で認める」ことは
自尊心を傷つけることになってしまうことから
じぶんの劣等感を外からの責任にすり替えようとするなど
なんだかんだとやっかいな感情である

そんな嫉妬だが
その嫉妬がまったくネガティブで無意味かといえば
そうとも言い切れない

まず個人的な側面でいえば
「嫉妬」という「感情」は
「「私は何者であるか」を教えてくれる」

「私は誰の何に嫉妬しているのか」
「私は誰と自分を比べているのか」と問うことで
「私がどういう人間であるか」と
「ときに自分でも気付かないもう一人の自分を
開示してくれることがある」

また社会的な側面
とくに民主主義との関係でいえば

民主主義における価値観の柱でもある「平等」を
達成するために「比較」が禁じられるとすれば
その「平等」は「画一化」への道となってしまうため
それを避けるためにも(必要悪だろうが)
「嫉妬」がそれなりに働く必要がある

民主主義にとって重要な価値である「平等と差異」が
「交差する地点こそが嫉妬の故郷であるとすれば、
民主社会はこの感情の存在を受け入れる必要がある」

その意味において嫉妬は
「民主主義と同じ土壌から生まれた双子のようなもの」で
「デモクラシーに不可避の情念」だというのである

そうはいっても
「嫉妬と折り合いをつける」ことは不可欠である

いちばんいいのは「比較」をやめることだが
「比較をやめられないなら、
比較をとことん突き詰めてみる」ことを
山本氏は本書の最後に提案している
とはいえおそらく「嫉妬」することを
生きる養分にしているひとにとっては
火に油を注ぎそうで難しいだろう

個人的にいえば小さなころから
面倒だということもあり
ひととの競争という発想が希薄で
比較という発想をあまりしないできているため
嫉妬のような感情から比較的自由でいるのだが
そのぶんひとの過剰なとしか感じられない嫉妬の感情が
よく理解できないでこともよくあったりする

長くそれなりに世の中で働いていたりすると
まわりのそうした「競争」や「嫉妬」に
振り回されざるをえないこともあり
それに辟易してしまったりもするように・・・

さて山本圭『嫉妬論』のなかに
三木清『人生論ノート』に収められている
「嫉妬」について言及されていることもあり
久し振りに読み返したみたところやはり素晴らしい示唆がある

そのなかかから少しばかり引用しているが

「嫉妬はつねに多忙である」
「個性的な人間ほど嫉妬的でない」
というあたりはとくに深く肯けるところだ

「比較」「競争」や「嫉妬」する暇があれば
じぶんのやりたいことに時間を割くのがいい
それらに要する時間は無駄としか思えない

じぶんのやりたいことをするということは
言葉をかえれば
ひとのことを気にしないということでもあり
「個性的」(と呼ぶ必要はなく
じぶん以外などになろうとしないということだろうが)
ということでもあるだろう
劣等感なんかなんのその
みんなと同じであろうが違っていようが我関せずである

■山本圭『嫉妬論/民主社会に渦巻く情念を解剖する』
 (光文社新書 1297 光文社 2024/2)
■三木清『人生論ノート』(新潮文庫)
(昭和四十九年十二月・五十冊(昭和四十二年三十五冊改版))

*(山本圭『嫉妬論』〜「プロローグ」より)

「文学や映画においても嫉妬にかんする話題には事欠かないし、それどころか、嫉妬感情はしばしば物語を動かす大きな起爆剤でもあった。こうしたあまたの記録は、どれも面白いのだ。神とも動物とも異なる「人間味」というものがあるとすれば、それはこうした不合理さにあるに違いない。その意味で、本書が目指すのは一つの「人間学」でもある。

 同時に、本書にはもう少し学術的な動機もある。嫉妬という感情は、通常、社会心理学のような分野で扱われることが多い。こうした研究では。人はどのような対象にどのような諸条件のもとで嫉妬心を抱きやすいか、嫉妬が強まる(あるいは弱まる)のはどういうときかなど、様々な実験を通じて明らかにされている。」

「私は、多くの自己啓発本に見られるように、本書を単に嫉妬心を戒めるといったありがちな説教にはしたくないと思っている。代わりに強調したいのは、嫉妬感情が単に個人的なものではなく、私たちの政治や社会生活と深く関わっているということだ。これは、永田町の陰謀や。権謀術数を駆使する老政治家の嫉妬のことではない・むしろ、正義や平等、さらには民主主義といった政治的な概念そのものが、嫉妬感情と深く関係している。だとすれば。嫉妬についての考察を抜きにして、政治的な概念や問題を理解することはできないのではないか。嫉妬がいかにしぶといものかを前提に、それが私たちの民主的な社会の必然的な副産物であることを示すことができればと思う。」

*(山本圭『嫉妬論』〜「第一章 嫉妬とは何か」より)

・嫉妬と憧憬
「どちら(嫉妬と憧憬)も他人が持っているものが欲望の原因になる点で違いはない。しかし憧憬の場合、私たちは自分が持っていない才能や容姿などを持つ誰かにあこがれの感情を抱き、自分もそれを手に入れられるよう努力するだろう。それに対し、嫉妬に特徴的なことは、他人が持っているものを自分が持っていないという状況に苦しみ、他人がそれを失うことを切望する点にある。自分をより高みへと引き上げるのではなく、むしろ他人の足を引っ張ることで溜飲を下げる、これこそ嫉妬が邪悪であるとされるゆえんだろう。」

「嫉妬はどのようなときに生じるか。これは割合はっきりしている。そう、嫉妬心が首をもたげるのは、自分を他人と比較するときにほかならない。つまり、嫉妬の感情は比較可能な者同士のあいだに生じるということだ。裏を返せば、比較できない相手に対しては、私たちは嫉妬を感じないということでもある。」

「いけないと分かっていながらも、なにかと隣人の境遇と比較してしまう、これは人間の性であると言ってよい。私たちは他人と比較することではじめて、自分のアイデンティティを形成したり、社会における自らの立ち位置を確認することができる。その意味で比較することそれ自体にいいも悪いもない。」

・上方嫉妬と下方嫉妬
「一般に、社会的比較は、優れた身体能力や知性、あるいは財産やプライベートの充実度などの点で、自分より優れた他者と比較する「上方比較」と、自分より劣位にある他者との比較を指す「下方比較」に分けることができる。私たちはたえず上と下を見ながら、自分の立ち位置をはかる悲しい生き物なのである。」
「上方嫉妬はある意味で分かりやすい。自分よりも優位な状況にある人々を見ることで、私たちの心は深くかき乱される。
 より興味深いのは、「下方嫉妬」の存在である。(・・・)私たちは自分より下方にある、もしくは劣位にある人々に嫉妬することがありうる。
(・・・)
 自分が苦労して手に入れたものを、ほかの誰かが簡単に手に入れたときにも嫉妬することがある。自分が血の滲むような努力の末に成し遂げたと思っているものを誰かが難なく達成してしまうのを見たとき、あるいいは自分は高額の支払いをしたのに、同じものを運よく安価で手に入れたような人がいると、その人物の才能や幸運に嫉妬が生じるというわけだ。」

・相対的剥奪
「自分が感じる満足の絶対量の多寡ではなく、他人と比較することで生じる不満や欠乏感のことを、社会学や社会心理学の分野では「相対的剥奪」と呼ぶ。」

・嫉妬とジェラシー
「嫉妬とジェラシーをはっきり区別するのは難しく、両者はかないrのところ入り混じっている。」
「じつは嫉妬とジェラシーがいくら似ているとしても、両者には決定的な違いがある。すなわち、ジェラシーが「喪失」にかかわるのに対し。嫉妬はおもに「欠如」にかかわっているということだ。(・・・)つまり、ジェラシーを感じる人は、ライバルが自分のものを奪おうとしていると考えるのに対し、嫉妬者の場合、自分が欲しているものをライバルが持っていると考えるわけだ。(・・・)別の言い方をすれば、ジェラシーが防御的であるとすれば、嫉妬はむしろ攻撃的なのである。」

・ルサンチマン
「嫉妬感情はルサンチマンを引き起こす一つの燃料であり、そのかぎりで高貴な価値を否定するルサンチマンそのものとはさしあたり区別できるはずである。」

・シャーデンフロイデ
「この言葉(シャーデンフロイデ)は、「害」を意味する「シャーデン」と「喜び」を意味する「フロイデ」が組み合わさったドイツ語である。(・・・)「他人の不幸は蜜の味」や「隣の貧乏鴨の味」といったところである。」
「シャーデンフロイデは、他人の不幸から悦びを引き出している点で大いに恥ずべき感情だ。容易に想像できるようにこれは嫉妬感情とも密接に絡み合っている。つまり、妬みの対象が不幸のどん底にあるのを目の当たりにすると、妬みはシャーデンフロイデに転生するというわけだ。」

・自分が嫉妬していると他人に思われる恐怖
「私たちは一般に、嫉妬感情を表に出すことを極端に嫌う。嫉妬心は道徳的に擁護しがたく、恥ずかしいものであることを知っているからだ。(・・・)誰かへの嫉妬を疑われることは、私たちを非常に難しい立場に追いやることを意味するだろう。」

・自分が嫉妬していることを自分で認める恐怖
「自分の嫉妬に自分で気づいてしまうことは、それとは別の残酷さが伴っている。つまり、誰かへの嫉妬を認めることは、同時にその人物に帯する劣等感を認めることにもなるのだ。これは当人の自尊心を大いに傷つけるものであり、なかなか受け入れがたいだろう。
 そのため、私たちが自分の嫉妬を受け入れるためには、その劣等感を自分の責任にするのではなく、何か別の理由、たとえば私たちにはコントロールすることができない運や運命のせいにしてくれる文化的装置がとても重要になる。たとえば失敗や不運を神の意志であると考えることができれば、それは私の能力不足のためではないと自尊心を傷つけることなく諦めがつくかもしれない。」

*(山本圭『嫉妬論』〜「第三章 誇示、あるいは自慢することについて」より)

「一般に、他人の自慢話ほど不愉快なものはない。あなたの周りにも一人か二人いるだろう。自分の成功や業績を吹聴してやまない人が、SNSを見渡せば、そこでは誇示競争のようなものがたえず繰り広げられている。(・・・)
 そもそも、人はどうして何かを自慢したがるのだろうか。おそらく承認欲求であるとか自信のなさに表れであるとか、様々な説明がなされているだろう。興味深く思えるのは、そうした承認に対するあくなき欲求が、誇示や自慢によってはなんら解決されているようには見えないことだ。まるで喉の渇きを癒やそうとして海水をがぶ飲みするように、誇示者はますます承認に飢えているように見える。」

「現代では、多かれ少なかれ、誰もが私的であったはずのものを公的空間に垂れ流している。これは個人の内面、いわば心についてもそうである。立木(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房新社。2013年)は人々が心の闇をさらす社会を無意識が衰退した社会と捉えるが、これもまら誇示の民主化の一つの帰結と見ることができるだろう。」

*(山本圭『嫉妬論』〜「第四章 嫉妬・正義・コミュニズム」より)

「ロールズの公正な社会においては、人々のあいだの経済的格差は過度なものにはならないことが強調されていた。そのおかげで、彼は人々の嫉妬が度を超したものにはならないだろうと考えたわけだ。
 だが、格差の減少はむしろ、いっそう激しく嫉妬をかき立てはしないだろうか。アリストテレスが指摘していたように、嫉妬が比較可能な者のあいだに生じるとすると、格差が狭まれば狭まるほど、相手の存在が手の届くほどに近づけば近づくほそ、彼/彼女との埋まりきらない差異がますます絶えがたいものとして現れるのではないだおろうか。
 この点について、デイヴィッド・ヒュームもかつて次のように言っていたではないか。

  妬みを乱すのは、われわれ自信と他人の間〔の優劣〕が、かけ離れていることではなく、むしろ逆に〔優劣が〕接近していることだ(ヒューム『人間本性論 第2巻』)

 比較が成立するためには、一定の類似と接近が不可欠である。」

「平等主義的なユートピアを目指したはずのキブツにあっても、嫉妬の克服は容易なことではないようだ。あるいはむしろ、コミュニズムという平等主義のユートピアは、嫉妬のディストピアを招く可能性すらある。確かに、経済的な平等や共同所有が実現すれば、私たちは隣人の暮らしぶりや、自分より恵まれた同僚の待遇に心を砕かなくて済むようになるかもしれない。しかしだからちって。嫉妬心がきれいに消えるわけではない。
(・・・)
 たとえコミュニズムが人々の経済状況や暮らし向きを均すことに成功したとしても、嫉妬はまた別の差異へと憑依する。そしてそれは以前よりはるかに陰湿で、危ういものになるかもしれないということなのだ。
 現代のコミュニズムをめぐる議論が看過しているのは、まさにこの嫉妬の問題ではないだろうか。人々の暮らしに直結する技術や資源を資本主義から切り離し、コモンとして民主的に共同管理するとき、これまで気にも留めなかった差異が途端に顕在化する。そしてこの薄暗い感情はまたしても人々を煽り、社会主義のプロジェクトの足を掬うことになるかもしれない。現代左派のコンセンサスになりつつあるポスト資本主義の展望は、こうした負の感情に何らかの仕方で向き合う必要がある。」

*(山本圭『嫉妬論』〜「第五章 嫉妬と民主主義」より)

「自由民主主義において柱となる価値観の一つはもちろん平等である。しかし嫉妬を禁止することで達成される平等はつまるところ画一化に過ぎず、それほど民主的なものではない。あるいはせいぜい丸山眞男が言う「引き下げデモクラシー」といったところだろう。」

「嫉妬の完全に禁止された社会は、どんな差異も許さない息苦しい社会となる可能性が高い。平等と差異(これらはいずれも民主主義にとって重要な価値である)が交差する地点こそが嫉妬の故郷であるとすれば、民主社会はこの感情の存在を受け入れる必要がある。だとすると、嫉妬は民主社会を破壊するというよりも、民主主義と同じ土壌から生まれた双子のようなものであり、デモクラシーに不可避の情念であると言うべきなのである。」

*(山本圭『嫉妬論』〜「エピローグ」より)

「嫉妬に何かしら意味があるとすれば、それはこの感情が「私は何者であるか」を教えてくれるからである。たいていの場合、私の嫉妬は他人には共感されない。私の嫉妬は私だけのものである。私は誰の何に嫉妬しているのか、なぜ彼や彼女に嫉妬してしまうのか。これは翻って、私がどういう人間であるか、私は誰と自分を比べているのか、私はどんな準拠集団のなかに自分を見出しているかを教えてくれるだろう。確かにそれは客観的な自己像とは言えないかもしれないが、ときに自分でも気付かないもう一人の自分を開示してくれることがあるのだ。」

「嫉妬のエネルギーは必ずしも社会を堕落させる方向ばかりに働くわけではない。それは不正を告発したり、不平等を正すなど、世直しのエネルギーとして発動されることも原理上ありいる。これこそ、嫉妬無き社会を語るものが見落としている点である。

「嫉妬に免疫のある社会とは、一体どのような社会だろうか。たとえば、多元的な価値に寛容な社会作りもまた、嫉妬に支配されないための対処法になる。価値観が一元化してしまうと、人々のあいだの差異や優劣が一発で可視化されてしまう。そうすると、誰が誰よりどれだけ優れているかの序列が明白になってしまい、社会は嫉妬で満ちてしまうだろう。」

「個人レベルでの嫉妬はどうだろうか。まず、嫉妬と折り合いをつける方法として、各人が倫理的な精神的態度を涵養することで嫉妬を乗り越えることが挙げられる。」

「多くの自己啓発本が指南してくれているように、嫉妬から確実に逃れる方法が一つだけある。それは比較をやめることだ。他人との比較さえしなければ嫉妬心が芽生えることはない。比較をやめたいなら競争かた降りてみるのも一つの手だろう。だが、誰もが知っているように、比較をやめること、これが存外に難しい。
(・・・)
 なら逆に考えてみてはどうだろう。比較をやめられないなら、比較をとことん突き詰めてみるのだ。ある部分にだけ特化した半端な比較こそが、嫉妬心を膨らませているとすればどうだろうか。疎ましく思う優れた隣人をよくよく観察すると、思いもしなかった一面が見えてくるものだ。当たり前だが、完璧な人間などそうそういない。そのような意外な事実が目に入れば、あなたの嫉妬心もかなりのところ和らぐはずなのだ。比較をやめられないならあえて徹底してみること、逆説的ではあるが、これだけが嫉妬という怪物を宥める確実な方法であるように思われる。」

*(三木清『人生論ノート』〜「嫉妬」より)

「もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向かって働くのが一般であるから。

 どのような情念でも、天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。愛と嫉妬とは、種々の点で似たところがあるが。先ずこの一点で全く違っている。即ち愛は純粋であり得るに反して、嫉妬はつねに陰険である。それは子供の嫉妬においてすらそうである。」

「愛と嫉妬との強さは、それらが激しく想像力を働かせることに基づいている。想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。愛と嫉妬とが術策的であるということも、それらが想像力を駆り立て、想像力に駆り立てられて動くところから生ずる。しかも嫉妬において想像力が働くのはその中に混入している何等かの愛に依ってである。嫉妬の底に愛がなく、愛のうちに悪魔がいないと、誰が知ろうか。」

「嫉妬は自分よりも高い位置にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起こる。だがその差異が絶対的でなく、自分も彼のようになり得ると考えられることが必要である。全く異質的でなく。共通のものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬がより他界ものを目指しているように見えるのは表面上のことである。それは本質的には平均的なものに向かっているのである。この点、愛がその本質においてつねにより他界ものに憧れるのと異なっている。」

「嫉妬とはすべての人間が神の前においては平等であることを知らぬ者の人間の世界において平均かを求める傾向である。」

「一つの情念は知性に依ってよりも他の情念によって一層よく制することができるというのh、一般的な真理である。英雄は嫉妬的でないという言葉がもしほんとであるとしたら、彼等においては功名心とか競争心とかいう他の情念が嫉妬よりも強く、そして重要なことは、一層持続的な力となっているということである。」

「嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。」

「もし無邪気な心というものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心というのが何よりも適当であろう。」

「嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって、嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性的にんる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。」

◎山本圭『嫉妬論』目次

プロローグ
第一章 嫉妬とは何か
第二章 嫉妬の思想史
第三章 誇示、あるいは自慢することについて
第四章 嫉妬・正義・コミュニズム
第五章 嫉妬と民主主義
エピローグ
あとがき

◎山本圭(やまもとけい)プロフィール
1981年京都府生まれ。立命館大学法学部准教授。名古屋大学大学院国際言語文化研究科単位取得退学、博士(学術)。岡山大学大学院教育学研究科専任講師などを経て現職。専攻は現代政治理論、民主主義論。
著書に『不審者のデモクラシー』(岩波書店)、『アンタゴニズムス』(共和国)、『現代民主主義』(中公新書)、共編著に『〈つながり〉の現代思想』(明石書店)、『政治において正しいとはどういうことか』(勁草書房)、訳書に『左派ポピュリズムのために』(シャンタル・ムフ著、明石書店、共訳)などがある。

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