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古井 由吉『連れ連れに文学を語る: 古井由吉対談集成』〜柳瀬尚紀「ポエジーの「形」がない時代の言語表現

☆mediopos2958  2022.12.23

古井由吉と柳瀬尚紀の
一九九五年の「ポエジー」をめぐる対話から
つらつら考えてみたこと・・・

ポエジーとは
つくること

けれどそれは
「埒(らち)」の
外れたところにある

埒とは「囲い」

埒(らち)を外し
埒を離れることで
はじめて生まれるポエジーがある

けれどそのためには
埒をしっかりと
見据えることができなければならない

囲いを外れ
囲いを越えるためには
まず囲いがなければならない

論理を超えた
超論理に向かうためにも
ポエジーが必要だ

その論理にも
ポエジーがないと
その論理は囲いのなかに
閉じ込められたままだ

言葉もまた
ポエジーを宿すためには
その埒をもちながら
それを超えてゆかねばならない

温故知新という言い習わされた言葉があるが
故きを温ねることが
埒を身につけることだ
そして新しきを知るためには
埒を超えねばならない

ポエジーには
あらゆるものの源にありながら
つくられたあらゆるものを
超えていこうとする志がある

そんな埒もないポエジーを味わえますように

■古井 由吉『連れ連れに文学を語る: 古井由吉対談集成』
 (草思社 2022/2)

(柳瀬尚紀「ポエジーの「形」がない時代の言語表現」(「海燕」一九九五年三月号)より)

「柳瀬/やっぱり僕は、古井さんの文章を読んで感ずるものは、ポエジーといってもいいもので、その中で、古井さんがときどき、埒を外すとか埒もない、埒を外れるみたいなことをときどきお使いになるんですね。
 ポエジーっていうのはつくることにあるんだけれども、なにか埒を外すというか外れていくときに、最初に古井さんが不自由と自由っていうことをおっしゃったときに、ああ、僕の勘は当たってたかなとふと思ったんですけれども、その辺を僕はお聞きしたいところなんです。

古井/埒をしばし離れるっていうのはポエジーの妙味であるんだけど、それはまず埒があっての上でしょう。埒を頼って埒から外れる、これが古典的な形だと思うんですよね。

柳瀬/ああ、なるほど。

古井/僕らが埒を外すときは、ちょっと埒がわかんなくなるところまで行きかけるわけです。僕が口癖のように、埒もないとか埒があかないとか埒を外れるという言葉を使うのは、逆にいうとね、どうか埒がしっかり見えてくれるようにと、呪文みたいなところもあるんです。

(…)

古井/まあ、日本の散文は、近代になってからヨーロッパのロジックを背負いこんじゃったわけですね。まあ、ずいぶん苦労してきて、どうにかこなすぐらいのところまでいったんだけど、ロジックとレトリックとポエティックというのは不可分なものでしょうね、本来は。
 たとえカントみたいに、いくら無味乾燥に見えるものでも、もしあの中のポエティックの要素を外して読むと頭に入らないでしょう。日本のぎこちない翻訳を読むと、一向にポイントがわからない。
 日常の上でも、外国人となにか、ビジネスでも何でもいい、外国語で渡り合わなくてはならないときに、それこそ、なかなか埒があきませんね。向こうは論理も立つけど、その論理を支える音楽性みたいなのがありますよね。僕らはどうも、議論をしているときにも、なにか古い口調につかない限り、ポエティックな柱っていうのかな、ポエティックなアーチに欠けるんですよね、支えとして。

柳瀬/なるほど。

古井/だけど、逆に考えてみると、それなしで文章が書けているかどうか、ということなんですよね。

柳瀬/チャーチルなんけでも、ずいぶん吉田健一さんなんかは、その演説一つとっても、これは英文としてうまいんだというようなことを書いてますよね。
 僕らはどうしても外国人として英文を読むときに、ロジックばっかり取ろうとして、なかなかその裏にあるものっていうのは見えにくいんです。だから、ロジックすらもポエジーと同時に発語してるんですかね。」

「古井/僕はね、物事を考えるとき、とかく欠乏のほうから考えるんですよ、だから、今どき文学が、ましてや小説がポエジーを持つことはむずかしいと、これは認めてかかるんです。しかしもしポエジーがまったくなかったら、小説は成り立つかと。
 だから、人の文章を読むのにも、どこにポエジーがあるか、まあ、気韻だとかいろいろな言い方もしますね、要するにどのようなポエジーがあって文章の論理をささえているか、いつもそれに関心がある。自分が書いているときにいちばん怖いのは、音痴になってしまうことね。書いていて、ポエジーをそれなりに探る感覚が失せた場合、簡単な論理の文章でも書けなくなるという。

柳瀬/そういう意味の音痴ですね。

古井/聾唖とも言える。ポエジーの聾唖に陥るのを恐れていることが、ときどきありますね。」

「柳瀬/ポエジーということに話を戻せば、言語を書いていて、必然的にあとからポエジーがくっついてくるようなものになるべきなのに、先になにかあって、それを追っ掛けながら言葉を書いているような人が多い気がするんですがね。

古井/それも自然かもしれないんですよね。追っ掛けて書いているという言い方をもうひとつ和らげると、ポエジーの形がないでしょう。それになんとか形をつけていこうということなのでしょうね。
 どういう構成だの、どういう論理性だの、尋ねても意味がないことが多いんじゃないかしらね。
 なにか一つのポエジー、そりゃ、先輩たちに言わせると、こんなもの、ポエジーじゃないっていうかもしれないが、このポエジーによってしか、自分の言語表現は成り立たない。それによって引っ張っていくような気がするんですよ。まだまだ、いろいろ経験を積んでないから、そのポエジーからして、粗い表現になることもありますけど、でも。、切り詰まり方はだいぶのところまで来ているように思います。
 だんだんにポエジーの勝負どころに来てるかなって思うんですよ。日本の文学全体がね。そのときに、ありきたりのポエジーに経ってるようじゃ駄目ですね。それと逆のことのようだけど、表現の危機に追い込まれるには、やっぱ古いものを心して読まなくては。そうすると、今自分がどんなところに押し込まれているか、わかりますから。

柳瀬/いや、本当に古いものを読まなきゃ駄目なんですよ。

古井/古いものを読んで、それを真似しようとしては駄目です。絶望するのが大事ですね。

柳瀬/あと、志だな。

古井/そうですね。

柳瀬/なんか、僕、志っているのを感ずるんですよね、文学読むと。

古井/志の死は、人の作品を読んで畏れ入ることだから、それには先輩作家では無理だとしたら、もうちょっと古井のを読んで……。あんまり畏れ入ってゲラゲラ笑って読むっていうことだってあるでしょう。ダンテを読んで涙こぼして笑ったとか。」

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