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ハリー・スタック・サリヴァン『個性という幻想』

☆mediopos3246  2023.10.7

アメリカ精神医学の源流として
一九七〇年代になって再評価された
サリヴァン(1892-1949)は
「独立した個人」という考えは幻想であるとした

個人的差異である独立した「個性」を
決定的だとするのではなく
ひとは相違点よりも共通点を多く持っているとして
患者一人ひとりを診るのではなく
「人間集団に対する精神医学」を唱えたのである

「私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ち」
「対人関係の多くが幻想上の人々」を
「現実上で操作することから成り立」ち
「しかもそれがしばしば実在人物群」よりも
重大視されているがゆえに

「目の前の患者を治療する」身体所見と同じように
「人間同士がいかに相互作用するかをみる」対人の場でも
考えられなければならないというのである

いうまでもなく
「ケア」という視点からみれば
「目の前」のひとを唯一無二の存在として
とらえることが不可欠で
サリヴァンのように
ひとを対人関係だけをベースにとらえ
「個性とは幻想である」としてしまうと
その基本的な視点は損なわれてしまうが

逆にいえばその「目の前」のひとを
「目の前」のひととしてだけとらえてしまうと
そのひとの有している様々な次元を
とらえそこなってしまうことにもなる

しかしひとの「人格(ペルソナ)」形成にあたっては
「他者」との関係性が不可欠であり
その関係性の多くは「実在人物群」ではなく
「幻想上の人々」との間に成立することで
人格形成がなされるとすれば

「対人関係の数と同じだけ」有している「人格」は
多くのばあい家族や民族
そして社会や教育の環境においてかなりの部分が
集団的に形成されているととらえることができる

そのようにサリヴァンは
精神医学を社会科学のなかに位置づけたといえるが
社会的な人格形成あるいは
さらには組織や共同体などのありようを
「精神医学」的にとらえることもできる

サリヴァンはそうした視点から
人種差別や徴兵と戦争
プロパガンダや国際政治などにおける
精神医療と実社会の関わりなども論じていて興味深い

引用部部分の最後に参考までに
「プロパガンダと検閲」という記事から
少しばかり紹介しておいたが
まさに現在政府やメディアが
行っていることそのものである
これもまさに「精神病理」的な現象である

「プロパガンダとは客観的情報よりも
情緒を優先させようとする活動」であり
「そこには権力や特権のデモンストレーションがあり」
「綿密に計画された温情、拒絶、えこひいき、
そしてやはり綿密に計画された暴力がある」

「あらゆる検閲行為はプロパガンダの一種」であり
教育とプロパガンダの関係については
「既存の価値観に対象者を
合流させようとするのが教育」であり
「「社会」が制度や強制力によって形をとったもの」

さらにいえば
「これに反対する勢力は圧力団体と一括りにされる」
「プロパガンダと検閲」に反対すると
現在は「陰謀論」と呼ばれることになるように

このように社会的なレベルで「人格」をとらえる視点は
なぜ多くの人々が似た精神病理的な行動とるのかを
見ていくためにも重要だと思われる

■ハリー・スタック・サリヴァン(阿部大樹 編訳)
 『個性という幻想』(講談社学術文庫 2022/10)

(「編訳者まえがき」より)

「サリヴァンが甦ったのは二回目である。
 生前にはアメリカの医学界を陰で支配しているとまで言われていた。死後、一九五〇年代の赤狩りと同性愛嫌悪の時代には彼の名さえ忌み嫌われるようになったが、七〇年代になって精神医学の中心がドイツ語圏から北米に移ると、アメリカ精神医学の源流としてサリヴァンは再評価された。思春期以前の同成案を描き、ほとんど禁書のようにされていた彼の『精神病理学私記』がやっと世に出たのも一九七二年である。

 八〇年代になると「精神医学」は時代遅れになった。神経科学者が疾患研究の前線に立つようになり、九〇年代は「脳の一〇年」であると大々的に宣伝された。それからうすうの新しい抗精神病薬が上市されたものの、しかし現実に生きる患者にとって恩恵はそれほど多くなかった。今世紀初頭、そのような停滞のなかにあって、重い精神障害となるよりも前の段階から公衆衛生に関わろうとする学問的潮流が生まれる。それは病院の中だけでなく「社会」に精神医学がどう踏み込むか、という課題でもあった。そしてこのときサリヴァンはもう一度、甦ることになった。患者一人ひとりを診るのではない精神医学を提唱した先駆者であったからである。

 ————「個性とは幻想である」とサリヴァンが言ったとき、それはあまりにラディカルな危険思想として受け取られた。しかしまずそれは端的に、独立ないし自立した人間というのが机上論に過ぎないことの指摘であった。個人ごとの差異を、彼はまったく決定的であるとか、特別視するべきものとは考えない。人間は互いに相違点よりも共通点をずっと多く持っていると信じて、「人間集団に対しての精神医学 psychiatry of peoples」を唱えたのだった。

 一人ひとり個人の破綻であっても、全一律に課されたものがしばしばその契機になったいる。学校、行政組織や軍隊といった人間集団とは誰でも関わりを持つほかないけれども、個人ではなくてこの実社会の方にある病理は、サリヴァン以前には医学の埒外にあるとされていた。(・・・)

 それを解消するための行動は、個人それぞれにある差分よりも、法とか慣習として人類全体に固着しているものを改めることだと彼は主張した。これがトラウマ理論や発達病理学と呼ばれて学際的な研究領域として確立されつつある現代、サリヴァンが改めて注目されるようになったのは、彼の提出したものにやっと科学が取り組めるようになったからでもある。」

(「精神医学入門三講」〜「第三講」より)

「ここワシントン精神医学校では「汝自身を知れ」の格言を、このように読み替えます。「自分自身のおかれている対人の場について認識し、その場をより正確に定義し、それを適切に統合するにはどのように影響力を行使するべきか真鍋」と。」

(「精神医学————『社会科学百科事典』」より)

「二〇世紀に入ってからの変化は、多くの軽症例と一部の重症患者を治療する中で生じたものである。ここからさらに精神衛生運動 mental hygiene movement は派生し、精神医学が社会全体の福祉にとっても有益であると知られるようになった。しかしながら医療者を養成する仕組みは顕微病理学や生化学の時代から変わっていない。医学教育が生物学偏重となっていて、いわば非人間的であって、カリキュラムには社会科学が含まれていない。(・・・)

 精神医学の理論は、健康や不健康を問わず、人間同士のあらゆる相互作用についての知見から組み立てられたものである。しかし実践上では、失調をきたした人物たちだけを取り扱ってきたものであるし、危険な人物からどうやって社会の安全を保つか、そして異常者をどうやってもとの常識的生活に復帰させるかに主眼が置かれている。この結果として。動機づけの方法論が注目されるに至った。魂胆した患者の情緒不安はもちろん激烈であるけれども、なお認知的アプローチの余地がある。動機がいかに作られているかについては精神分析学派から学ぶことも多い。

 力動的精神医学は、生理的、精神生物的、状況因子の総和として一人ひとりの人間を考える。生理的因子とは、体質、栄養状態、疾病状態の相互作用である。精神生物的因子とは、発達の各ステージにおける文化変容 acculturation、個人史に表れる抑止作用、欲動、各活動へのエネルギー配分、イベントへの敏感性、対人コンタクトの巧稚、発話やジェスチャーの様子などである。状況的因子とは、文化やその成員の動きを反映して対人的機会やハンディキャップが実際どれほどあったか、人生に関わる行政的制度の変遷、新奇体験をどれだけ経験できたか、などである。

 これまで精神衛生という言葉は様々に使われてきたが、これは対人的な適応について述べているときにのみ有意である。精神衛生が保たれているとはつまり、さきの三因子がうまくバランスをとりながら全体状況の中を歩みゆくことができている状態を指す。そして精神疾患とはこれが崩れた状態である。」

(「「個性」という幻想」より)

「不安の舞台となるのは「自己self」と呼ばれる人格の一部です。屈辱の記憶を遠ざけることによって、自己は圧力となりそうなもの(スポットライト機能)を回避しまう。このせいで体験から内省を拡げることができなくなります。これが選択的不注意です。

 ここで、私の言っている「自己」を、たとえば古臭い自我心理学者のいう「自我」とか、フロイトの「自我」だとか「超自我」と混同しないでいただきたいのです。私が言う通りの意味であれば。これは普遍的に体験されるものについて、かなりシンプルに言い表しているはずです。つまり自己とは、自尊感情、周りから認められている権威、払われている尊敬について完全に満足しているときの意識のコンテンツです。このような理想的状況にあれば、不安が生じることはありません。自己は完璧です。ほんの一つ欠けるところなく全てがいまく流れていきます。自己とは人格内部のシステムの一つであって、幼少期の無数の体験から組み上げられていて、その中心にあるのは他者を満足させることを通して自分を満足させることです。

 そしてここにほんの少しでも混線が起きたときに、不安が生じます。たとえば自尊感情を乱すような恥ずかしいことを思い出すとか、面罵されるとか、鼻で笑われるとか、凡庸だと言われたり、欠点をあげつらされたりするときです。」

「深くに植え付けられたこの幻想を取り除くことができれば、生きることはずっと素朴に、そして喜びの多いものになります。この幻想と並走している誤解、与えられた愛や優しさが受け取られたものと「同等」であるという誤解も直さなくてはなりません。人間が知りうるものすべてがそうであるように、愛さえも二者の相互作用であって、はっきりと交流的な性質をもっています。

 ここまでに私が喋ったことをその通りに受け取ってもらえれば、端的に言って、人間を「個々独立した存在」だとか「その各々を取り扱うことができる」などと考えるにはまったく見当違いだと分かるはずです。私たちが観察するべきは、個人ではなく、人間が互いに何を取り交わしているかであります。互いに取り交わすものを互いにどうやってコミュニケートしているか、と言い換えてもいいでしょう。

 それが完了すれば、個性というものが永遠不滅でも唯一無二でもないと明らかになるはずです。私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ちます。対人関係の多くが幻想上の人々————つまり非実在人物群————を現実上で操作することから成り立っていて、しかもそれがしばしば実在人物群(・・・)————よりも重大視されています。ですから、私が〈個性などというものは幻想である〉と言うとき、最初には狂気の沙汰と思われるにしても、そのうちに少なくとも一理ありそうだという程度には受け止めてもらえるものと信じております。」

(「不安の意味」より)

「現代の精神医学はただ目の前の患者を治療するだけではありません。(・・・)だから肌身の感覚に頼って治療していくだけでは不十分で、教育のための理論を調えることが求められています。人間同士がいかに相互作用するかをみる対人関係論は、これまでの医学からすれば異質ではあるにしても。しかし身体所見と同じように対人の場についても考えられるような基礎を用意していくべきでしょう。」

(「プロパガンダと検閲」より)

「プロパガンダとは客観的情報よりも情緒を優先させようとする活動である(・・・)。そこには権力や特権のデモンストレーションがあり、大掛かりなパレードや儀式や自作自演があり、綿密に計画された温情、拒絶、えこひいき、そしてやはり綿密に計画された暴力がある。

 芸術がプロパガンダに使われることもある。すなわちポスター、風刺漫画、演劇、音楽、そして創作物語である。

 ここで検閲 censorship のことを、コミュニケーションに対する作為的な介入の全て、と定義してみよう。そうすると、私たちの価値観はプロパガンダに必ず影響されるものであるから、あらゆる検閲行為はプロパガンダの一種ということになる。

 教育とプロパガンダは何によって区別されるだろうか。————既存の価値観に対象者を合流させようとするのが教育、一部少数者によって大衆の価値観を普遍化させようとするようなプロパガンダないし検閲は、教育と称される。「社会」が制度や強制力によって形をとったものである。これに反対する勢力は圧力団体 pressure group と一括りにされる。」

◎目次

編訳者まえがき

第一部 精神医学の基礎篇
精神医学入門三講
精神医学――『社会科学百科事典』より
黒人青年についての予備調査
症例ウォーレン・ウォール
「個性」という幻想
不安の意味

第二部 精神医学の応用篇
プロパガンダと検閲
反ユダヤ主義
精神医療と国防
戦意の取扱いについて
戦時体制に向けたリーダーシップの機動化
緊張――対人関係と国際関係

索引

○ハリー・スタック・サリヴァン
Harry Stack Sullivan 1892-1949。アメリカの精神科医。著書に『精神医学は対人関係論である』『現代精神医学の概念』『精神医学の臨床研究』『分裂病は人間的過程である』(以上、中井久夫ほか訳、みすず書房)、『精神病理学私記』(阿部大樹・須貝秀平訳、日本評論社)ほか。

○阿部 大樹
1990年、新潟県生まれ。新潟大学医学部卒。精神科医。訳書にH・S・サリヴァン『精神病理学私記』(須貝秀平と共訳、第6回日本翻訳大賞受賞)、R・ベネディクト『レイシズム』、H・S・ペリー『ヒッピーのはじまり』。著書に『翻訳目録』。

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