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陳春成『夜の潜水艦』

☆mediopos-3136  2023.6.19

小説とくに現代のそれを読むことは
そんなに多くはなく
しかも中国・台湾の関係では
翻訳されると読むことにしている作家は
今のところ台湾の呉明益くらいなのだが

1990年中国福建省寧徳市生まれの
陳春成(ちん・しゅんせい)のデビュー短編集
『夜の潜水艦』は驚きのうちに堪能することができた

著者が作品を発表しはじめたのは二〇一七年
二十七歳のときからだが
二〇一九年には「音楽家」が
文芸誌『収穫』の中編小説賞を受賞し
二〇二〇年九月に本書『夜の潜水艦』が刊行されると
インターネットサイト「豆瓣(ドウバン)」の
二〇二〇年度中国文学小説類ランキング第1位
二〇二一年の「『亜洲週刊』が選ぶ十大小説第2位に
選出されるなど話題をさらっているらしい

受賞作かどうかなどは気にしないし
ときには誇示されすぎていると敬遠したりもするけれど
今回はまず書店で美しい装丁に心惹かれ
(しかも「アストラハウス」という出版社が初耳なので
むしろそれを肯定的に受け取ったということもあり)
立ち読みし始めたときから
その言葉がすうっと入り込んできた

中国語はわからないけれど
翻訳されている文体が生きて伝わってきたので
原文の文体を適切に反映しているのだろうと想像している

最初に飛び込んできた文章は
最初に収められている「夜の潜水艦」の最初のところで

「一九六六年のある寒い夜、ボルヘスは汽船の甲板に立ち、
海に向けて一枚の硬貨を抛った。硬貨は彼の指のわずかな余
熱を帯びて、真っ黒い波音の中へと呼び込んだ。後にボルヘ
スはこれを詩に書き、硬貨を抛った自分の行為は、この星の
歴史に二本の並行した、絶え間ないつながり————彼の喜怒哀
楽の一秒一秒はすべて、海底の硬貨の何も知らない一秒一秒
と呼応するものになった。」

物語はやがてこのボルヘスの硬貨を探す
潜水艦の話にもつながってゆく・・・

ボルヘスである

収められている8篇の中短編は
ひとつひとつ全く異なる
迷宮のような世界が描かれていながら
ある意味でボルヘス風でもあり
また作品によれば中国風奇譚のようでもある

陳春成の作品世界には
著者自身の経験は直接的には表現されてはいないし
「政治や社会に関わる直接的な描写が極めて少ない」のだが

インタビューで作者自身も
現実の世界との関係を次のように語っている

「私は自分の経験にはあまり触れません。」
「もしかしたら、〝厳しい現実〟というテーマが
好きな読者の中には、私の空想物語が幻想的で派手で、
現実の生活や困難への配慮に欠けていると
感じる人もいるかもしれません。」

「しかし、現実の世界との付き合い方が
一つしかないとは思いません。
ありのままに描写するだけでなく、
別の世界を構築する能力も必要ではないでしょうか。
そして注意を払えば、どんなに奇抜な物語の中にも、
現実が鮮やかに反映されていることがわかるのです。」

個人的にいってルポルタージュなどを除けば
小説・物語世界に個人的な経験内容が
ベタに表現されているものの多くは読むに堪えないので
このようなスタンスには共感するところが多い
(とはいえ個性的な「文体」に魅力のある私小説は
そのかぎりではないのだけれど)

この作品集は個人的には
ボルヘスの作品群の棚の横に
記念として置かれることになりそうだが
おそらく数年後に翻訳刊行されるであろう
第二作品集が待たれるところである

■陳春成(大久保洋子訳)『夜の潜水艦』
 (アストラハウス 2023/5)

○夜の潜水艦
「一九六六年のある寒い夜、ボルヘスは汽船の甲板に立ち、海に向けて一枚の硬貨を抛った。」

○竹峰寺 鍵と碑の物語
「僕は、この鍵でUSBメモリで、家はまだ完全な状態でこのメモリの中に保存されているだけなのだと想像した。」

○彩筆伝承
「奇妙なペンは、液状のオーロラで満たした試験管のようでもあった。」

○裁雲記
「僕の日常業務は雲の剪定やメンテナンス、広告の印刷、剪定所の運営維持だ。」

○杜氏(とうじ)
「しなやかな始まり、雄大な続き、玄妙な転換、そして虚無の終わり。」

○李茵(リ・イン)の湖
「変な感じがする、と彼女は言った。ちょっと感動するし、とれの「ちゅんとする」ような気もする。」

○尺波(せきは)
「隕鉄は夜空の星屑だから、夜空そのものを煮詰めた液体で焼き入れをしなければならない。」

○音楽家
「夜の内心の聴覚はとても強く、楽譜を読みさえすれば音符の奥底に潜むイメージを見ることができた。」

(「訳者解説」より)

「本書を一読してわかるように、陳春成の作品世界は多様である。「竹峰寺」や「李茵の湖(李茵的湖)」で中国の伝統文化への深い愛着を示したかと思えば、「音楽家」では西洋近代音楽に対する造詣で読者を驚かす。本書収録の作品に関していえば、執筆ペースは極めて速く、二〇一七年は「裁雲記」「杜氏」「夜の潜水艦」彩筆伝承の短編四篇、二〇一八年は中編「竹峰寺」と短編「李茵の湖;二〇一九年には中編「音楽家」と短編「尺波」、と立て続けに発表しながら、すべて異なる題材を深く描き込んでおり、そのイメージの豊かさと構成の複雑さ、作品世界を支える知識の広さ、さらに物事のつながりを見つめる穏やかな眼差し、恬淡とした筆致は、年齢に比して驚くべき成熟ぶりである。

 文化的な知識の広範さは、陳春成が成長した時代や環境と無縁ではないだろう。鄧小平が「南巡講話」で改革開放促進の号令を発したのは、彼が生まれて二年後、一九九二年のことである。急激な経済成長を遂げゆく中国で青春期を過ごした若者らしい開けた視野に加えて、台湾と海峡を隔てて向かい合い、古来より対外貿易が盛んで、海外移住者の多い福建という土地柄ゆえの異文化への懐の深さが、彼においては多彩な作品世界として表れているように思われる。またそのような、異文化の影響を受けやすく移ろいやすい生活環境や、目覚ましく発展し変貌を遂げる祖国のありようは、変化に対する作者の鋭敏な感受性と、目に見えない物事のつながりを見い出す力を養い、彼の作品の底流を形作ったといえるのではないだろうか。

 政治や社会に関わる直接的な描写が極めて少ないことは、陳春成の小説のもうひとつの特徴である。「裁雲記」には教条主義的な役所あり方げの皮肉が、「音楽家」には強権体制のもとに表現の自由を制限された芸術家の姿が描かれ、厳しい制約のもとで自らの生の意味を探求する人々の生きざまが浮き彫りにされている。だが彼の作品は、現実的、政治的な苦難や不公正を告発することが主眼ではない。登場人物たちはみなそれぞれ自分の世界に埋没し、世間で起こっていることに自ら積極的に関わったり、社会を変えようと働いたりはしない。ともすれば現実から遊離したものととられかねないこうした創作傾向について陳春成自身はインタビューで次のように語っている。

「私は自分の経験にはあまり触れません。それが細かいところに隠れていたり、あるいは荒唐無稽な空想の中に隠れていたりして、反射したり、光ったり、匂いとして現れたりする方が好きです。もしかしたら、〝厳しい現実〟というテーマが好きな読者の中には、私の空想物語が幻想的で派手で、現実の生活や困難への配慮に欠けていると感じる人もいるかもしれません。しかし、現実の世界との付き合い方が一つしかないとは思いません。ありのままに描写するだけでなく、別の世界を構築する能力も必要ではないでしょうか。そして注意を払えば、どんなに奇抜な物語の中にも、現実が鮮やかに反映されていることがわかるのです。(二〇二〇年十月二十九日)

 現実の厳しさや残酷さを直截に描き、体制下の人々の苦しみに寄り添う作品は、それ自体がメッセージ性という強い力を持つ。しかし陳春成はそうした方法ではなく、一見、風変わりで奇妙な世界を構築し、そこに現実の断片を「色」や「光」、「匂い」といった様々な形象としてちりばめることによって、それらとの一つの付き合い方を示す手法を選んだ。彼の作品に登場する人物の多くは、千変万化する世間のありようについてゆくことができず、自分の空想世界にひきこもることによって精神のバランスを保つ。その世界が壊され、失われようとする時、彼らはそこへの鍵を誰にも触れることのできない場所に隠し、そうすることによって、ある者は魂の安寧を得、またある者は喪失した過去の光り輝く記憶を抱きながら、静かな余生を送るのだ。彼らは、激動の変化を遂げ続ける中国社会の片隅に、ひっそりと、だが確実に存在する人々の姿を映しているに違いない。同時にそれは、この本を読む私たちの姿にもどこか似ているように思われる。」

◎CONTENTS

夜の潜水艦
竹峰寺 鍵と碑の物語
彩筆伝承
裁雲記
杜氏(とうじ)
李茵(リ・イン)の湖
尺波(せきは)
音楽家
解説

【著者】陳 春成(ちん・しゅんせい/Chen Chuncheng)
1990年中国福建省寧徳市生まれ。土木系学部に進学し、専門を学ぶかたわら詩や散文を書く。卒業後、造園技師として地元の植物園に勤務しながらSNSや文芸誌で小説を発表。2019年、「音楽家」が文芸誌『収獲』中篇小説賞を受賞。本書『夜の潜水艦』は著者のデビュー短編集で、中国で出版されるや大胆なイマジネーションとエレガントな文体が大きな話題となり、同年の「豆瓣(ドウバン)」中国文学小説類ランキング第1位、2021年の「『亜洲週刊』が選ぶ十大小説」第2位に選出された。さらに第1回PAGE ONE文学賞、第6回単向街書店文学賞、第4回ブランパン理想国文学賞を立て続けに受賞するなど、高い評価を受けている。現在は専業作家として福建省泉州市を拠点に活動している。

【翻訳】大久保洋子(おおくぼ ひろこ)
1972年東京生まれ。北京師範大学文学院で中国近現代文学専攻。文学博士。訳書に郝景芳『流浪蒼穹』(共訳、早川書房)、「ポジティブレンガ」(『絶縁』小学館)、陸秋槎「物語の歌い手」(『ガーンズバック変換』早川書房)、宝樹「時の祝福」(『中国史SF短篇集 移動迷宮』中央公論新社)、江波「太陽に別れを告げる日」(『時のきざはし 現代中華SF傑作選』新紀元社)、葉広芩「外人墓地」(『胡同旧事』中国書店)、郁達夫「還郷記」(『中国現代散文傑作選1920-1940』勉誠出版)など。

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