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保坂俊司『仏教興亡の秘密/仏教を導いた語りえぬものについて』

☆mediopos3214  2023.9.5

仏教はインドで生まれ
その後インドでは衰亡していく

その理由はかつては主に
「イスラーム軍の暴挙によって宗教施設を失い、
その結果、ヒンドゥー教に吸収合併された」
と説明されていたが

著者の研究によれば
「仏教はイスラームの暴力によって衰滅した」
というだけではなくそれよりもむしろ
「イスラーム教に改宗した」側面があるのだという

仏教同様に攻撃を受けたヒンドゥー教は
その後もいまだ栄えているのに対して
仏教だけが極端に衰亡している

かつて仏教が興隆していた
「現在のパキスタン西北部である
ガンダーラやカシミール、さらに東ベンガルなどでは、
イスラーム教徒が圧倒的多数派の地域になっている。
また、インド亜大陸から、中央アジアにかけても
事情は同様」なのである

著者は仏教が「他地域に積極的に進出した理由」も
また衰亡した理由も
「仏教教理、すなわち仏教独自の思想に
その原因を求めることができるのではないか」といい

「仏教独自の他者認識であり、
原始仏教以来の仏教の根本教理でもある」
「他者との積極的な相利共生」を目指す「梵天勧請」が
その原因となっているのではないかと示唆している

それゆえに仏教徒のイスラーム教への改宗も
日本でいえば「神仏習合」のような
他宗教との共生を可能にする思想があるため
起こることになったのではないかと

さてイスラームがインドに
伝播してきたのは八世紀の初頭
インドは多神教で偶像崇拝も事とするのに対し
イスラーム教は極めて厳格な一神教であり
対立構造をとらざるをえない

そんななかでイスラーム教徒は
大多数を示すヒンドゥー教徒たちと
融和していかなければならず
その困難な歴史のなかでも
「インド発のイスラームの融和思想的傾向は、
南アジアや東南アジアもイスラームを
極めて融和的なもの」となっているが
そうした「インドの融和的イスラーム」は
スーフィズムであるという

かつて中央アジアに逃れてきたスーフィーたちは
その地で興隆していた仏教が
「自分たちが目指していたもの、その宗教性・精神性が、
中央アジアのこの地域で独自の展開をしていたことを
発見するといった具合に、
相互に極めて生かし易かったのではないか」と

スーフィズムと仏教が対話し
互いに影響を受けていく・・・

スーフィズムはキリスト教神秘主義同様
その秘教的な側面ゆえに
異端とされたりもしているところがあるが
そのぶん一神教を突き抜けた深い霊性を体現している

かつて中央アジアで起こった
スーフィズムと仏教の邂逅は中国経由で
日本の仏教にも影響を与えているのかもしれない・・・

「他者との積極的な相利共生」を事とする
仏教的な基本思想や
その思想と融和的でもあるスーフィズムが
世界を和するための可能性の種となっていきますように

■保坂俊司『仏教興亡の秘密/仏教を導いた語りえぬものについて』
 (ぷねうま舎 2023/8)

(「Ⅱ 仏陀と梵天/第一章 仏教の盛衰研究の問題点」〜「1 仏教の衰亡」より)

「かつての著作において筆者は、イスラーム史料『チャチュ・ナーマ』を用いて、従来謎の多かったインド仏教の衰退に関して考察した。特に、筆者が用いたイスラーム史料である『チャチュ・ナーマ』によって、西印度仏教の衰亡の同時代史料から、この問題を扱うことができた。その結果、仏教の衰退には、イスラーム教の台頭、襲来による国際環境のみならず、民族宗教であるヒンドゥー教との関係が大きく損なわれ、その結果として仏教はインド亜大陸における社会的な役割を終え、ヒンドゥー教とイスラーム教との両陣営に吸収されていった、という結論であった。(前掲『インド仏教はなぜ亡んだのか』参照)。

 ところで従来のこの問題に対する解釈は、仏教はイスラーム軍の暴挙によって宗教施設を失い、その結果、ヒンドゥー教に吸収合併されたという漠然としたものにとどまり、その後ほとんど放置されていた。そして、この問題に新たな視点を加えようとしたのが、筆者の先の研究であって、その要点は、「仏教徒はイスラーム教に改宗した」というものであった(同書参照)。

 たしかに、かつて仏教が現実に盛んであった、現在のパキスタン西北部であるガンダーラやカシミール、さらに東ベンガルなどでは、イスラーム教徒が圧倒的多数派の地域になっている。また、インド亜大陸から、中央アジアにかけても事情は同様である。それは、なぜであろうか? 従来の結論である、「仏教はイスラームの暴力によって衰滅した」といった単純な結論では、当然納得のいかない問題である。もちろん、そのテーゼを単に否定するものではない。事実、インド各地の仏教施設は、イスラーム教の軍隊によって壊滅的な破壊を被っているのである。(拙論『インド仏教の衰滅』臨済宗研修会講義、二〇〇八年)。

 その点から考えれば、イスラーム教徒によって仏教施設は破壊された、ということは事実として言いうる。しかし、このときに問題なのは、仏教徒の処遇である。彼らがみな殺しになったというほどの殺戮の記録はない、しかし、仏教はその後復興していない。ところが同じように攻撃されたヒンドゥー教は、いまだに栄えている。その左は何か、ということも考察しつつ、この問題への結論は導かれなければならない。

(・・・)それをイスラーム側の史料などを用いて考察した結果が、拙著『インド仏教はなぜ亡んだのか』(前掲)で展開した「仏教徒のイスラーム改宗説」ということになる。

 もちろん、すべての仏教徒がイスラーム教に改宗したわけではないし、イスラーム教の暴力によって殺戮されたわけでもない、肝心なことは、当該地域から仏教が衰滅した理由は多様であり、またそれに要した時間も、数世代あるいは数百年を経る場合もあったということである。」

(「Ⅱ 仏陀と梵天/第一章 仏教の盛衰研究の問題点」〜「2 以前の結論からの出発」より)

「実は筆者自身、前著作で考察した結論に誤りはないと考えてはいるが、しかし以前から疑問はあった。それは、『チャチュ・ナーマ』の記述に限らず、仏教徒は無防備あるいは無節操とも言えるほど簡単に、イスラーム教を受け入れてしまったという事例は、インド以外にも、例えば中央アジアにおいて見出せるからである。」

「そこで筆者が考えたのは、仏教のインドや中央アジアにおける衰亡原因は、仏教を貫く何らかの根本的な要因に拠るのか、あるいは仏教外の要因に拠るのか、という点であった。
(・・・)
 非暴力という同様な教えを説きながら、仏教はジャイナ教とは異なり、インド世界以外にも大きく進展した。とすれば、仏教が他地域に積極的に進出した理由は、仏教教理、すなわち仏教独自の思想にその原因を求めることができるのではないか、という発想である。」

「Ⅱ 仏陀と梵天/第一章 仏教の盛衰研究の問題点」〜「3 梵天勧請という仏教の共生戦略」より)

「そこで筆者は、仏教の世界展開を可能にした教えとして、仏教独自の思想である梵天勧請に着目した。この梵天勧請という教えは、仏教独自の他者認識であり、原始仏教以来の仏教の根本教理でもある。(拙著『仏教における平和思想の原型の研究————梵天勧請を中心に』中央大学政策文化総合研究所、二〇一七年参照)。

 この梵天勧請を、仏教の他者認識の基本の思想構造と理解すれば、後発宗教である仏教が、インドにおいて伝統宗教であり、民族宗教であるバラモン教(後のヒンドゥー教)と非暴力的に融和し、拡大できた————ここでは、これを相利共生関係と呼ぶ————、その根本要因であると説明することができ、さらに言えば、そもそも相利共生を目指す宗教である仏教においては、非殺生、非暴力、そして他者への積極的な関わり、いわゆる慈悲の思想が導きだされることになる。また、他者との積極的な相利共生関係の構築に不可欠な、自我の抑制など、仏教特有の無我あるいは空の思想が生まれる要因も統一的に説明できる、と思われる。さらに言えば、これこそ仏教の拡大戦略を支え、仏教が世界宗教へと成長した原因であった。」

「仏教とイスラームの問題だけに限定して考える限り、不可解と思われた仏教徒の改宗、あるいは他宗教への接近行為も、仏教による他宗教との構築というかたちで一般化してみると————仏教バラモン教(後のヒンドゥー教)、仏教徒神道などと具体的に拡大して考えると————、異なった視点が見えてくる。つまり、仏教の他宗教との関係構築をパターン化することで、仏教の対他者戦略とも言える根本思想がうかがえるのである。

 そしてそのことを筆者は、日本の仏教と神道との関係性を表す言葉である「神仏習合」を用いて表現できると考えついた。(・・・)仏教徒が、自らはイスラーム教徒に改宗したと思わしめるほどに、簡単に彼らの信仰や儀礼を受け入れたのは、仏教の神仏習合思想の伝統に沿ったごく自然の行為であったのではないか、ということである。」

「Ⅱ 仏陀と梵天/第一章 仏教の盛衰研究の問題点」〜「4 梵天勧請と神仏習合」より)

「梵天勧請については、(・・・)仏教とバラモン教との関係も当初はそうであったし、仏教が伝播した他の地域、特に中央アジア、東・南・東南アジア諸国における仏教と既存宗教との関係では、総じて仏教による既存宗教へと歩み寄り、あるいは無条件の受け入れによって共存関係が築かれている。仏教がこのように融和的相利共生を築くことを可能にしたのが、『梵天勧請請経』に象徴される仏教の他宗教との共生思想である。」

(「Ⅲ 梵天勧請と神仏習合 /終 章 共生の思想としての世俗主義」〜「3 根源的な異質者との共生思想の展開」より)

「政教分離の理念は、根本的にはやはりキリスト教徒が生み出したものであり、特に西ヨーロッパにおける経派・宗派対立を超える知恵としての「政教分離」であって、実はそれをさらに普遍化すれば、「共生の思想」に至るというものではなかった。つまり、この理念が前提にしているのは、異なる宗教ではなく、異なる宗派であった。つまり、カトリックとプロテスタントは、同じ宗教の二つの宗派であるということになるのである。ロシアも西ヨーロッパも、キリスト教を共通の根底としているのだ。」

(「Ⅲ 梵天勧請と神仏習合 /終 章 共生の思想としての世俗主義」〜「4 梵我一如的融和思想の可能性————インドとイスラーム」より)

「インドにおいては、基本的に政治と宗教、権力と王朝との対立はそれほど深刻ではなかった。これが、ヒンドゥー教————バラモン教からヒンドゥー教になるのだが————の生んだ様相である。バラモン教の時代はまだ梵我一如という哲学的理念にとどまっていたのだが、バラモン教に対抗する存在である仏教が生まれ、さらに異質などものの存在が実体化してくる。加えて、文明レベルで異なるギリシア人がインドに入ってくる、さらには異教徒・異民族が入り、インドに定着していく。その彼らを主として吸収したのが仏教であり、仏教はバラモン教をさらに超えて総合的になる。もちろん両教は、異質なるものを相対化しながら、共生思想を形成していくのだが、特に仏教は、ヴェーダを頂点とする一元的な大系、つまりヴェーダ一元主義に対抗する、いわばプロテスタント的存在であった————ただし方向はむしろ逆であったが。それゆえに、多様な価値観の共生関係を構築する思想を必要とするが、それが無我であり、さらに強くこれを概念化したのが空の思想であったのではないか。」

(「Ⅲ 梵天勧請と神仏習合 /終 章 共生の思想としての世俗主義」〜「5 インド的なるものの真価から生まれたイスラームの共生思想」より)

「インドにおける共生思想の真の独創性は、そこにイスラームが伝播し、定着して以降に見出せる。(・・・)イスラームは八世紀の初頭に入ってくる。その地は、イスラーム教が最も嫌う多神教であり、しかも偶像崇拝もする。彼らから見れば、法も秩序もない、まさに野蛮人の世界であった。そうした価値を共有しえない人たちとともに住まなければならなかったのである。イスラーム教徒は為政者として、彼らと否応なく向き合わねばならなかった。まさに国家として、あるいは為政者としてのイスラーム教徒が、その地で大多数を示すヒンドゥー教徒たちと、どのような関係を造り上げていかねばならないかという、本当の意味での思想的な葛藤が始まるのである。

(・・・)

 もっとも、イスラーム進出の初期においては、共生も共存関係もまったく考慮されなかった。周知のように過酷な支配が、社会的な共生も、思想的な融和も生み出せなかったのである。そんな中で、「神はなぜ、ヒンドゥー教を造ったのか? そこにどんな意味があるのか?」ということを追求するスーフィズム、インド的スーフィズムが生まれる————西の方にもスーフィズムはあるが、インドのスーフィズムは極めて多神教徒に融和的である特徴があった。彼らは、多神教のヒンドゥー教徒とすら共生していこう、一緒にやっていこうという新しいイスラームの流れを創り出す。」

「残念なことだが、インドにおけるイスラームもその後、大きく揺れ動き、結果的には対立構造の方が強く際立つのだが、それでもこのインド発のイスラームの融和思想的傾向は、南アジアや東南アジアもイスラームを極めて融和的なものとし、イスラーム社会を形成する上で大きな功績があった。このインドの融和的イスラームこそ、スーフィズムなのであって、これがどこから出てきたかと言えば、実は中央アジアが主なのである。

 中央アジアは、仏教が極めて盛んであったところで、多くのスーフィーがチムールなど、さらざまなルートでインドに逃げてくる。そのように逃亡してきてインドで活躍するスーフィーの聖者たちの先代、先々代は仏教徒が多いというわけである。これはつまりインドにおける————ここからは私の手前みそであって、文献による実証は部分的にできるとしても、筋道を立てて論証することはできていない————、仏教的な空の思想、そうしたものがイスラーム信仰と融和したところから発生したのではないかと考えられる。スーフィズムの霊性を体得した人たちがインドにくる。すると、自分たちが目指していたもの、その宗教性・精神性が、中央アジアのこの地域で独自の展開をしていたことを発見するといった具合に、相互に極めて生かし易かったのではないか。インドから東南アジアに、スーフィーとともにその思想が流れていくといった導線があったゆえに、スーフィズムと仏教的なるものとの間に、独自の対話と影響関係が生まれたのではないか。

 いずれにしても、多神教徒とさえ、同等に共生できるというイスラームの可能性を思想的に導き出したインド・イスラームの思想には、人類史的にも大きな意義があると言えるのではないだろうか。もちろん、それを支えたインド思想は、さらに大きな可能性を持つと考えられるのだが。

 二一世紀の今後に、世界平和が問題になるとすれば、多様な紛争や対立の構造はあるにしても、そこでの最も重大な懸案は、イスラームとの共生ということになるのではないだろうか。

 そこで、歴史的にインドで培われたヒンドゥー・イスラーム共生思想に、近代西洋文明がたどり着いた政教分離という共生思想に通底する、さらにはより普遍的な思想の可能性を見いだしうるのではないだろうか。少なくともそこに何らかのヒントがあるのではないだろうか、と考えている。「共生」の意味を大きくとるとすれば、「政教分離」もそうしたテーマの範疇に入るのではないか。そして、それは二一世紀的には、イスラームとの共生という課題、そうしたものにも応用が可能なのではないか、少し大風呂敷でとりとめもないかもしれないが、私はそのように考えている。」

◎目 次
序 章 「宗教」認識のギャップ
Ⅰ 仏教の寛容思想
 第一章 「寛容」の意味と多様性 
 第二章 「冷たい寛容」と「温かい寛容」
 第三章 インド的なるもの
 第四章 ブッダと寛容
 第五章 アショーカ王の実像
Ⅱ 仏陀と梵天
 ──仏教の平和思想とその起源
 第一章 仏教の盛衰研究の問題点
 第二章 誤った宗教観
 第三章 梵天勧請と『梵天勧請経』
Ⅲ 梵天勧請と神仏習合
 ──世界史の中の仏教
 第一章 仏教の特異性
 第二章 神仏習合への道
 第三章 梵天勧請理論の限界
終 章 共生の思想としての世俗主義
    ──インドを事例として
あとがき

◎保坂俊司
1956年、生まれ。専攻、インド思想、比較宗教学、比較文明論。早稲田大学社会科学部、同大学院文学
研究科修士課程修了。デリー大学に学び、東方研究会・東方学院講師、また中村元東方研究所理事を歴任。現在、中央大学総合政策学部教授。著書、『シク教の教えと文化──大乗仏教の興亡との比較』(平河出版社、1992)、『仏教とヨーガ』(東京書籍、2004)、『国家と宗教』(光文社新書、2006)、『グローバル時代の宗教と情報──文明の祖型と宗教』(北樹出版、2018)、『インド宗教興亡史』(ちくま新書、2022)ほか。

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