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エマニュエル・トッド『エマニュエル・トッドの思考地図 』/『第三次世界大戦はもう始まっている』

☆mediopos2781  2022.6.29

ウクライナ戦争について
現在理解してることにいちばん近い内容が
エマニュエル・トッド
『第三次世界大戦はもう始まっている』で語られている

おそらくこうした視点は
たくさんの情報や思考力がなくても
激しく偏ったメディア情報から離れ
さらにじぶんの思い込みを横に置いて
じぶんなりに歴史や地政学等も含め
ある程度調べ理解しようとする気持ちさえあれば
基本線のところでは得られるのではないかと思えるのだが
メディアはここ数年の事象なども含めあいかわらず
「見せない」「考えさせない」「言わせない」
という態度を崩していないようだ

エマニュエル・トッドは現在
フランスメディアが冷静な議論を許さない状況の中
フランス国内ではウクライナ戦争について
公に発言することを控え
トッドにとってまだしも〝安全地帯〟である
日本で取材を受けることにしたということだ

日本には「まだしも」
耳をひらく読者がいるだろうことに
すこしばかり驚いているが
実際のところひらかれているのではなく
ヨーロッパとはかなり離れた「蚊帳の外」にいるため
ほとんどがバイアスに満ちた報道のなかでも
「冷静な議論」に耳を貸すことも可能だということだろう

ウイルスに関してもそうだが
今回のウクライナのことにしても
それらに対する「思考」の仕方について
いろいろ考えさせられることがたくさんある

人間もある種「関数」のようなもので
なにかをインプットすれば
その人間ならではの「解」が導き出されるところがある

それまですごい知性と感じさせてくれた方も
事件が起こったときのアウトプットを見れば
その人物がどんな「関数」として
「思考」しているかが見えてくるところがある
それまでその知性に驚かされていた人も
そうしたときには驚くほど稚拙になったりもする

これまでエマニュエル・トッドについて
あまり知らずにいたので一年半ほど前にでた
『エマニュエル・トッドの思考地図 』という
日本だけで刊行された著書を読んでみることにした

エマニュエル・トッドは
哲学者のような「思考」はしていない
むしろ哲学者のように頭のなかだけで「思考」することを拒み
多くの必要な情報のなかから最適解を見出そうとする

エマニュエル・トッドは知性には
「処理能力のような頭の回転の速さ」
「記憶力」
「創造的知性」
という三つの種類があるというが
創造的知性といっても「無」から創造するようなものではなく
「すでに手元にあるデータを説明する、
あるいはかたちづくるために脳にあるさまざまな要素を
自由に組み合わせ、関連づける」ことを指すという

きわめて実際的な「知性」であり「思考」なのだ
それは往々にして霊的な事象に対しては拒否的に働き
エマニュエル・トッドにしても例外ではなさそうで
こうした「知性」や「思考」が欠けているところでは
実際のところ神秘学的な思考は成立しないところはあるものの
薔薇十字的な態度というのはある意味エマニュエル・トッド的だ
決して机の上で抽象的に概念をこね回すような哲学ではない

哲学的思考が不要だというのではない
生きた哲学的思考を可能にするには
実際的な知性・思考もあわせて必要だということだ

必要なのだが
実際のところその両立は困難なところがある
その両立ができないものかという試みもあり
個人的にも数十年続けている生活のための即物的な仕事と
それとはまったく無関係であるこうした思考訓練を
コンスタントに両立させようとしているものの
まったく別のOSを切り替えながら働かせるようで難しい

もちろんほんらいてきには
その両者は別のものではないなずのだが
それが統合されるようになるまでには
まだまだ果てしなく長い訓練が必要のようだ

しかしときにこうした
じぶんとは少し離れた思考方法をとる有益な視点を知ることで
両者の橋が少しだけか架かったような気がするときもある

■エマニュエル・トッド(大野舞訳)
 『エマニュエル・トッドの思考地図』
 (筑摩書房 2020/12)
■エマニュエル・トッド(大野舞訳)
 『第三次世界大戦はもう始まっている』
  (文春新書  文藝春秋 2022/6)

(『エマニュエル・トッドの思考地図 』より)

「「思考する」とはいったいどういうことでしょうか。こうした問いは、とても漠然とした抽象的なもので、いかにも答えようのないものに見えます。ある意味ではきわめて「哲学的」な問いかけとも言えるでしょう。

 だから、ひょっとしたら「思考する」ことのプロは哲学者だろう、と早合点してしまう人もいるかもしれません。実際、哲学の歴史を振り返ったとき、名だたる哲学者たちが「知性をどう改善するか」「よりよく思考するためにはどうすればいいのか」といったことに思いを巡らせてきました。ちょうど「思考とは自分自身との内的対話である」というプラトンの言葉どおり、哲学者たちは多かれ少なかれ、机に向き合い、「考えるとはどういうことか」と自問自答を繰り返してきたわけです。

 しかし私は、このような態度とはまったくかけ離れたところで思考してきた人間です。そもそも私にとって「思考する」とは、そんな抽象的なことではないのです。私は、思考のメカニズムをある意味で自然発生的なものとして捉えてきました。私は自分の頭から真実が生まれるなどとは思っていません。これは哲学的な思考態度とは異なるものです。(…)私は本能的に、そして育った家族の伝統からも、フランスの哲学には最初から疑問を持ち、否定的な立場でした。高校の哲学の授業でさえ、拒否することからスタートしているのです。

 世界の名だたる哲学者たち、デカルト、カントなとは、私にとっては言葉遊びをしているだけなのです。なぜそんなに批判的かというと、哲学が現実から完全に離脱してしまっていると考えるからです。(…)

 私にとって「思考する」とはプラトンが考えていたようなことではありません。そもそも、私は哲学者などではありませんし、正直に言ってしまうと「思考とは何か」という問いほど、私にとって厄介なものはないのです。」

「私が研究者人生で何をしてきたか。(…)それは他の研究者たちがしてきたことの延長線上にあるわけですが、混沌とした歴史のなかに法則を見いだすということでした。私が最初に見つけた法則は、家族構造の種類と政治思想の関係性です。また、時間の流れのなかで家族システムが複雑化していく法則は、私の研究の柱となりました。」

「私にとって、考える、思考するというのは、座って「よし、考えよう、アイディアが湧くのを待とう」ということではありません。言語とは何かとか、思考とは何かといったことを、椅子に座ってさあ考えようという哲学的な態度とは別のものだと思うのです。

 私はそもそも学ぶことが大好きです。ですから、膨大な知識を蓄積する人間です。人々が私についてあまり知らないことは、私がこれまでどれだけ膨大な量の資料を読み込んできたかという点かもしれません。私は専門研究に限らず幅広い文献を読んできました。つまり私は考え込まないのです。

 考えるのではなく、学ぶのです。最初に学ぶ。そして読む。歴史学、人類学などの文献をひたすら読み、そして何かを学んだとき、知らないことを知ったときの感動こそが思考するということでもあります。」

「私は知性には大まかに三つの種類があると思っています。まずは処理能力のような頭の回転の速さ、次に記憶力、そして創造的知性です。」

「創造的知性というのがあります。創造的知性とは、すでに手元にあるデータを説明する、あるいはかたちづくるために脳にあるさまざまな要素を自由に組み合わせ、関連づけることができる知性を指します。気をつけていただきたいのですが、創造というのは「無」から何かを生み出すことではないのです。」

(『第三次世界大戦はもう始まっている』より)

「私は、「西側メディアから情報を得ているヨーロッパ人」という立場で話をしています。ロシア語はわからないし、そもそも戦時下の情報は不確かなものばかりで、限られた情報しか持ち合わせていません。にもかかわらず、この戦争勃発の「以前」と「以後」が信じがたいほど〝不釣り合い〟であることは明らかで、まずそのことに私は驚いています。

 この戦争は、「ウクライナの中立化」という要所からのロシアの要請を西側が受け入れていれば、容易に避けることができた戦争でした。

 そもそもは解決が非常に簡単な問題だったのです。ロシアは、戦争前にすでに安定に向かっていました。自国の国境保全に関してロシアを安心させていれば、何事も起こらなかったはずです。その意味で、ロシアの立場の萌芽ヨーロッパの立場より、シンプルでリーズナブルなものに私には見えます。

 本来なら避けられたはずの戦争が始まってしまい、ウクライナの市民が虐殺される事態に陥っているのは、あまりに不条理です。

 ここで私は、人間の本質について悲観的な考察をせざるを得ません。物事を〝逆に〟考える必要があるのではないか、ということです。つまり、ロシアではなく。むしろ西洋社会こそうまくいっていないのであって、この戦争がそれを物語っているのではないか、と。

 西洋社会では。不平等が広がり、新自由主義によって貧困化が進み、未来に対する合理的な希望を人々が持てなくなり、社会が目標を失っています。この戦争は、実は西洋社会が虚無の状態から抜け出すための戦争で、ヨーロッパ社会に存在意義を与えるために、この戦争が歪んだ形で使われてしまったのではないか、と思われてくるのです。ひょっとすると、この戦争は〝問題〟などではなく、方向を見失った西洋社会にとって、ひとつの〝悪しき解決策〟なのかもしれません。

 その意味でも、この世界戦争は、第一次世界大戦と似ています。」

「ウクライナの背後でこの戦争を主導しているのは、アメリカとイギリスです。この事実事態が、ドイツ、日本、そして他の国々に対して「果たしてこの戦争にコミットすべきなのか」と問いかけています。」

「まさにアメリカは、武器だけ提供し、ウクライナ人を〝人間の盾〟にしてロシアと戦っているわけです。」

「戦争が終わった時、生き残ったウクライナ人たちは、どう感じるのでしょうか。

 少なくとも私がもしウクライナ人なら、アメリカに対して激しい憎悪を抱くはずです。というのも、「アメリカは血まみれの玩具のようにウクライナを利用した」ということこそ、すでに明らかな歴史的事実だからです。」

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