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ビル・S・ハンソン『匂いが命を決める――ヒト・昆虫・動植物を誘う嗅覚』/アルバート・ズスマン『魂の扉・十二感覚(人智学講座)』

☆mediopos3253  2023.10.14

ほとんどすべての生物は
生きるために嗅覚を利用している

人間はいまや主に視覚に頼って生きているため
他の感覚は二次的な働きになっていることが多く
そのなかでもとくに嗅覚は等閑にされがちである

化学的な情報にはあまり頼っていないこともあるが
人間は今や自分やひとの自然な匂いを隠そうとして
人工的な匂いやデオドラント剤などで
その匂いを消そうとさえするようにさえなっている
等閑どころか否定的に扱うほどに

しかし人間が生きていくにあたって
嗅覚は決して欠かすことのできない感覚であり
それを象徴しているのが
人間だけが鼻をもっているということである

高等動物に鼻があるように見えても
それは「鼻口部あるいは鼻づら」であって
上唇と嗅覚器官は融合している

その意味において
「人間は、そこではじめて人間になる」
ともいうことができるのではないか

動物にとっての嗅覚の話も興味深いが
ここでは人智学的な観点から
「嗅覚」について考えてみる

私たちは「嗅覚」によって
なにを感受しているのだろうか

私たちは「いい匂いなのかわるい匂いなのか、
汚れているのか腐っているのか、
嫌な匂いなのかどうか」というように
嗅ぐときには「すぐさま判断を下して」いる

さらには
「うさん臭い」といった言葉があるように
嗅覚は「私たち自身の道徳性の基盤」ともなり得ている
「善悪に関する深い概念もまた、
私たちの鼻のなかに隠れている」といえるのである

人智学的な宇宙進化の視点からすれば
「人間は、人間に残された最後の本能、
本能の脳の最後の組織としての嗅覚があるところに」
「新たな器官」を培っていかなければならない
そしてそれは現代の人間の最重要課題としての
「意識魂」を育てることとも深く関わってくる

現代は意識魂に逆行する力
つまり「多数の人間が行なうことが
そのまま正しいモラルであると見なされ」
「皆もそうしているから」そうする
というようなあり方が多く見られるが
そうした逆行する力を脱していかなければならない

そのためにも「嗅覚」を意識魂的につかい
注意深く「判断」をしていくことが求められる

昨今のコロナ問題にせよウクライナ問題にせよ
そうした「嗅覚」の欠如したまま
知性偏重な(それは知性とさえいえないものだが)
錯誤した知識人がいかに多いことか

なにか重要な「判断」を求められたときには
「うさん臭い」ものを感じとり
もちろんそれを多視点的に検証することが不可欠だが
少しでも「臭い」ものの「判断」ができるように
「嗅覚」を使う必要がある

X(旧ツイッター)で閲覧したことがあるのだが
甲野善紀が同じく「武術・武道」に関わる内田樹と
ワクチン接種に対してまったく逆の態度をとっているのも
「嗅覚」をいかに働かせ得るかの違いだったのだろう

甲野善紀やそのほかの武道関係の方たちの多くは
ワクチン接種に対して「うさん臭さ」を感じ取り
懐疑的な態度をとっていたのだったが
内田樹はある医師の権威を信じることで
ワクチン接種を周りに推進し続けていた
その薬害が明らかにされはじめた際
甲野善紀が対話をもとめても拒否状態だったそうだ

かつて内田樹は
「何か問題があれば十分に話し合うべきだ」
と公言していたそうだが
知る限りではいまだそれについての対話はみられない
おそらくじぶんにとっての権威が「知識人」としての「壁」となり
「嗅覚」に蓋がされているままなのだろう

■ビル・S・ハンソン(大沢章子訳)
 『匂いが命を決める――ヒト・昆虫・動植物を誘う嗅覚』
 (亜紀書房 2023/9)
■アルバート・ズスマン(石井秀治訳)
 『魂の扉・十二感覚(人智学講座)』
 (耕文舎叢書3 耕文舎+イザラ書房1998/春)

(ビル・S・ハンソン『匂いが命を決める』〜「はじめに」より)

「すべての生物は、背骨の有無にかかわらず、昆虫から人にいたるまで、周囲の状況を理解したり、たがいにコミュニケーションを取ったりするために嗅覚を利用している。生物のさまざまな種は、進化の過程で多かれ少なかれ何らかの情報に頼るようになった。コオロギやコウモリは超音波を大いに利用しているし、トンボや人は視覚に頼るところが多く、豚や犬は嗅覚の鋭さで知られている。
 人は非常に視覚的な存在なので、ほかの感覚を忘れがちだ。なかでも嗅覚はとくに忘れられやすい。これは一つには、人が今、化学的な情報にそれほど頼らない生活をしているからでもある。また、匂いにはどこか原始的で敬遠したくなる感じがある。人が、自分が放つごく自然な匂いを隠したがり、躍起になって人工的な匂いでごまかしたり、デオドラント剤で匂いを消そうとしたりすることを考えればわかる。
 人はほかの種ほどには嗅覚情報に頼っていない、とあなたは思うかもしれないが、じつはそうではない。人の生活の重要な場面の多くが、嗅覚情報に大きく頼っている。」

(ビル・S・ハンソン『匂いが命を決める』〜「第2章 人の嗅覚・人の匂い」より)

「もし嗅覚が人の生存に重要な役割を担っていないのなら、なぜ鼻や鼻孔が顔の真ん中に陣取っている必要があるのか? そう、嗅覚はいくつかの状況で重要な役割を果たしているのだ。嗅覚は常に分析しつづける知覚だ。食べられそうな物の品質を吟味し、周囲に危険が潜んでいないか調べる一方で、イチゴを食べたときやお気に入りのマルベック・ワインを飲んだとき、恋人の脇の下に身を寄せたときの喜びに繊細な色合いを添える。
 嗅覚に分析的側面があることは、味覚と比べるとよくわかる。味覚は五種類の食味(しょっぱみ、酸っぱみ、苦み、甘み、旨み)からできていて、基本的に、有害な物質を反射作用としてできるだけ早く口から吐き出すために存在する。一方の嗅覚は四〇〇あまりの受容体によって化学的な情報を詳細に分析し、適切な食べ物や飲み物、その他の価値あるものに近づいていいと判断したり、逆によくなりものに近づくのを思いとどまらせたりする。
 匂いは、栄養摂取や安全、生活の質の向上のために欠かせない情報をわたしたち人間に提供する。だから匂いを感知する能力を失うことは一大事なのだ。匂いが感じられないと、メンタルヘルスの問題が生じることがある————匂いがわからなければ食事や飲酒を、あるいは生活全般を楽しめなくなるからだ。嗅覚を失った人々はしばしば、自分の衛生についてひっきりなしに心配するようになったり、恋人の官能的な匂いを感じられなくなったりする。
 嗅覚を失えば、大きな不利益を被ることになるのだ。」

(アルバート・ズスマン『魂の扉・十二感覚』〜「三、嗅覚と味覚」より)

「私たちは皆、もちろん匂いを嗅ぐことができますが、では、匂いの現場ではいったい何が起こっているのでしょうか? 触覚と比べてみることにしましょう。なにかに触れるとき、皆さんはご自分の皮膚の一部を意識します。匂いを嗅ぐときには、皆さんは息を吸い込まなければなりません。外にあるものを体内に吸い込まなければなりません。触覚の場合のような境界体験はまったくありません。(・・・)これが、匂いを嗅ぐということの特徴です。呼吸に受け取られた匂いは血液循環へ手渡しされますが、皆さんはどのような呼吸プロセスに結びついている存在なのです。このような強制的な特性は、いわば匂いを嗅ぐということに備わっているそもそもの現象です。(・・・)
 では、そこではいったい何が起こっているのでしょうか? 皆さんは実際のところ、我を忘れてしまいたがっているのです。何かの匂いを嗅いでいるとき、皆さんはご自分を、あたかも匂いでいっぱいになった袋のように感じます。鼻のなかだけで臭いを嗅いでいるとは、決して感じないはずです。」

「私たち人間は見る人間か聞く人間かに分かれます。しかし動物は、皆匂いを嗅いで生きています。要するに、「目人間」と「耳人間」はいるけれども「鼻人間」はいないということ、そして動物は皆「鼻人間」だということです。鶏でさえが鼻動物なのです。」

「それでは、人間の嗅覚本能はもはや何の役割も果たしていないのでしょうか? もちろん、果たしています。しかも、決して過小評価するわけにはいかない役割をです。」

「匂いを嗅ぐということのこの特別な質は、いつも意識的に受け取られているわけではありません。たとえば味についてなら、それがどんな種類の味であるのか、すぐさまいくつかに分類することができます。すっぱい、にがい、甘いなどと。しかし匂いについてはどうでしょうか? それはとても難しいことです!(・・・)私たちの鼻はそのようにもぼんやりした状態にあるので、ある匂いを説明するために他の具体的な匂いをもってこなければりません。匂いを説明するためには、何らかの助けが必要になるのです。(・・・)匂いを説明するためには、他のものをもってするしかありません。とはいえ皆さんは、匂いをまったく分類していないわけではありません。つまり、よい匂いなのか、よくない匂いなのかを分類しています。そしてそれは、肉体的かつ精神的な衛生という観点において、極めて重要な分類なのです。

 実際、ある匂いに不意を突かれて驚くようなときには、私たちはすぐさま判断を下しています。いい匂いなのかわるい匂いなのか、汚れているのか腐っているのか、嫌な匂いなのかどうか。このように匂いを分類することができるというのは、私たち人間にとって実に素晴らしいことなのです。このような判断には実に深いものがあるからです。善悪に関する深い概念もまた、私たちの鼻のなかに隠れているのです。これは動物の本能にとっても言えることです。」

「私は、感覚はすべて真の導師であると述べました。少なくとも真の導師でありうるのだと。私たちはいつも、なにごとかに対して見なかったり聞かなかったりすることはできます。しかし嗅がないでいることはできるでしょうか。(・・・)私が今まで述べてきたことから、私たち自身の道徳性の基盤は匂いを嗅ぐ領域にあるのだと予測することができるでしょう。私たちはいつも判断していかなければならないということ、これこそが嗅覚のもつ根本的な特徴なのです。私たちは私たちは絶えず、私たちの心理的深層で判断しつづけているのです。私たちの話し言葉には、こうしたことを明かに示す実に卓越した表現があります。たとえば私たちは言います。「自慢話は臭い!」と。また、事柄に何か不明瞭なところがあるような場合いんは「それはうさんくさい」と。」

「私たちは、私たちの嗅覚に本当に感謝しなければなりません。なぜなら、私たちは嗅覚のおかげで、地球上の事物の価値を感じ取ることができるのだからです。」

「鼻はいった何を表現しているのでしょうか? 皆さん、時には動物園などに行って猿を観察してみてください。猿を見るのは、ある意味ではさほど愉快なことではありませんが。そうではありませんか。彼らには何かが足りないのです。そうです。彼らには鼻がないのです! 鼻をもっているのは人間だけです。ご存じでしたか。鼻をもっているのは本当に人間だけなのです!(・・・)高等動物はすべて、脳から分離した嗅球はもっているのに、鼻は、分離していません。これはとても興味深いことです。皆さんは動物の鼻について話すことはできません。なぜなら彼らの場合には、上唇と嗅覚器官が全体的に融合しているからです。要するに、動物がもっているのは鼻口部あるいは鼻づらなのです!」

「私たちの道徳的感情が由来する器官は、ある特定の場所を占めています。そしてその場所は唯一、鼻でなければなりません。なぜなら人間は、そこではじめて人間になるのですから。揺りかごから墓場へと到るまでに、私たちの鼻の形も、私たちの個性とともに変わっていきます。鼻は、人間的なのです。」

「遙かな未来において、地上的なもの、肉体的なものが消えていくなら、そのときには、霊的なものに向けられる余地が生まれます。(・・・)これは根本的な法則です。あまりにも地上的な力が強いところへは(・・・)霊的なものは浸透していくことはできません、ですから人間は、人間に残された最後の本能、本能の脳の最後の組織としての嗅覚があるところにこそ、新たな器官を創り出すべく働いているのです。私たちはその器官を二弁の蓮華あるいは額のチャクラと呼んでいます。(・・・)新たな器官としての二弁の花弁の蓮華をもって、判断し、評価することができるのです。その器官のおかげで私たちは、重要なものと重要でないものを、善と悪を、見分けることができるのです。」

「核エネルギーの問題にしても、あるいは環境汚染の問題にしても、もはや私たちは今までのように、私たちの大脳の為すがまなにしておくわけにはいかなくなっています。まさにそれらの問題は、効率の善し悪しの問題ではなくなっているのです。このように考えるなら、今日ではすべてが道徳的な価値にかかわっていることがわかります。私たちはまさに道徳的にかかわっていかなければならないのです。これが意識魂の特徴です。人間は新たに、自ら獲得する本能、新たな嗅覚器官を培っていかなければなりません。つまり、二弁の蓮華をです。私たちの未来は、このことに依存しています。私たちの時代の道徳と不道徳のあいだに、大きな闘いが繰り広げられることになるのです。

 このように考えると、私たちのこの時代には道徳的な事柄に対する反力が非常に強いことに気づきます。何か新しいことが起こると、すぐさまそれを壊そうとする試みが為されるのが常なのです。反力は人間の道徳的感情を荒廃させようと、あらゆるものをもち込みます。皆さんもお気づきでしょうが、私たちの時代においては、多数の人間が行なうことがそのまま正しいモラルであると見なされています。かつてモラルは、少数の人間の深い洞察のもとに成立するのが常でしたが、今日では、事柄に関する一般的な見解はそのまま一般的に通用するモラルとなる、とされています。(・・・)私たちはそこに、反力の圧倒的な攻撃を見ることができます。私たちが培っていかなければならない器官に対する、つまり、今日の段階ではいまだ萌芽としてしか存在していない道徳的な判断のための新たな器官に対する、反力の圧倒的な攻撃です。皆さんもきっとお感じになっているでしょう。道徳的な判断は多数という量のなかからは決して生まれない、と。道徳的な判断は個々人に由来するものなのであり、個々人のすべてがつねに、自ら責任を負わなければならないものなのです。「皆もそうしているから」というのでは、自分自身の良心を満足させることはできません。(・・・)

 私たちが嗅覚について語ってきたことは、みずがめ座に関連しています。みずがめ座は獣帯のなかの人間の像なのです。(・・・)私はすでに、鼻は人間的である、鼻は人間であると言いました。自然にまるごと結びつけられている本能から独自院判断する個我へと到るまでの進化過程が、この器官に刻印されているのです。この器官には、新たに形成されつつある器官、つまり二弁の蓮華と共に、善と悪を見分けられるようになるために最後まで残された本能としての嗅覚能力が与えられています。そして、この新しい器官をもって善悪を判断することができるようになれば、人間は、大地を水で潤す能力、大地を救う能力をもつようになるでしょう。みずがめ座は、進化していく人間の似姿なのです。」

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