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インベカヲリ「どうにもとまらない私たち 未整理な人類」 連載第12回(最終回)「水槽学」的考察(2023.10.2)(「生きのびるブックス」)

☆mediopos3259  2023.10.20

Web「生きのびるブックス」で連載されている
写真家・ノンフィクション作家インベカヲリの
「どうにもとまらない私たち 未整理な人類」は
第12回(2023.10.2)「「水槽学」的考察」が最終回

この連載は「〈理性の空白〉に広がる
心象風景をつづるエッセイ」とのことで
今回はその題にあるように「水槽学的に考える」

「水槽学」とは
(ここで名づけられているだけだが)

「この世は巨大な水槽」で
私たちは「水槽の中にいながら、
さらに小さな水槽を作り、
その社会を眺めて楽しんでいる」
という視点で世の中を見るとどうなるか
ということである

「水槽」と名づけられているのは
アクアリウムをめぐるエピソードからのものだ

雑誌で取材を受けたときのライターが
部屋に水槽3つを置いて魚を飼育しているのだが
その水槽のなかに一緒入れてはいけない種類を
あえて一緒にして飼うことで
魚たちが喧嘩したり食べられたりするのを観察している
「生き残りをかけた戦いをする魚たちを見て、
彼は満ち足りている」

ライターは「水槽という人工的な環境の中で、
魚たちに自然の摂理を味わわせている」といい
それは「凄く大きなくくりで見ると、
世界で起きてること」ではないかという

インベカヲリはそれを聞き「ヒヤッと」する
「独裁者の管理下で同じ人間同士を戦わせ、
その殺戮を世界中が鑑賞する。
それこそがアクアリウムだと彼は言っているのだ」と

「水槽学的に考えると(そんなものないけど)、
人間はどうも環境を作って管理したい欲求があるようだ」
ということでその管理の実際を挙げながら

「この世は巨大な水槽だ。
水槽の中にいながら、さらに小さな水槽を作り、
その社会を眺めて楽しんでいる。
人間は、水槽から出ることはできないのだろう」
と問いかけている

私たちの多くはそうした「管理」なくしては
混乱に陥って生きてはいけなくなるかもしれないと

しかし「生きのびる」ための
個人的には希望とさえ感じられる
苦笑いさせられるがシーンが
記事の最後で示唆されている

「その管理が、もしもなくなったら?
市民が一斉に水槽の外へ放たれたとき、
私たちは何を始めるのか。そこで暗躍するのは、
社会規範に汚染されていない、引きこもりたちかもしれない」
というのである(笑)

■インベカヲリ「どうにもとまらない私たち 未整理な人類」
 連載第12回(最終回)「水槽学」的考察(2023.10.2)
 (「生きのびるブックス」)

「先日、とある雑誌で取材を受けたら、ライターとしてやってきた男性がふいにこんなことを言った。
 「僕は自分がサイコパスなんじゃないかと思うときがあるんですよ」
 おお! 一体何を言いだすのか。
 聞けば、彼はアクアリウムが好きで、一人暮らしの部屋に水槽3つを置いて魚を飼育しているという。魚には、一緒に入れてはいけない種類というのがあるが、彼はそれをあえて一緒くたにして飼うのが好きなのだそうだ。当然、喧嘩したり食べられたりする魚が出てくるが、それが良いのだという。
 彼は熱く語る。
 「魚には、魚を演じてほしくない。ちゃんと魚をしてほしい。魚が演技をするわけじゃないけど、手を入れただけで寄ってくるような魚ではダメなんです」
 (・・・)魚が卵を産めば、隔離して稚魚を育てるのが普通だが、彼はそれも同じ水槽に入れて眺めているという。
 「稚魚は、ほかの魚に食べられてしまうから、時間が経つとだいたいいなくなる。でもそれが良いんです」
 とはいえ、彼はただ放置しているわけではない。水も取り換えるし、病気になったら薬もあげる。魚たちが暮らせるよう管理はしているわけだ。 
 「ただ、そこで起きる殺戮に関しては干渉しない。これが真のアクアリウムだと思ってる」
 つまり、水槽という人工的な環境の中で、魚たちに自然の摂理を味わわせているのである。
 「でもこれって、凄く大きなくくりで見ると、世界で起きてることだと思いません?」
 そう言われて、私はハッとした。拡大したら、ウクライナで起きていることそのものではないか。独裁者の管理下で同じ人間同士を戦わせ、その殺戮を世界中が鑑賞する。それこそがアクアリウムだと彼は言っているのだ。
 「僕は魚のことを愛してる」
 私はヒヤッとした。水槽はまるで、彼が支配する独裁国家だ。その手のひらの上で、魚たちは荒々しく生き、弱い者は淘汰されていく。」

「こうして、生き残りをかけた戦いをする魚たちを見て、彼は満ち足りているのである。
 「たまに、自分はサイコパスかな? って思うけど、よく考えると普通だと思う。僕はおかしくない。変じゃないよ。だって、みんなもそうでしょう?」
 これが人類の姿なのか。アクアリウムに、人間の真理があるということなのか。
 「これって人間らしさだよなと思うし、人間の悪いところだよなとも思うし、人間の良いところだよな、とも思うんです」
 そして、最後に彼はこう言った。
 「僕は水槽飼育を止められない」
 私の脳裏には、ブゥゥゥンという稼働音が不気味に鳴り響く四畳半の薄暗い部屋で、大きな水槽を眺める男の姿が浮かんだ。だが、期待して写真を見せてもらうと、お洒落な水槽がセンス良くレイアウトされた明るい部屋で、クソッと思うのであった。」

「水槽学的に考えると(そんなものないけど)、人間はどうも環境を作って管理したい欲求があるようだ。
 私のいる日本、東京、23区という括りはもちろん、町内会にまでさまざまなルールがある。例えば、ゴミ出しの場所まで細かく決められ、ちょっと間違いも許されない。国民には番号がつけられ、何かあれば監視カメラで行動がチェックされる。
 我々は、「万人の万人に対する闘争」が起きないよう、完璧に管理された中で、「さぁ、自由に暮らせ。人生をサバイブせよ」と言われているのだ。
 そのうえ人間は、自分たちだけでなく、動物まで管理している。野良犬は殺処分され、野良猫は地域猫と称して数が増えないよう去勢される。野生動物は、絶滅したり増えすぎたり、あるいは人間を襲う個体になったりしないよう、命が調節される。
 この世は巨大な水槽だ。水槽の中にいながら、さらに小さな水槽を作り、その社会を眺めて楽しんでいる。人間は、水槽から出ることはできないのだろう。」
 
「朝日新聞の記事によると、ある中学校では、生徒たちの手首にリストバンド型の端末をつけ、脈拍のデータから「集中度」を計測するという試みをしているらしい。生徒たちの集中度は、教員の端末に即座に反映され、一人づつ波型のグラフで表示される。波の振れによって、眠気やストレスなどが計れるのだそうだ。この試みは、授業の改善や、生徒自身の「振り返り」に使うことを目的としているという。
(・・・)
 人間は、自分たち人間を管理したくて仕方ないようだ。その欲求は、テクノロジーの発達によってどんどん形を変え、より高度になっていく。欲求そのものを抑える方向には進化できないのだろう。」
 
「もっとも、私はこの記事を読んで閃いたことがあった。せっかく、このような便利な技術があるのなら、授業改善のためではなく、性犯罪を起こすロリコン教師の早期発見のために開発すればよいのだ。そのほうがよっぽど有意義ではないか。」

「世の中では、ジャニー喜多川の性加害問題でもちきりだが、義務教育では生徒が逃げられないのだから、教員による性犯罪のほうが、よほど対策が急務なのではないだろうか。」
 
「実は、水槽の中で暮らす人間たちは、社会規範に縛られることへの抑圧から抜け出そうとする過程で文化を生み出している。彼らは、ルールで縛られれば縛られるほど、そこから逸脱する快感に身もだえするのである。完全なる自由など、おそらく変態たちは求めていない。
 「生まれ変わったら道になりたい」という言葉で有名な盗撮犯が、3度目の逮捕となった。その、無職・男性(36歳)は、2023年9月14日、側溝の中で四つん這いになって潜んでいたところを警察に発見された。彼は過去に2回、側溝の中に寝そべり、女性のスカートの中をのぞきこんで逮捕されている。
 おそらく彼は、側溝に入れるのなら、逮捕などもろともしないのだろう。逆に、彼から側溝を取ったら、生きる目的がなくなってしまうかもしれない。
 みなそれぞれの方法で、水槽の中で生きのびようと必死なのである。」
 
「生きのびると言えば、最近はインボイス制度がはじまるということで、私は生きのびれるのか不安になっている。こうも税金の仕組みが複雑すぎると、私の頭では理解が追い付かず、生きていく自信がなくなってくるのだ。社会は、一般市民がみな頭が良いはずだと思い込みすぎではないだろうか。
 もしも、インボイス登録者の全員が、確定申告を手書きで提出して、一斉に書き間違えたとしたらどうなるのだろう。役所の作業が追い付かず、新しい形のボイコットとなりえそうだ。ルールができたところで、国民が言われた通りに動かなければ、効力はないのである。
 そうした意味において、引きこもりは強い。
 第三次世界大戦がはじまるなどと言われるけれど、日本には引きこもりという強い味方がいる。赤紙が来たとしても、彼らは絶対に動かない。3.11では、津波が来ても部屋から出なかった猛者がいたくらいだ。命をかけて引きこもっているのである。
 日本に無気力な若者が大量に溢れれば、ただそれだけでボイコットになる。そう考えると、彼らは社会活動をしているともいえる。動かないけれどアクティビストだ。
 大規模な自然災害が起きたら、社会のルールも一発で無効になるだろう。
(・・・)
 芸能人が半分いなくなったら、テレビはどうなるのか。私はテレビを見ないけれど、タモリがいなくなった後のテレビは想像がつかない。情報一つとっても、我々は細かく管理されているのである。
 その管理が、もしもなくなったら? 市民が一斉に水槽の外へ放たれたとき、私たちは何を始めるのか。そこで暗躍するのは、社会規範に汚染されていない、引きこもりたちかもしれない。」

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