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大澤真幸「イマヌエル・カント「自由であれ」という命令」(文學界・2022年8月号・特集 入門書の愉しみ)

☆mediopos2797  2022.7.15

文學界八月号の特集
「入門書の愉しみ」のインタビューで
千葉雅也は「いきなり原典だけを読んで
理解できるようになる人は、現実問題としていない」ので
「入門書は勉強の範囲を「仮に」有限化する装置」であり
「最初に入門書でアタリをとらないと、そこから先に
どういうことを勉強したらいいかわからない」
ということを「勉強」の人らしく語っているが

原典をいきなり原語でということは
とりあえず外して考えるとして
特に過去の書物(テクスト)を受容する際に必要なのは
その書物が置かれているコミュニケーション状況を
把握しておく必要がある

その書物(テクスト)が想定されている読み手が
具体的な限られた人(たち)であるばあいもあり
そのときはその理解のもとに読む必要がある

またそれが専門家向けのものであるばあいや
ある程度一般向けのものであるばあいもあり
それぞれにおいてそれに沿った理解が必要となる

さらにはそれぞれそれが発信される背景となっている
時代や社会状況などを踏まえることはいうまでもなく
翻訳が介在するばあいには
その翻訳者の視点というのも把握しておくほうがいい

個人的にいえばとくに専門家でも研究者でもなく
「勉強」の人というわけでもないので
上記のことをある程度ふまえながら
いまの自分の知りたいこと考えたいことに
参考になるような仕方で自由勝手に読んでいるので
あまり堅苦しい読み方はしたくないと思っていて
ほとんどジャンルフリーな感じで読むのが好きだ

なので思想書もポエジーとして読んでみたりもする
その意味で「入門書」もさまざまなので
じぶんにとって良質と思えるものはそれなりに
そうでないものもそれなりに読めばいいと思っている
もちろん原典から読むときはそれもそれでそれなりに

さて「入門書の愉しみ」の特集のなかで
大澤真幸の「イマヌエル・カント」の項目があったので
それについて少し

カントはいかにも「理性」の人という感じがするものの
坂部恵が『理性の不安』で示唆しているように
スウェーデンボリ論『霊視者の夢』でもわかるとおり
むしろ「理性の不安」を払拭しようとでもするかのように
『純粋理性批判』的なスタンスをとっていたようだ

それゆえに『実践理性批判』では
「「自由であれ」という命令」を行っている
(と熊野純彦はとらえている)

「自由は自らを目的として行為することだが、
悟性的な認識の対象となる自然の領域には、
自由や目的は存在しない」からだ

カントは理性でとらえきれないものを
なんとか別のところで命法化する
つまりはそこに「不安」があるのだ

こうした読み方はほかの場合にもとても参考になる

なにかを「〜でなければならない」とするとき
(たとえば「論理的でなければならない」
「倫理的でなければならない」というように)
その「〜」に不安があるのだととらえることもできる

規則をつくるというのも
それがなければ秩序が保たれないためなので
そこにも秩序が破られるという不安が内在している
なにか問題があれば罰則を強化するとかいうのも同じ発想だ
そこでは自発的な自由の可能性は閉ざされてしまう

その意味で
「「自由であれ」という命令」もまた
両義的な要素がそこに含まれているようだ

■大澤真幸「イマヌエル・カント 「自由であれ」という命令」
 (文學界 2022年8月号 特集 入門書の愉しみ)文藝春秋 2022/7 所収)

「カントの哲学のよい入門書というものを、私は知らない。カントに関して、日本語のよい入門書が存在しない、と言っているわけではない。ただ、これを読んだおかげでカントがよくわかるようになったというような「入門書」に、私は出会わなかった。私がカントの哲学を専門的に研究してきたわけではないからだろう。カント哲学のほんものの専門書であれば、国内外のすぐれた入門書のこともよく知っているに違いない。この特集の執筆者として私は適任ではない。

ただ、海外の——とりわけ二〇世紀より前の——思想家や哲学者の書物を深く読むに際しては、ちょっとした「工夫」のようなものがあるとよいので、それに関連する形で、本をいくつか紹介したい。工夫というのは、次のようなことだ。「もの知り」になるためではない。それらの書物に、現在の私たちにも通ずる普遍性があるからだ。が、当然のことながら、思想家や哲学者は、それぞれの時代的・社会的なコンテクストの中で考えている。そのため、彼らの書物のどこに現在の私たちにも有意味な普遍性があるのか——確かにそれはあるのだが——、見抜くのは難しい。例えばカントに、スウェーデンボリという彼の時代の霊能者について考察した書物があるが、この本を読むことにどんな意味があるのか。

そうした困難があるので、私は、現代の日本において、それらの哲学書や思想書を読むことを通じて、アクチュアルにものを考えている人の本を読むことを勧めている。過去の哲学者や思想家の考えについての研究書ではなく、彼らを読みながら、考え哲学している現代の書物である。すると私たちは、遠く隔たったコンテクストの中で生み出された思想や哲学が、いかに直接に現代的でもあるか、その一断面を活きいきと知ることができる。そういう観点でカントに関連した本のことを振り返ると、私の読書経験からは、ただちに三冊の優れた書物が思い浮かぶ。

古い順に、まずは故坂部恵氏の『理性の不安——カント哲学の生成と構造』(勁草書房)。この本の中で、坂部氏が特に重視しているのは、今しがた具体例として挙げた、カントのスウェーデンボリ論『霊視者の夢』である。この本に、後の批判書の中では見えにくくなってしまった、カントの本来の問いと彼の迷いや不安が、率直な告白のように表れている、と坂部氏は読む。カントは、普通、典型的な近代哲学者と見なされている。しかし、坂部氏の読みによれば、カントには、近代的な理性の枠取りを越えて進む可能性、理性を相対化し嘲笑するポテンシャルも孕まれている。近代哲学の中心で、近代を相対化しようとする運動も始まっていたというのだ。

次は、本誌の読者はよく知っている本、柄谷行人氏の『トランスクリティーク——カントとマルクス』(岩波現代文庫)である。この本は、副題にある通り、マルクスを通してカントを読むものだ。マルクスとカントの間にはヘーゲルが挟まれているのだが、柄谷氏は、あえてヘーゲルをスキップして、マルクスからカントを読む。カントは、それ自体で読むと——社会学者の眼には——いかにも「社会学以前」という印象を与える。しかし、マルクスを触媒とすると、カントに社会学的構想力が内在していることが明らかになり、驚かされる。カントの哲学は、アソシエーション的な結合よりなる社会(コミュニズム)に倫理的な基礎を与えている。
 最後に、熊野純彦氏の『カント——美と倫理のはざまで』(講談社)。これは、カントの第三批判『判断力批判』を読み解いた本である。『判断力批判』の主題は、世界の中にどこに、「自由」や「目的」といった概念が棲まう場所があるのか、という問いだ。カントが提起したコミュニズムの倫理的な基礎とは、一言に圧縮してしまえば、「自由であれ」という命令だ。自由は自らを目的として行為することだが、悟性的な認識の対象となる自然の領域には、自由や目的は存在しない。では、それらはどこにあるのか。この問いは、『霊視者の夢』にはあったが、先立つ二つの批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』)では抑圧されていたことの回帰と見なすこともできる。熊野氏が、カントの苦悩に満ちた探求の歩みをきわめて明快に跡付けてくれる。」

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