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久々の、外の空は青い


はじめに


僕は先月末、北海道に旅行に行った。

札幌に小樽、食事は海鮮丼、じゃがバター、ジンギスカンなど2泊3日を謳歌したのだ。


地元に帰ってきて、3日。

電話がかかってきた。


電話は保健所から


内容は僕の乗っていた飛行機から今、大流行中のあの感染症を発症したというもの。


そうして、僕は濃厚接触者と認定され、外に出れない2週間が始まった。


ちなみに僕は発症しなかった。


けれど、2週間は外に出られない日々を過ごしたので、どんな感じで過ごして、何を思ったのかを書いていきたい。



何も感じないのが正解のはずだ


保健所からの電話を経て、まず取り掛かったのが電話だ。


アルバイト先への電話、一緒に旅行に行った友人への電話


アルバイトを2週間、急に休みになったことは申し訳なく思ったけど、そのほかは思ったより落ち込まなかった。


どちらかというと懸念は給料が減るなくらいのものだ。


その事実に自分でも驚いた。


友人と電話で話すと、友人はかなり落ち込んでいて、自分とのギャップに驚き、何て声をかければいいのかわからず、当たり障りのないことを述べて、電話を終えた。


自分はおかしいのだろうか?


そう思った。

落ち込まないし、むしろ、ふわふわ心が浮いて、すこし楽しんでいるようにも感じられた。


かかっているはずないという慢心がそうさせていたのかもしれない。


でも、楽しむというのは少し違うけど、落ち込むというもの違う気がしていた。


だって、病気だ。

予防もきちんとしたうえで、かかってしまった。

それは誰にでもあることだ。


ましてや、今回は濃厚接触者というだけでかかっているわけでもない。


落ち込むのはお門違いだ。

インフルにかかって、風邪を引いて、肺炎になって、落ち込むだろうか?

落ち込まないと思う。


世論が人の心に与える影響というのはとても大きいと実感した。


世論の風潮に踊らされず、初めから「どうせ2週間休みなら、やりたいことやろう」と思えたのは、ネガティブな僕からすれば、すごく大きな進歩だったのかもしれないと今になって思う。



何かが違う、何が違う?


普段しないことをたくさんした。


まず、家なのに髪をセットして、服のオシャレして1日を過ごした。

自分の身なりにいつもより気を使っているからか、ネットで服を買ったり、インスタで上がっている髪のセット動画なども見て、翌日試したりした。


普段やっている英語学習を見直し、座学をやめて、DMM英会話を始めた。

ライトノベルにのめりこみ、1日1冊ペースで読んだ。

オンラインサロンのオンラインイベントに参加した。


まあ、こんな感じで2週間過ごしたわけだが、考えてみれば、一瞬だったように思える。


少し塞ぎこんでしまうかなと不安に思ったりしたが、それは杞憂だった。


なぜそんな不安を抱えていたか、

それは大学1年の春休みに塞ぎこんでしまったからだ。


あのとき、ひとり孤独に感じていた。


バイトをして、YouTubeと読書で時間をつぶし、眠くなったら寝て、昼頃に起きて、また、バイトに行く。


今回の方が人に合っていなかったにもかかわらず、何が違うのだろうかと考えた。

ノートに書きだし、客観的に状況を整理する。


自分に問いかける。


自分はいつ孤独に感じるのだろうか?



孤独のスイッチ


僕が考えたのは、孤独を生む出すのは人に会ったときというもの


この2週間と大学1年の時の違いは、人との接触回数だと思っている。


この2週間は良くも悪くもほとんど人に会っていないし、見てもいない。

両親とオンラインで数人と話した程度だ。


それに対し、大学1年の時は、バイトなり遊びなりで色んな人を見て、話した。

たぶんここがポイントだ。


人との関わりは、自分の心を良くもするけど悪くするんだと思う。

それは直接的な関わりだけではなくて、

例えば、自分がフラれたときにカップルを見ると、空しくなる。

自分が受験に落ちたとき、その学校の生徒を見ると、悲しくなる。


まあ、こんな感じで間接的に自分で勝手に傷つくみたいなことがある。


もちろん、逆のパターンもある。

実際、僕が大学1年のときに、独りよがりな孤独を感じていた時にそこから抜け出せたのは友人と一緒にいて、楽しいという気持ちだった。


まあ、というわけで


人との関わりは心を良くも悪くもする。


そう思ったときにふっと頭によぎるのは、

嫌なん気持ちになるくらいなら、良くならなくていいから人との関わりをやめようという考え。


すごく良くわかるし、そっちに行きたくなる。


けど、それも違うと僕は思っている。


単純に嫌な思いしたくないから良い思いのする方も一緒に捨てるという考えは、逃げているなと思うからだ。

これは感覚的に嫌だという話。


人は基本的に幸福になるために生きている。

幸せを望まない人はいない。


その幸福の大きなリソースを占める人間関係における幸福を捨てるということは絶対的な悪手であるし、逃げだ。


好きの反対は無関心とはよく言うが、

ここでも一緒で嫌なことのすぐそばに楽しいことや嬉しいことが眠っていると思う。


人との関わりは、人を孤独にさせる。

それは僕は事実だと思う。

だけど、孤独を抜け出すのに必要なのも人との関わりだと思う。


おわりに


僕は何かを啓発するような特別なものは持ち合わせていないと思う。

だけど、ただ言いたいのだから仕方がない。

もちろん、読んでほしいし、褒められたい。

けど、別にこの投稿が何かを変えるとも思わない。

むしろ何かを変えようとしている人がいるなら、それは1度止まってみてほしい。

僕は責任をもてない。

僕は自分の頭にあるものをただ書きたいだけだから。

だから、今回の記事についても、聞き流してもらえればいいと思う。


今回は、僕の経験からくる考えを描いた。

人が何かを誰かに訴えるときにその人の経験以上に説得力のあるものはないと思った。

否定的な意見であれば、なおさらだ。

政治家を否定するなら、政治家の経験のある人

お金持ちを否定するなら、お金持ちの人


経験のないものの否定は羨望からくる僻みがほとんどだと思う。

そもそも否定は心の中だけにしておきたいが、これから僕は僕の経験を書いていきたいと思った。


こんなに自分を縛って大丈夫だろうかと不安を告白して、今日は終わりにする。














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